塗りたくった日焼け止めが滝のような汗とともに流されていく気がする。わたしの腕はこんなに浅黒かっただろうか。照りつける太陽の下から厩舎へと避難する。

暑い日が終わらない。例年を越える記録的な猛暑、らしい。テレビに映る日本列島は、真ん中あたりが赤く染まっている。厩務員達の頭を悩ます日々が続く。
馬達への影響をおそれて対策がうたれた。放牧の時間が少しずれて、短くなった。物足りなさそうな馬達を、なかば強引に馬房へと戻す。外はまだ明るいのに。若い馬は不平不満をもらす。わたしだって、狭い馬房に閉じ込めるのは気がひける。
特に彼らは、走ることを覚えたばかりだ。よけいに窮屈を感じるのだろう。
しかし、現に暑さで体調を崩した馬が何頭かいるのだ。


ひとつひとつ、順番に馬房を覗く。体調を崩した馬は未だ飼い葉の減りが芳しくない。飲み水ばかりが減っていく。
その隣の房に移る。母に寄り添う仔馬がこちらに気づいて駆け寄ってくる。牧場へ出してくれると勘違いしたようだ。柵の隙間から鼻先をぐいぐいわたしの身体に押し宛ててくる。ちいさなからだが此処から出してと訴える。母馬は困ったように笑って、仔馬の尾を軽く引いた。ごめんね、と呟いて顔を撫でると、仔馬はがっくりと項垂れた。ああ!罪悪感!


「あまりそいつを困らせてやるなよ、坊主」

向かいの房から声がする。先日、競走を終えて帰ってきたワクチンだの声だ。
仔馬は口をつぐみ、再び母親に寄り添った。ワクチンの鶴の一声は威厳たっぷりで、尼子の馬達ならばたいてい彼のいうことをきく。振り向いてワクチンの房の柵に手を置いた。おおきなからだに向き合う。

わたしはワクチンが生まれたときから此処にいる。
母親に寄り添う彼も、兄の影に隠れる彼も、ずっと見てきた。

「調子はどう?長旅で疲れてない?」
「お前よりはマシさ」
「そんなことないよ」

牧場に残る厩務員は通常よりも少なかった。一時的に実家へ帰る人が続出したからだ。農業を営んでいる家が多く、秋になると収穫だと言って人員を欠いた。お陰で尼子牧場の仕事は残った者に託された訳だ。いつもより忙しく、不慣れなことがふりかかった。

「静かだな」


人は出払っているし、馬達は大人しくじっとしている。
わずかに音はすれども、ものごとは止まっているみたいに思える。
わたしは手をのばし、ワクチンの白い鼻先を撫でた。
彼がちいさな仔馬だったころを鮮明に思い出す。よくぞここまで成長したなあ。
鞍を構えた彼は今、闘将とあだ名されるほど勇ましい。


「…そんな顔するなよ」
「あた」


手のひらをすり抜けて、頭を小突かれる。
被っている作業帽のつばが傾いて、視界を遮った。
直そうとして手をのばすと、ワクチンが口先を器用に使って帽子のつばをさらに押し下げた。
慌てるわたしをよそに、ワクチンは珍しく屈託なく笑った。

「帰ってきた甲斐があるぜ」
「ちょっとやめろよ闘将!」
「お前がいるから、」


彼をずっと見てきた。これからも、そうでありたい。
疲れ果てても、拠り所があるというのは安心するから。
目まぐるしく移り変わる勝ち負けの世界で、生き抜いていく辛さは、そこにいる者にしか知り得ない。

変わらないものを与えてあげたい。
つくりものの永遠だけれど、

「おかえりなさい」

空を掴む手に擦り寄る温かさ。
帽子のつばを持上げる。
お前には敵わない、と言ってワクチンが笑う。
たとえ何年経っても、わたしにとって彼は幼い仔馬と変わりないということ!