「大丈夫?」
問われて、今の状況に気付く。どうやら雪に足を取られて転びそうになったところを助けられたようだ。体勢を直しながら何事もないことを伝える。吹雪は少しバツが悪そうな表情を浮かべながら、良かった、と返した。
「いつから、いたんですか」
「…さぁ、ね」
はぐらかすように、困った笑みを浮かべる吹雪。
「あの、えっと…」
何から訊ねていいものか、彩子が考える。吹雪からは何も言わないと思ったからだ。聞きたいことを順序立てていたが、先に口を開いたのは吹雪だった。
「本当は、出てくるつもりじゃなかったんだ」
「え?」
「でも、咄嗟に体が動いて」
気付いたら、ね。苦笑を浮かべる吹雪は、何処か弱々しい。彩子は違和感を覚える。確かに、大木のように構えるタイプの人間ではないが、普段の吹雪はこんな笑い方はしない。
「吹雪さん…なにか、あったんですか」
意を決して、核心に踏み込む。彩子は真っ直ぐに吹雪を見据え、吹雪もそれを正面から受け止める。ややあって彼は、静かに口を開いた。
「白恋中が、フィフスセクターの手に堕ちた」
「え…」
「聖帝に反抗する危険分子と見なされた僕は、奴らにコーチを解任された」
「そんな…っ」
豹牙はきっと、この事実を知らないはずだ。彼は、吹雪が白恋を見捨てたと言っていたから。途端に彩子が青ざめた。
「わた、し…豹牙に本当のことをっ」
ポケットを探り、携帯電話は置いてきたことを思い出す。ならば家に、と駆け出そうとしたが、吹雪に手を掴まれる。
「雪村には、言わないでほしいんだ」
「どうしてですか?! だって、豹牙誤解して…っ」
吹雪が目を伏せ、彩子の手を強く握る。頼むよ、絞り出すような声に、いよいよ何も言えなくなる。
「でも、そうしたら豹牙は吹雪さんのことずっと誤解したまま…」
言いかけて、ふと気付く。
豹牙にこの事実を伝えれば、確かに誤解は解けるだろう。しかし、事実を知れば、吹雪を慕っている豹牙は十中八九白恋の体制に反抗する。
そうなれば、それから先豹牙は――
「豹牙の、ためなんですか…?」
その言葉に、吹雪は曖昧に笑みを浮かべるだけだ。表情で吹雪のとった行動の意図を理解した彩子は、思わず彼の胸にすがりつく。
「どうして…っ、 もっと他に、何か方法は無かったんですか…!」
「うん…ごめんね」
他に言葉が出てこなくて、彩子はどうしてどうして、と繰り返してしまう。吹雪は、ただ背中を撫でた。その優しさが痛くて、更に涙が流れてしまう。吹雪の方が痛いはずなのに、堪えないと。必死に我慢しようとしているうのを見透かすように、そして、まるで泣いてくれというように、今度は頭を撫でた。
触れる手の暖かさを感じて、今度は静かに涙を流した。
「雷門中に行ってくるよ」
「らいもん…?」
「僕の友人が今、そこで監督をやってて。彼ならきっと、力を貸してくれると思うんだ」
強い意志を纏った瞳だった。吹雪がこの町から、一時的にでもいなくなることは寂しい。だが、止められるとは思わないし、止める気も無かった。
「気をつけて、くださいね」
「うん。それで一つ頼みがあるんだ」
未だ、涙に濡れる彩子の目に吹雪が手を添える。動揺した彩子は思わず半歩下がるが、それを阻止する形で彼は背中に手を回した。
「あ、の」
「笑って」
予想外の言葉に、彩子は目を丸くした。そんな彼女の様子など気にも留めない様子で、吹雪は柔らかく笑う。
「笑って。これからしばらく会えないから、彩子ちゃんの笑顔を見ておきたいんだ」
ね? と首を傾がれては、断れない。目元を少し拭う。油断するとまた零れそうだけど。
お願い、今だけ。少しだけ。3秒で、いいから。
「吹雪さんの帰りを、待ってます!」
精一杯の、笑顔を。浮かべたつもりだったけれど、やっぱりまた涙がこぼれてきてしまった。
「彩子ちゃんは泣き虫だね」
くすりと笑った吹雪は、また目元に手を添え、彩子の涙を拭う。
「吹雪さんのせいですよ」
「ごめんごめん」
絶対悪いと思ってないこの人。口には出さず、心の中だけで一人ごちる。
内心少し不満に思っていると、唐突に吹雪が顔に手を添えてきた。不思議に思いながら吹雪の方を見た――そのときには、吹雪の顔がすぐそこまできていた。
「ふぶ、」
呼ぼうとした名前は、最後まで続かなかった。
「――っ!!」
「戻ってきたら言いたいことがあるんだ」
良い子で、待っててね。囁くように、耳元で言われ、一気に体温が上がる。口を押さえて顔を真っ赤にする彩子を見て、吹雪はまた、小さく笑った。
「ふっ、吹雪さん!」
「雪村を、頼むよ」
不意に真剣な表情になった吹雪に、彩子は息をのむ。
「はい」
「……行ってくるよ」
彩子の頭を一度だけ撫でて、背を向けた。
出来れば、早く戻ってきてほしい。だけど、彼には彼のやるべきことがあって。彩子は、自分に止める権利が無いことはわかっていた。「待ってます、から」
だから、早く帰ってきてくださいね。あなたがいない間は、私が弟を支えるから。
触れられた手の温度を思い出す。彩子と同じくらい冷たかった意味はきっと、彼も同じくらいの長さここにいたという証拠だろう。雪は未だ舞う。彼がこの地に戻ってくるときには、豹牙との間にある壁も解けると信じ、彼女は帰路についた。
【凍った雫に、粉砂糖を添えて】
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20111029 ayako,i
→反省会