見据えられると掌握されたかのように動けなくなる。
蛇に睨まれた蛙。
馬に睨まれた厩務員。
背中にひやりと汗が伝った気がする。
そう威圧感の溢れる馬なんて、なかなかいないだろう。

「なんでしょうか」
「何で敬語なんだ」

わたしと話していてもカスケードは別のところに意識があるようで、あまり目を合わさない。かち合う視線は、するりと外され地におちる。
わざわざ通り道を遮るように登場したにも関わらず、カスケードは黙ったままだ。ひとを困らせるような馬では、決してないのだけれど。だから余計にどうしようもなくなってしまう。


よくわからないが、彼は何かに対して怒っている、のだと思う。
目の前にいるのは、わたしだけ。
わたしに対して憤慨しているのだろうか?

カスケードが一歩距離を詰める。
わたしは反射的に一歩下がる。

しかし背中が壁についてしまい、それ以上の後退は許されなかった。
…ん?壁?
よろめきながらも頭上に青空が晴れ渡っていることを目視する。厩舎の外に、壁などあるわけがない。
わたしは勢いよく振り返る。
そこには栗毛のふさふさとした壁…もとい、アマゴワクチンが悠々とそびえ立っていた。

「ワクチン!」

カスケードが変なの!そう続けようとしていた言葉がつまる。
ワクチンもまた、カスケードのように神妙な面持ちをしていたから。なぜ。
ワクチンに助けを求めようとしたが、きっとわたしはワクチンにも厭な思いをさせてしまったに違いない。寛大な心意気を持ち合わせるワクチンを怒らせるなんて、いったいわたしは何をしでかしたのだろうか。

「生きててすみません…」
「顔、どうしたんだ」
「ブサイクですみません!」
「違えよ」

深々と下げた頭の、後頭部をワクチンに小突かれる。ごす、とにぶい音がした。
顔を上げると、ワクチンは呆れたように笑っていた。
カスケードの方は…見るまい。なんかまだ怖い気がするから。

「切れてるぞ」
「ふは?」
「血が出てる」

顎で指し示された右頬に触れると、わずかに濡れた感触が手に伝わる。微かに赤が滲んだ指先を見る。たいした量ではない。

カスケードに出会う前にプレミアとすれ違ったのだが、彼は「大丈夫ですか!?」と必死な形相で何度も何度もわたしに訊ねていた。
無責任に大丈夫と答えたものの、プレミアが何を指しているのかわからなかったのだが…、どうやら顔の傷のことだったようだ。よしオッケー、大丈夫!

「ほんとだー」
「で?」
「何がっすか」
「お前は…もう少し自分に関心を持て」

ワクチンは目を閉じて、不機嫌そうに眉間にしわをよせている。
強面の二頭に挟まれているこの状況。
ワクチンの登場から閉ざしていたカスケードの重たい口が開く。

「誰にやられた」
「じ、自分で…」
「名前ちゃんごめんなのねー!」


遠くから小さな白い生き物が絶叫しながらやってくる。
たれ蔵くんはあっという間にわたしたちのところまで駆けつけてきた。マスタング走法のむだ遣いだと思う。
泣きわめくたれ蔵くんは、わたしの両サイドに立つカスケードとワクチンの存在に気づいていない。

「テルくんは悪気があった訳じゃないのね!」
「わかったから!たれちゃんわかったから!」
「だから許してほしいのねー…」

たれ蔵くんは喚きながら次々と涙を溢れさせた。わたしは厩務服の袖口を引っ張って、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭いてやる。
なんだか面倒くさい展開になりそうだなあ。

テルくんの蹴ったサッカーボールがわたしの顔面にぶつかった。ただそれだけなのに。
小学生の蹴ったボールでノックアウトするなんて、自分の恐ろしく鈍い運動神経を呪う。

視界に大きな影が2つゆれる。
本意ではないものの、わたしは彼らに嘘をついたことになる。

「テルってアローのとこの餓鬼だろう」
「…だったらなんなの」
「踏む」
「潰す」
「そんな仲良かったっけ君ら!」
「んあーカスケードとワクチンなのね〜」


いまここにテルくんが現れないことを真剣に祈る。

気がつけば競馬界の三強が集まっている。競馬新聞社の記者がいたら、トップ記事が出来上がりそうだ。
一同会することすら稀だというのに、騎手も連れずに何をやっているのだろう。ここはトレーニングセンターですよ。

ふと気づく。ゲートの出入口に人が立っている。カスケード、ワクチン、たれ蔵くんの騎手が談笑している様子が見える。いるじゃんか、騎手!

山中さんだけが、彼らに気づいたわたしに気づいたようで、ひらひらと手を振っていた。そんな愛想はいらないから、早くこの馬たちを連れていってほしい。
そんな願いをよそに、また新たな蹄の音がやってきた。


「このクソアマ!テルに何さらすんじゃ!」

図ったかのようなタイミングで、モーリアローが猪突の勢いでこちらに駆けてくる。
辺りを見渡す。テルくんはいないようだ。テルくんの不在はこの場において正直ありがたい。どんどん収拾がつかなくなってくる。


「テルくんになんかしたのね?」
「やだなあ、ちょっぴりひっぱたいただけよ」
「それや!」
「かほご!」
「テルを泣かす奴は許さへん!」


テルくんはわたしの再三にも渡る注意をろくに聞かず、トレセンでアローを待っている間サッカーをしていた。
一人ぼっちでつまらないのは承知しているが、サッカーボールを預かっている他の馬にぶつけられては困るのだ。
実際にぶつかったのはわたし自身だった訳だけど…。
わたしはテルくんを叱った。馬主さんの子だからとか、関係なしに叱った。馬が第一、それが美浦の厩務員だから。
しかしテルくんは泣きながら「クソババアー!」と捨て台詞を残して走り去った。
口で言っても手をあげても伝わらないなんて、最近の子供の扱いは馬より難しい。


「アローか…」
「ちょうどいいじゃねえか」

物騒な物言いをするカスケードとワクチン。アローとわたしの間にずい、と大きな身体を差し入れる。アローはびくりと身体を揺らし、一瞬怯んだ。だが簡単に引き下がらないのが浪速の馬、モーリアローなのだ。

「なんやねんおのれら!」
「大事なもんに傷が附いたら怒るだろうが」
「せ、せやかてテルとサッカーしてたんはマキバオーやで」
「んあ!ひどいのねアロー!」
「ほう…」
「わ、ワクチンこわいのよ」


ワクチンが詰め寄る。怯える二頭。
とめなきゃ、と一歩足を踏み出すと首が締まった。カスケードが厩務服の襟を噛んでいた。

「もー!みんなやめてよ!」
「なに、灸を据えるだけさ」
「そんな大したことじゃないでしょー」


なかなか騒ぎのおさまらない一団に、また新たな蹄の音がやってくる。ただ、ここの一団とは違い、その馬は鞍を着けて騎手を乗せている。正しい競争馬の姿。練習から戻ってきたサトミアマゾンだ。
息は荒く、汗もかいている。かなりの長距離を走ってきたのだろう。

アマゾンと目が合ったので手を振った。襟首をカスケードに噛まれたままなので上手く振り向けない。騎手の正木さんが肩を震わせ、空手を抑えながら笑いを堪えている。
アマゾンはこの状況を笑うだろうか。赤いメンコで隠れていて、彼の表情はいまいちよくわからない。

「おつかれさま、アマゾンと正木さん」
「相変わらずだな」

ぶるる、と嘶いてアマゾンは頭を振る。轡と手綱がかちゃかちゃと鳴る。
カスケードに襟を離してくれる様子はない。むしろさっきよりもきつく締まった気がする。
みんなもアマゾンのように、早く走りにいってくれたらいいのに。G1ホースがこぞって何をしているのだろう。

「名前」
「なあに?アマゾン」
「逃げた方がいいぞ」

首を傾げる。逃げる?何から?
アマゾンに言われるまでもなく、わたしはこの状況から逃げ出したいというのに。
忠告の意図がつかめなくて、アマゾンに言葉の続きを求める。
アマゾンはわたしではなくカスケードに向かって言う。メンコから見える口許は、不適に笑っているようにみえた。

「ベアナックルがいる」

だからなんだっていうのだ。



「ベアが!?」
「ベアナックルやて!?」
「んああ!?」

傍らの三頭がぴたりとにらみ合いをやめ、一斉に振り向く。後ろで襟を噛んだままのカスケードは何も言わなかったが、わたしの首は先ほどよりももっと締まった。苦しくてカスケードの顔を二、三回軽く叩くとようやく離してもらえた。
ベアがコースに出ているということは、真面目に調教してるってことだろうか。あの仮病ばかりする馬が。

「逃げろ、名前」
「いまのうちなのね!」


馬五頭に囲まれた。途端に慌ただしくなる彼らを不審に思う。いきなり逃げろ、と言われても…。展開に追いつけないわたしは呆気にとられる。

「名前ちゃあああああん!!!!!」


「来たようだな」
「んああッ!アマゾン冷静過ぎるのね!」

誰よりも騒がしい蹄の音と叫び声が、トレセン中に響きわたる。
突進する勢いのまま、ベアナックルは此方へ走ってくる。騎手は乗っていない。鞍もゼッケンも無い。調教していたんじゃないのか。


「ワクチン止めるのね!」
「俺が…?」
「同じ栗東のよしみだろうが」

たれ蔵くんがワクチンに丸投げし、アマゾンがさらにだめ押しした。ベアナックルが近づいてくるのを一瞥し、自分の役目は終わったと言わんばかりにアマゾンは自分の厩舎へ戻っていく。


「もう来ちゃうのよ!」
「ぬおあああ名前ちゃああああん」
「何でお前あないに好かれとんねん!」
「し、知らないよ…ぐえ」


再びくわえられる襟首。そのまま前進するカスケードに引き摺られる格好になる。
ワクチンが牽制するように鋭い視線でカスケードを射抜くが、それに気づいたのは後ろ向きに引き摺られるわたしだけだ。
ワクチンと目が合えば、彼はあきらめたようにため息をついたあと、苦く笑った。片眉を吊り上げる笑い方は、兄貴のピーターUにそっくりだ。

ワクチンはベアナックルと対峙するためにくるりと背中を向ける。その背中にわたしは何か言うべきなんじゃないか。しかし、躊躇し疎かになる足取りに構わず、襟首は引かれる。

「カスケード、くるし…」
「なら乗れよ」
「滅相もないよ」
「名前ならかまわない」

いち厩務員が関係者の許可なく競走馬に跨がっていい訳がない。億という単位の賞金を稼ぐ馬なら尚更だ。
遠ざかっていく騒がしい一団を気にしながら、わたしはカスケードに連れられていく。山本さんと山中さんが慌ててたれ蔵くんとワクチン目掛けて駆けていく。


十分距離が空いたからか、長らくくわえられていた襟首が解放される。
今さら戻る気も起こらないので、カスケードど並んで歩く。おそらく本多厩舎に向かうのだろう。そこには姿を消した服部さんもいるはずだ。もうなんか疲れた。本多厩舎でこっそりサボらせてもらうことにする。あそこで頂戴するお茶は美味しいのだ。

ふと、隣を並び歩くカスケードが覗きこんでくる。
出会い頭にも同じように視線を向けられたが、もうそのときみたいに怖くはない。


「大丈夫だよ?」

ぺちぺちと右頬を叩く。傷は乾いて自分ではもうどのへんにあるのか見当もつかない。


「あのガキ、許さねぇ」
「みんな大げさなんだってば」
「それだけお前が好きなんだろう」
「…すっ、素直ですね」
「何で敬語になるんだよ」



だいぶ遠ざかって小さくなったワクチン達。建物の陰になってしまう前に、もう一度わたしのために奮闘する一団を拝もうとする。だが、そうはさせじと振り返ろうとするわたしの頭をカスケードは鼻先で力強く突いた。愛が痛い!