その一瞬は、目に映る物全てがやけにゆっくりに見えた。だからこそ、だ。私はやんわり、その行動を拒否してしまった。
「…なんで」
獰猛な獣の目、に見えた。静かに問われた言葉に、咄嗟に返事が出来なくて目を反らす。その反応がお気に召さなかったらしい彼は、両方の拳を私の頭の横あたりに叩きつけた。ドン、と鈍い音が二重に響く。
ただでさえ、壁際に追い込まれ、少しでも踏み出せば狩屋との距離はゼロになってしまうような体勢。微かに頭を振った狩屋が、私の肩に額が付くような位置まで頭を下げる。吐息が、近い。
「なんでだよ」
零れ落ちた言葉。明確な、疑問系。問うている相手は紛れもなく私。わかっているけど、何も返せない。
「俺のこと、好きなんだろ?」
動かず、頭の向きだけ変えて向けられた言葉。もちろん、だ。その言葉を今し方狩屋に告げたのは私なんだから。
じゃあこのくらい出来るよな。言い切ると同時に、頭の位置を戻して私を正面から見る瞳が剣呑さを帯びる。しかしその奥が僅かに揺らいだように見えた。ここで逃げたらいけない。本能的に、そう感じた。
「すき、だよ」
酷く喉が乾いている。上手く声になっただろうか。一度目より緊張している気がするのは、ここで道を誤ると、狩屋を傷付ける所では済まないと第六感が告げているからだ。慎重に。でも、怯むな。
「狩屋が、好き」
「じゃあ」
「でも」
これは、なんか違う。眉を寄せる狩屋。納得いかないという表情だった。
「ヤろうって言ってるわけじゃないけど」
「それは、そうだけど」
「たかがキス一つなのになんでそんなに拘るんだよ」
こだわるなんて。いや、実際こだわっているのか。こだわっているからこそ、狩屋の真意が知りたかった。
「狩屋は、どうして今私にキスしようとしたの?」
「……は?」
「例えば…自分で言うのも変な感じだけど、告白のお礼とか、まぁ衝動的にとか、色々あるでしょ?」
狩屋が言葉を詰まらせる。私はただ、続く言葉を待つ。少しの沈黙のあと、彼は酷く無感情に言った。
「理由、なんて、無い」
嘘だ。だってまだ、瞳の奥は揺らいでいた。
「私は、大事にしたいよ」
ファーストキスの思い出をって事? 馬鹿にするような言い方だったが、苛立ちはしなかった。だって、わざと煽るような言い方をしていた。
「それも、無くはないけど。でもそれ以上に、自分が好きだって思う狩屋とのことだから、大事にしたい」
「それってヤるのが怖い女子の建て前だろ」
「そう取られても構わない」
でもキスだけでもその先まで行っても、その気持ちは同じだよ。狩屋が顔を歪めた。口を開きかけて、噤む。私は待った。彼が、何か言うのを。その瞳の奥に燻っている物の正体がわかるのを。
「――なんで俺なんかの事が好きなの?」
ようやく狩屋の口から出た言葉は、それまでの流れとは全く関係ない内容だった。驚きながらも、素直な気持ちを伝える。
「裏表あるし、素直じゃないし、可愛くないし、基本的にはいじめっ子体質っていうか、人をいじるのは好きだけど自分がいじられるのは嫌いだよね」
「よくわかってんじゃん」
そこまでわかってて、なんで俺だった訳? 純粋に疑問に思っているようだった。私は言葉を続ける。
「でも、そんな狩屋のこと嫌いじゃなかったし。確かにひねくれてるけど、さりげなく優しいところとかもあったし。気付いたら気になってた。一緒に歩いていけたらなって思った」
「歩いていく?」
「これから先の、…有り体な言葉だけど、人生を」
実際は、人生とか壮大な言葉じゃなくても良かったのだけど。口から出ていたのはその言葉だった。
狩屋が目を見開く。純粋な、驚きの表情。数秒そのまま硬直した後、少しだけ開いた唇が薄く弧を画いた。
「なにそれ、オレと人生計画でも立てたいんだ?」
「それもいいかもね、家庭科の授業みたい」
女の子食い散らかしてぽいっ、とかっていうのもなくなりそう。わざと茶化すように言ったら、狩屋の表情が凍った。
「知ってたんだ」
「まぁね」
「それでもオレと付き合おうって?」
「私がどう思うかは私の自由だよ」
はっ、と狩屋が息を吐く。バカにしたような風だった。
「最初はどいつもそうやって言うんだよ」
強い口調で吐き捨てた裏に、狩屋の本心が見えた気がした。最初は、そう言う。つまり最後には、言葉は覆されるということ。
実際、私も狩屋の噂に関しては本当に『噂』でしか知らない。本気の女の子を弄んだというのもあれば、遊び人と有名な先輩と一緒にいたというものもあった。もしかしたら、その噂の中に真実があるのかもしれないけど、あっさり信じる気にはなれなかった。今目の前で震えるほどに拳を強く握っている狩屋を見ると、尚更。私が狩屋にたいして盲目だ、ということも無きにしも非ずだが。
「狩屋、」
痛ましくなって、その手に手を伸ばす。触れる寸前で狩屋が手を引いた。
「…天の邪鬼だ」
「は?」
「優しくされるのには慣れてないんでしょ」
答えない、が、目は反らした。図星のはずだ。唐突にその姿がかわいく思えて、思わず吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「いや、かわいいなって思って」
「かわ…っ?!」
絶句する姿を見てまたおかしくなった。そういうところがかわいいんだよ。口には出さないけど。
「信じて、なんて言えないけど」
ダメかな。真っ直ぐに視線が合う。ふぅん、どこか面白そうに笑う狩屋。お前面白い、やけに楽しそうに言った。
「オレは簡単じゃないぜ?」
「見ればわかるけど」
それでも、狩屋が良いって思ったの。
あっそ、簡単な返事だけ寄越して、狩屋が私から離れた。
「帰る」
「は?」
目を合わせずに向けられた言葉に、あっけに取られたのは私だった。状況整理が追いつかなくて、荷物をまとめる狩屋をただ見やる。そんな私にちらりと目を向けて、狩屋は呆れたように溜息をついた。
「帰らねーのかよ」
部活入ってないだろ。私は黙って頷いた。オレも今日休みだし。続いた言葉を理解するのに数秒要して、そして間の抜けた声が漏れた。
「あ、今支度する」
さっさとしろよ。口ではそう言いながら私を待つ狩屋の目からは、つい少し前に感じた剣呑さは消えていた。
取り敢えず、認めてもらえた? 少なくも、はじめに感じていたあの危うさは消えていた。
少しは心を開いてもらえたということなのか――なんにせよ、今後の関係は私の身の振りによるところが多いらしい。
厄介な相手に惹かれたものだ。思わず苦笑いがこぼれたが、嫌な気はしなかった。
【一線を踏み越せば】
★企画様に当初提出しようとしていた作品。テーマに沿わなくなるかなぁと思って提出を止めました。これの後に続くのが一応「境界線上に立つ」のつもり。前述の通り、企画様提出のつもりで書いたから雰囲気が似てる気がするけど気にしない。
でもしっかり続き物のつもりで書いてないからいつも以上に矛盾もあるかもしれないという。気にしない←
20120103 ayako,i