…………春が近いな、とジャンは思った。
帰り道、桜が並ぶいつもの坂道を下って行けばぽつぽつと固い蕾が見え始めるらしい。
時々風にねじられながら、それは微かに甘いにおいを放っていた。
隣を歩くジョゼもまた少し温かくなり始めた空気に心地良さそうに目を細める。
ジャンは…ほら、と自然に自身の腕を示した。
妹は数回の瞬きの後、遠慮がちにそろりと手を回して寄り添ってくる。いかにも穏やかな初春の日和であった。
「お前さあ……」
並んで歩きながら、ジャンは無口なジョゼへと話かける。彼女は軽く相槌を打った。
「マルコが告白されたって知ってるだろ。」
ジョゼはひとつ頷く。
「………なにも思わねえのか」
兄の質問に彼女は少々考える素振りをした。
それから、「なにも思わないわけじゃないけれど、思っても仕方ないから……」と小さく言う。
「それにもしマルコが私じゃなくてその子を選んでも……どうしようもないよね。
私にそれを駄目だって言う資格は無いし。」
「資格ならあるだろ……。お前とマルコは一応好き合って互いを恋人だって認めてるんだろ」
「…………そうだね。」
ジャンはなんだか嫌になって、ひとつ溜め息をした。
それから「あーあ、知らねえぞ。あいつがお前以外の女と仲良さそーにしてお前にまっっっったく構わなくてなっても。」と声を一段張り上げて言う。
きょとりとした顔で……ジョゼは隣の兄を見た。横目で見返される。
「そしたらお前……クラスで他に友達いねえんだろ。休み時間も移動教室も一人だぞ。
それに目の前であれが別の女とイチャついて、それで平気かよ」
彼女は何かに気が付いたようにハッとした表情をした。そうして俯く。
………本当は、ずっと胸の内は悶々として苦しかった。けれどそれをどう表現したら良いのかがよく分からないのだ。
「全然………平気じゃないと思う。」
けれど、兄にだけはなんとか素直な気持ちを言うことが出来る。
沿えるようにしていた掌にぎゅっと力こめて、ジャンの腕を抱いた。
「それなら早いうちにマルコに直接伝えておかねえとな。
…………手遅れになってからじゃ何言っても仕様がねえぞ」
「うん………。でもどうすれば良いんだろう。
もし、マルコの気持ちが私から離れてしまうのなら…それを無理に留めることはしたくないのだけれど。
……………。彼の幸せが、一番だと…………」
やや強く風が吹いた。
蒼天を透かせた枝々に綴られた赤い蕾も、それに合わせてゆらりとする。
「お前がなあ……それで良いんならオレはなんとも言わねえが」
ジャンはジョゼに手を離すように促した後、その肩を抱いた。
妹は俯いている。どうしようもなく面倒な奴らだとジャンは非常に呆れた気持ちになった。
「まあ……なんだ。オレだってお前が幸せなのが一番良いんだよ」
のんびりとした足取りで、既に坂のほとんどを下り終える。
ジョゼは軽く唇を噛んでいた。
「…………折角平和な時代に生まれることが出来たんだ。もう、我慢はいらねえだろ。」
そうして一緒に幸せになるんだよ。とジャンは独り言のように零す。
…………ジョゼは顔を上げて遠い空を眺めた。どこまでも続いて、何にも遮られることは無い。美しい光景だと心から思った。
ありがとう、と彼女は小さく礼を述べる。ジャンは何も応えずにもう一度妹の肩を抱き直した。
*
(…………………。)
帰宅後、ジョゼはずっと上の空であった。
もう……自身の心に対する結論は充分に出ていたのだが、何度も何度も考えては堂々巡りに陥ってしまう。ひどくもどかしかった。
(マルコは格好良いよね。所謂……イケメン。)
入浴中、ぼんやりと彼の笑顔を思い描いてはそんなことを考える。
爽やかな表情や仕草に思いやりのある行動。誰から見たって好かれる人間だと思う。彼の素晴らしいところを挙げていけばそれこそキリが無いとジョゼはひとつ息を吐いた。
(………そりゃあ…好きになる女の子だっているよ。)
でも、マルコは自分を愛してくれている筈である。本当に長い間想っていてくれた。それは信じている。
(ただ、気持ちが変わることだってある。人間だもの)
そのままで浴槽に鼻の辺りまでぶくぶくと顔を沈めた。少しして苦しくなったので元の姿勢に戻る。
(いや……そんなことを考えるのは失礼だよね。すごく、私を大事にしてくれて……沢山優しくして、これ以上にないくらい愛情を)
もしそれが、自分以外の誰かに向けられるようになったら
「っ…………あ、」
その可能性を考えた途端、ジョゼの胸中にひどい痛みが走った。
苦しくて辛くて、思わず声を上げてしまう。呼吸が荒くなる。それを沈める為に心臓の上に掌を置いた。浅い拍動が伝わってくる。
(…………でも、でも。そうなっても………留めるのはよくないって、ずっと………)
でも。
こんな不安は久しぶりだった。けれど……マルコに直接打ち明けることは出来ないのだろう。
臆病な自分を叱った。自己嫌悪には慣れているが、今は一際である。
もし尋ねて、考えうる一番悲しい応えが返ってきたら?
耐えられる気が………もうしない。
「マルコ………」
名前を呼ぶと狭い浴室にぼんやりと響いた。
………皺がよってしまった眉間を揉んで、浴槽にもたれる。ちっとも気持ちは楽にならない。
いつの間にか、湯は冷めて不快な温度になってしまっていた。
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