カスケードが産まれ落ちた世界で初めて目にしたのは母の亡骸であった。祝福などはない。馬主も産医も、誰もが肩を落とし頭を抱え鼻をすすり、藁草と死の匂いがないまぜの陰鬱な雰囲気が場に満ちていた。息を詰め必死にもがきながら光へと抜け出した結末は、ろくに左右も解らぬ彼を打ちのめすには充分すぎるほどだった。過度な期待があった。最強の牝馬の子。皆に愛されるべくして産まれたカスケードの愛すべき母は、彼の名も呼ばぬままに静かにその身を横たえていた。

カスケードは鳴く。
強き母の軌跡を知る度、胸中へ枷が埋め込まれていく。血が湧く。気が高ぶる。オレは走らなければなるまい。生涯を駆ける宿命である。
カスケードは走る。
母の無念を消し去るには自分が最強の馬になるしかない。感情は無くともよい。ひたすらに走る。






「もう5年も経つのね」


大きさの不揃いなキャンバスを数枚抱えながら彼女は呟いた。住み込んでいる宿舎の外には雄大な本田牧場が広がっている。カスケードは暇があれば馬房を気ままに抜け出して彼女の部屋の開け放した窓から顔を覗かせた。騎手の服部は知っていながら見ぬ振りをする。付き合いはまだ短いがカスケードが干渉を嫌う性格であることぐらいは割れていた。


「何枚描いたことやら」


ビデオやラジオ、新聞。メディアにはいくらでも母の勇姿が残されていた。女王拝を制した牝馬はいやがおうでも注目されるのだ。カスケードは疑問に思う。その膨大な記録のどれを見ても何かが違う。
(母とは?)
上手く重なるイメージが見つからない。実際に生きていた母を知らぬ彼には仕方ないことかもしれない。

産まれてすぐに彼女と出会った。母、ヒロポンに魅了されひたすらにその姿を絵描いた彼女は、子であるカスケードの枷を緩やかに解いていった。


「ヒロポンは産中、鬱にもならず生き生きとしていたわ。今の君みたいにこの窓越しによく会いに来てくれたよ。彼女は誰よりも君を愛していたの」


部屋の奥に掛けられている四角い絵。躍動に満ち溢れ希望に駆ける美しい馬。それこそがカスケードの想像する母の形に一番近いものであった。彼女は誰よりも真実を知っている。カスケードのこともよく理解している。取材と称して纏わり付く記者達の言葉よりもよっぽど忠実に正当に語ってくれる。


「ヒロポンを恨んだことがある?」


言葉に詰まる。


「……いいや」
「走りなさい。ヒロポンならきっとそう言うわ。彼女みたいな馬、稀なのよ。…とても心が強かった」


机上や床には絵の具が垂れている。黒と青。君の色が作れないのと苦笑する。いつも変わらぬ油の匂い、散乱した紙の束やスケッチ。あのときの空間とは違い、ここには生があった。


「私も君を愛してる」


カスケードは真白い指に鼻先を撫でられながら、ただ思う。宿命なれば母と彼女の為に走ろう。キャンバスにこの身を映され、いずれ母の隣へ並べてもらえるように。