突然のブラックアウト。

目の前が一瞬で真っ暗になる。
その割には意識がはっきりとしてる。不思議だなあなんてのんきに暗闇を眺めている。
それは、艶々と輝くなだらかな平面だ。奥行きの無い黒い闇だ。それは、

「あれ、カスケード?」
「…無事か?」


暗闇の色はカスケードの青鹿毛だった。手のひらを置けば人間よりもやや速い脈が伝わってくる。綺麗にブラッシングされた短い毛が、頬に触れて気持ちよい。服部さんと本多ファームの人たちに大事にされているのがよくわかる。
カスケードが首を曲げて困ったようにこちらを見る。暗闇から浮上した意識が理性を取り戻していく。血がめぐるようにじわりじわりと、わたしは焦りを感じた。

わたしはカスケードの腹にぐったりと身体を預けている状態だった。カスケードは四足を折り畳んで土の上に座っていて、のしかかったわたしのせいで身動きがとれない様子だったのだ。
競馬界の帝王を枕にして寝るなんて…訴えられたら絶対に敗ける。

「ごめんなさい!」

勢いよく立ち上がる。すると、取り戻した意識が再び遠のきそうになった。くらくらして真っ直ぐ立っていられない。たまらずカスケードの身体に手をついた。おかしいな、何だこれは。

夏の日差しは容赦なくわたしたちを照りつける。
まぶしいけど暑くない。
むしろ、寒さを感じた。

へなへなと座り込み、情けない姿をスーパーホースに晒している。
謝罪の言葉を口にしようとしたけれど、うめき声がわずかにもれるだけだった。


「おそらく貧血だろう」

貧血。そうか、これは貧血だったのか。背中を伝う汗がぞくりと寒気をさらに煽る。


「うう…ありがとうねカスケード」


さっきみたいに急にじゃなくて、ゆっくりと立ち上がる。うん、どうにかなりそうだ。礼を告げてその場を離れる。カスケードには悪いことをした。あとで差し入れしよう。それと服部さんにも謝っておかなければ。ふらふらとした足取りで歩き出す。
えーと何をしようとしてたんだっけ。厩舎を出て、それから倒れたから…

「おい」
「ぐえ」


襟首を咬まれて歩みが止まる。
首が締まって妙な声を出してしまった。
振り返るとカスケードは襟首を離し、わたしを見下ろした。
カスケードは少し怒っているようで、同時に少し呆れているようにも見えた。


「どうしたの」
「何処へ行くつもりだったんだ、」
「厩舎の掃除が終わったから…とりあえず倉庫?」
「呆れた奴だな」


今度は襟首ではなく、作業服の裾を軽く咬んだ。そのままゆっくりと歩がすすむ。蹄の音が緩やかに間隔を空けて鳴っている。
手を引かれるがままカスケードのあとを追う。首を曲げたままだと歩きづらそうだったが、振りほどくことなんて出来そうにない。手の先から優しさが、じわりじわりと血がめぐるように伝わってくるから。


「なんだか手を繋いでいるみたいね。」
「…へばった癖に余裕じゃねぇか」
「平気だもの」
「大人しくしてな、お姫さま」


連れてこられた木陰で座るように促される。
仕事が…、と口にすれば険しい顔をするものだから、大人しく芝の上に座るしかない。

小高い丘の上からはターフがよく見えた。
丘から姿を消したカスケードが次に現れるのはあそこだ。
ここからターフがよく見えるということは、ターフからもこちらがよく見えるということだ。
わたしがこっそり仕事に戻ったとしても、カスケードにはすぐに見破られてしまうのだろう。同時にオーナーにもサボりがバレてしまう訳だが、カスケードに免じて許してもらえるかもしれない。

わたしは大人しくカスケードの勇姿を拝む。
白っぽい光をはなつ太陽は、スポットライトのようにカスケードを照らすことだろう。

彼がターフに現れるまでの時間、あの優しい暗闇のことを想い続けた。
時間が動き出して、汗が流れる。
わたしは寒さを忘れ、夏らしい熱を取り戻していった。