「かいとーくん!かいとーくん!」


キン、と高い声は窓際や廊下でたむろしている仲間内の女子達に向けたものではなくて、机に張り付くようにして熱心に本を読んでいるただ一人の男子に対して発せられていた。彼女は呼ぶ。かいとーくん!彼は応じることなく俯いてびっしり細かい文字を眼鏡越しに鬱屈した眼で追いかけている。別に恥ずかしい訳ではない。床にうっすら陽があたり、暖かみを増していく足を彼は静かに組み替える。彼女がばたばたと動く度に視界の端で影が揺れた。名前もうやめなよ、海藤も反応してやりゃあいいのにな…遠巻きにそう囁き合いながらも誰も彼もが放っておく。なんら変哲のない朝のワンシーンである。


「昨日ね、本屋行ったの!」
「…おはよう」
「あっ おはよう!それでね、あのさ、今月の文藝憚に評論がさ」
「載ったよ。読んだの?」
「うん!」


話を聞く気は毛頭なかったがクラスメートとしてせめて挨拶ぐらいはしておこうと海藤優は視線だけを苗字名前へ移した。にこにこと笑う名前は腰を折られようと海藤の顔が再び下を向こうと構わず話を続ける。適当の過ぎる相槌。最新の発表作を名前が読んでいたこともそうだが、なぜ彼女は毎日毎日しつこく自分などに構うのか、その点が海藤にとって非常に謎であった。だらだら続く勢いだけの会話に答えながらも視線はしっかり文章を捉えページをめくる。人を殴り殺せそうなほどに分厚い書籍。かいとーくん!能天気な呼び声がいくら降り注ごうとも会話も文章も内容は区分して把握できている。海藤優はとても頭が良い。自覚はあるが声に出して自負したことは一度もない。

ふっと吹き出す音が近くの空気を震わせると、ぴくりと海藤が反応した。今行われたのは非常に悪質な笑い方である。背後にいるその笑いの発信源である南野秀一は、学業成績の学年ナンバーワンにどんと腰を据え海藤を易々下すほどに出来た男子であったが、いかんせん喰えぬ性格で確信犯で底意地が悪かった。美形という盾はあらゆる陰の部分でさえステータスとして演出してしまうものだと海藤は頭の隅でぼやいた。南野は明らかに現況を楽しんでおり、それを一切隠そうともしない。


「あっ チャイム鳴った!またあとでね!」


もう来なくていいよと言いかけて飲み込むのもいつものことであった。
本を机にしまい、海藤は少しだけ後ろに顔をやった。頬杖をついた南野が女子を殺す微笑み方で出迎えたが海藤は男子なので効果はない。むしろ殺伐とした気持ちになる。素でやっているのか狙ってやっているのかでは恐ろしいまでに意味が違ってくる、それが南野だ。


「なに?」
「…さっき笑ってたろ」
「ああ、ごめん。楽しそうだなって思ってさ」
「お前はいつでも楽しそうだけどな、俺は違うよ」
「そうかな?教師来たぜ」


納得いかない心を引きずれど授業は真面目に受ける。海藤と南野は後方に着席している。黒板前どセンターにいる名前の後頭部は、あと20分ほどで沈むだろうと予想したら見事に当たったので海藤は肩を揺らして笑った。少しだけ、楽しかった。