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指差したその先は、京楽がこの前立っていた小さなステージ。
今は人一人居らず、グランドピアノ、マイクスタンドやアンプが雑多に置かれているだけだ。
ジャズバーでいきなりチェリストがひょっこりでてきて弾くなんて、いくらアットホームで緩い雰囲気漂うバーだとしても場違いなのが明白だった。
しかもバーの中にはそれなりに客もいる。
「何言って…!!」
「じゃあ僕がピアノで入る。それなら良いだろう」
どこがだ。
名前は顔をしかめた。
「…ムリ。
絶対に嫌」
名前は再びパスタを食べはじめ、何としても弾くまいとした。
名前にしては珍しい位の頑なな態度に浮竹は目を丸くして、カウンター越しの京楽は肩をすくめた。
そして京楽は拭いていたグラスをカウンターに置いて、ため息をひとつ漏らした。
名前がそれを聞いて何かと顔をあげると、悲しみとも怒りともとれる不思議な表情をした京楽と目が合った。
一曲弾かせるのに失敗しただけでそこまで複雑な表情をするだろうか、と色々考えつつも、何となくそのまま黙って見ていられなかった名前は目を反らした。
「あのステージに足がすくむ?」
「……………は?」
すると、そんな質問をしてくるものだから名前は顔を歪めた。
たかが一つステージに立たないぐらいでそんな事を言われるのは心外だった。
くだらない、と一蹴しようとすると先を遮られた。
「じゃあ何で弾かないの? 君のその手は飾りかい?」
名前は何て失礼な事を言う奴だったんだ、と顔を歪めたままステージの方に顔をそらした。
しかし、そこでふと思う。
ジャズというのは不思議なもので、ひとつのステージに立った者達の言わばフィーリングで曲が進む。
あるジャズピアニストは「好きに弾け。ただしテンポだけはあわせろ」と言う。
そのたったひとつの約束のもと、プレイヤーは自由になれる。
ステージに立つ者達は本当に楽しんで弾いてこそ曲が進むということ。
いま苛々した気持ちで眺めているステージは、つまりそういう場所だ。
はっとした気分になって京楽の顔を見ると、口の端をあげて困った様に笑った京楽がいた。
それを見た瞬間、名前は唇を噛んだ。
――振られたの。音楽に。
そしてつい先日言った言葉が頭をよぎる。
(こいつ…私の事、試してる!!)
名前は体が熱くなる感覚がして、目を閉じた。
音楽に振られた、なんて言葉は一見して奇怪な言葉にしか聞こえない。
名前も勿論それを心得た上で言った。
つまり、簡単なナンパ除け。
けれど口先だけの嘘でもなかった。
ともかく、普通の人間ならこれで事が済んだはずだった。
けれど、大誤算がうまれた。
京楽の顔をじっとみたが、何を考えているのかはいまいち分からない。
茶化しなのか、はたまた違うのか。
(ふん)
名前はバックと楽器をもった。
そして財布から適当にお札を掴み出して数枚置き、名前は満面の笑みを京楽に向けてバーを後にした。
「ごちそうさま」
ドアが閉じる直前に浮竹がなにやら言っていたが、名前は聞こえない振りをした。
誘ってくれた浮竹への申し訳なさと、言葉にし難い思いが脳を占めていてとてもではないが人と会話出来る気分ではなかった。
名前がバーを後にしてから、京楽は何とも言えない気分でひたすらグラスを磨き続けている。
なぜなら、非常にまずい空気が漂っているからだ。
「…あのさ、」
かいつまんで言えば、カウンターに頬杖を付いて視線を送ってくる親友の無言の圧力が堪え難い。
どうにか空気を変えようと口を開くが、どうにもその先が出てこなかった。
「お前がそんな奴だったとは」
「ちょっと、それ誤か」
「言い訳があると言うのか」
聞かせてみろと言わんばかりに浮竹は腕を組んで、京楽を見つめた。
優男の筈の浮竹に普段はない威圧感が漂った。
ここで何かを言おうとしても、浮竹は聞き入れないだろう。
京楽は首をカクンと折った。
「二択与えよう」
なにそれ、と京楽が尋ねる間もなく浮竹は親指をバーの入り口に向けた。
「俺がここから出てくか、お前がここから出てくか」
京楽は面倒くさそうに顔を歪めた。
(なにこれ)
しばらく冷静にその言葉を考え意味が分かった瞬間、京楽は浮竹を改めて怖い奴だと思った。
京楽は口元をへの字にまけてしばらく考える。
そして溜め息をついてグラスとタオルをカウンターに置き、エプロンを外すとバーの戸に手をかけた。
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