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浮竹は確信をもったような口ぶりの京楽の言葉に眉根を潜めた。
「命題」というからには「答え」がある。
それならば京楽が今悩むような事は無いからだ。
そんな矛盾している事柄に、浮竹はまるで難解な言葉遊びをしているかのような気分になった。
「…じゃあ、答えはあるのか?」
「さあ、どうだろう。
けど、きっと命題なんだ。
そういうものだろう。世界ってものはさ」
京楽は立ち上がって、浮竹の膝の上にある箱から饅頭を一つとると、それをまた口の中に放りり込んだ。
「流魂街の人間の記憶かあ…考えてみた事も無かったなあ…。
そういえば、学院でも…おそわらなかったよな、それに関しては」
「そう。僕も覚えが無い。
だから、それはこの世界の条理として受け入れられた事柄なのかも知れない」
けれども、その条理に外れ、記憶の一切が無い椿。
「ところで、何で記憶の話なんか…?」
「……さてね。
……ちょっと気になっただけ、さ」
そう言い残すと、京楽は浮竹をおいて執務室を後にした。
京楽は、ひっそりとした森の中を歩いていた。
周りは幾ら歩いても変わらない樹だらけ。
余計な視界情報が入ってこないその場所は、答えがあるのか無いのか分からないような事を考えるのには最高の場所だった。
『何で記憶の話なんか』
京楽は小さく舌打ちをした。
浮竹からその言葉を聞いた瞬間、心の底から失敗した。しくじった、と思った。
「そう、それこそが…重要なところだ。流石、浮竹」
京楽は口の端に笑みを浮かべた。
道なき道を進み、うっそうと茂った森から開けた原っぱに出た。
そこには一面の白い花畑があって、うっすらとした甘い香りが漂っていた。
京楽はその真ん中に立って、空を見上げたまま目を閉じた。
瞼に浮かぶのは、椿。
記憶があるもの。無いもの。
それの違いは何か。
それが分かれば、椿に繋がるのではないかと思った。
つい、それに夢中になってしまって、浮竹の前でその疑問をつい口に出してしまった。
ただ、京楽の“結論”の仮定には今の所、リスクがつく。
滅多な事は、喩え浮竹であっても、言えなかったのだ。
多分、旧友だから、と気が緩んだのかも知れない。
「僕は、どうすればいい」
初めてあったとき、椿は記憶が無い事を気にした様子はなかった。
けれども京楽が椿が浮かべた笑みに、そんな雰囲気は微塵も見られなかった。
むしろ自分を確立させるための要素が無い事への恐れを隠すような笑み。
人は時として人の暗さに酔う事がある。
京楽が椿の笑み感じた寒気は、間違いなくそれだった。
つまり、いま京楽がしようとしている事は、寄った勢いの軽はずみな行動ではないか。
はたまた正しい判断だったとして、果たして本当に椿や京楽の為になるものなのか。
とんでもない選択ではないか。
今ではもう目を閉じれば、その姿が脳裏に写る。
過去に経験したひとつの不思議な体験。
その中少女は、果たしてもういない存在なのか。
それとも、やはり椿はあの少女なのか。
京楽は目を開いた。
「はは…」
晴天の空には雲一つなく、ただ、青空のみが広がっていた。
そこに、変わらず香る白い花。
京楽は腰を折ってそこに咲いた花を一輪摘んで、袂にそれを納めた。
笠を目深に被りなおすと、そのままその場を後にした。
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