「親分さん、大福いりますか」
「んな甘えもんいらねえよ」
「ネズミさんは雑食なのでは?」
「ハッ!お前にゃ敗けるがね!」


では遠慮なく。がさがさと包装紙を解いてまあるい大福に噛みついた。餅が伸びて、ぷちんと切れる。白い粉が舞う。砂糖が多めの餡は甘過ぎる気もするが、白い餅は柔らかで美味しかった。包装紙には「稲敷名物」と印字されている。美浦トレセンの売店で売っていたような気がする。
先ほどすれ違った名も知らぬおじさんに頂戴したのですよ。そう告げると親分さんはたいそう人を小馬鹿にした深いため息をついた。

高校の制服を着たまま競馬場をうろつくと目立つみたいで、いろんな人に声をかけられるようになった。娘や孫ほど歳が離れているせいか、親切にしてもらうことが多い。戴くお菓子のチョイスは若者のニーズを外しているが、大福や煎餅や黒あめはわたしは好きだ。
馬券を購入する訳でもないから、追い出されるようなこともない。競馬新聞を片手に相談されるなんて、日常だ。

「君は馬をよく見ているね、ってほめられたの」
「確かに名前の予測は当たるって評判だがよお、学生として誉められたようなもんじゃねえだろ」
「親分さんて真面目ね」
「うるせえ小娘!」

ターフには調教中の馬がたくさん駆け回っている。親分さんはラチに座って、たれ蔵くんのライバル達の視察をしているのだと言う。いつも一緒のたれ蔵くんは休憩中らしい。
今度の出馬についての対策やらを尋ねれば、熱い意気込みのみを返された。頼もしい限りである。

突然、あちらこちらから鳴り響く蹄の音の群生から、一つだけゆっくりとしたものが抜け出してこちらに近づいてくる。親分さんは顔をあげて、にやりと不敵に笑った。

「わわ!カスケード!」
「久しいな」


輝かしい黒い馬体がラチの向こう側までやってきた。カスケードの調教はほとんどを本多さんのところで済ましてしまうから、トレセンはレース直前に使うくらいであまり現れない。なかなか会えないものだから、よっぽど北海道まで高飛びしてしまおうかと思っていたのだ。
カスケードは長い首をぴんと伸ばして辺りを一瞥する。
「あいつは一緒じゃなねえのか」
「休憩中でぇ。併せはよそに頼みな」
「たれ蔵くんムキになるから併せ馬の相手に向かないよ」
「違えねぇが…、他人に言われるとむかっ腹が立つぜ」
「よい、っしょ!」


腕を預けていたラチによじ登る。片膝を乗せたところで身体がふらつき、すかさずカスケードが首を差し出して支えてくれた。
不安定な細いラチの上に親分さんと二人並んで座る。両足が地面から離れる。ぶらぶら前後に揺らすと、柵から軋む音がした。これは流石に、誰かに見つかったら怒られるかもしれない。

「ガキだなお前はよ」
「カスケードの近くで話したかったのですよ」


カスケードは目を閉じて薄く笑った。いつも話すときは首を窮屈そうに下へ曲げている。けれど今は高いところに登った分、首を真っ直ぐにしてきれいに立っている。いつもより顔の距離が近くて、表情をしっかりと伺える。
カスケードが近くにいる。此処にいる。それがたまらなく嬉しくてわたしも笑った。親分さんが再び大袈裟なため息をついた。
「俺ァもう戻るぜ、お前さんたちにゃ付き合ってられねーや」
「またね親分さん!」
「あんまり小娘を甘やかすんじゃねえぞカスケードさんよ」
「そいつは約束しかねるな」
「ケッ!」


親分さんは軽やかにラチから飛び降りて、あっという間に小さくなっていった。小さな背中に「稲敷名物」の大福を担いで。ポケットを漁ると最後の一個が消えていた。なんとなく手持ちぶさたになって、そのままブレザーのポケットに手をつっこんだままにしておく。

「北海道まで会いに行こうとしたんだよ?」
「此処にいろ。俺が名前に会いに来るさ」

カスケードの長いたてがみが風になびく。飾らない言葉に思わず赤面する。誤魔化すように「お土産に今度、白い恋人ちょうだい」と訳のわからないことを口走ってしまった。やや間があって「頼んでみる」とカスケードが唸る。服部さんにかな。本多さんにかなあ?
ふわふわとした風が肌をすべっていく。とりとめのない時間が去っていく。

熱を孕んだ夏の風はいつもよりも優しく感じる。
渇いた口のなかは、大福の甘さがなかなか消えなかった。