「まぶしっ」


栗東トレーニングセンターは今日も雲ひとつない炎天下に曝されていた。もう9月になるというのに容赦ない。たまに吹き抜ける温い風に芝が身を揺らすだだっ広い牧場では日影を捜すだけで一苦労してしまい、本来の目的をあっさり見失いかける。すぐに吹き出した汗が背を伝いシャツに吸い込まれていくのが嫌で、無駄な足掻きとは知れていたが振り切るように小走りに駆けていった。今いたセンタールームと牧場を挟んで真反対に位置する厩舎に到着し、冷たい外壁に寄り掛かりながら息を整えていたらすぐ横の扉が開いた。ドアノブを握ったまま騎手の山中さんは私を見て目を丸くさせながらも挨拶してきた。律儀な人だ。からからに渇いた喉から声を絞って挨拶し返す。


「ちわ」
「今からあっち行こう思っててん」
「…そう、これ、新聞です」


にぎりしめていた数種類のスポーツ新聞を山中さんに突き渡す。手汗で記事が滲んでいたら申し訳ないが私の役目のひとつはこの新聞を彼に渡すまでなのだから後のことは知るものか。文句は受け付けん。


「わざわざ届けてくれんでもよかったんに…ありがとな」
「1面に載ってるよ。ほら」
「ん、ああ。やっぱり騒がれるもんなんや」


山中さんの大きな手でしわを広げられた新聞の見出しはどれも『ピーターUの弟・アマゴワクチン台頭!』
……ピーターUの故障から一ヶ月が経とうとしていた。影で行われたワクチンのデビュー戦は地味な凡走で特に目立つこともなかったが、朝日杯に出馬すると決定した途端に関係者が盛り上がった。少し前まではピーターの故障で持ち切りだった紙面は目まぐるしい話題の転換を見せていた。最近の競馬界は異様に賑わっている。ワクチンの代はいろんな意味で「強い」馬が揃っているからだ。
勝ちにくい世代や。ピーターから降りてワクチンに乗り換えた騎手・山中さんはうなだれていた。自信がないわけでもないだろうに、意外と気が小さい。こんな状態では朝日杯前の京都Sさえ勝てるか怪しい。ワクチンはピーターUから走ることの意義を教えてもらってやっと自覚が出始めてきたのに。

照り付ける陽射し。牧場には2、3頭の馬がちらほら走っているだけで私の目的はまだ見つからない。山中さんはふんふん頷きながら新聞をめくっている。眺めた横顔のこめかみに汗が伝っていった。


「ものすげー暑いですね」
「夏やんな」
「ピーターとワクチンに夏休みちょうだいよ」
「そうは言うても俺はただの騎手やからなあ。立原せんせーに聞かんとさ」
「立原せんせー!夏休みくださあーい!!」
「絶対聞こえてへんよそれ」


両手を突き上げて力の限り懇願する私を苦笑しながら山中さんも同じポーズをとった。二人揃って伸びをしていると、蹄の音が近づいてくる。ゆっくりゆっくり歩む馬。私たちの足元にかかる大きな影。


「ワクチン!」


もうひとつの目的を見つけて顔を緩ませた私を尻目に、あかんヤカンの火ィかけっぱなしやーと白々しい嘘を吐きながら山中さんが室内へ消えた。余計な気遣いが逆に恥ずかしい。ていうか騎手なんだからワクチンともっと仲良くすべきは彼だろうに、それでいいのか山中!


「山中ー…」
「二人で何してたんだ、その手」


指摘を受けて上げっぱなしだった両手を降ろした。そのままぶんぶん振ってごまかそうとする私をワクチンは喉を鳴らして笑う。


「相変わらず変なやつだな」
「むっ」
「今日はあんまり暑いからてっきり部屋で腐ってるかと思ったが…」
「腐るとか女の子に向けた台詞じゃないし。私だって忙しいんですーただ走ってるだけのお馬さんとは違ってー」
「言うじゃねえか」


ずい、と詰め寄ってくるワクチン。でかい。もっと鍛えればピーターUよりも大きくなるだろうと立原せんせーは言っていた。


「なにか用か」
「別に。ちょっと様子見とこうかと思っただけ。暑いからセンターに帰るよ」
「…………」
「わっ」


ワクチンの横を擦り抜けて、来た道を戻ろうとしたらシャツの襟首を噛まれ、ぐい、と強く引っ張られた。後ろに大きくよろけた結果ワクチンの脇腹に背を預ける形になる。長い首筋を精一杯曲げてワクチンが覗き込んできた。捕われたような錯覚に陥る。


「な、なに」
「まだ時間はあるだろ?」
「あるけど…」
「オレの走り込みは夕方からだ。それまで付き合ってほしい」
「厩務員じゃないんですけど、私」
「意味を汲めよ」


呆れたようにワクチンはそう言うけど、汲むべき意味がわからない。強いて汲むならワクチン性格変わったよね、とかそんなことばかり。
熱が身体に回ってめちゃくちゃ暑い。スイカ割りがしたい。提案したら鼻先でごつりと頭を小突かれた。私のほうが遥かに年上なのに、弱気な子馬だった頃から面倒みてやったのに、いいようにあしらわれることが多い気がするのはなぜだろう。そういうところも兄貴に似てきた。まだ小さかったワクチンのことをかわいいと愛でていた頃(とはいえまだ一年も経っていない)が懐かしい。
ワクチンに寄り掛かっている背に汗が伝う。ご立派になりましたね、などと茶化そうものならまた小突かれるだろうからやめておく。ずるずる座りこんだらワクチンの体は大きな日陰となった。


「名前」
「ん?」
「お前の期待は裏切らない……絶対にな」


早く走りたくてたまらないワクチンを焦らすみたいに夏はまだ終わらないようだった。