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その日は凄く凄く、世界が滅べば良いと思うくらい苛々してて、気付いたら寂れたジャズバーのカウンターに座って次々とグラスを空にしていた。
バーの片隅、小さなステージからはジャズバンドが有名なin the moodなんかを弾いているが、ちっとも耳に入らない。
寂れててもなかなか雰囲気の良いバーには、週末とあれば若いカップルも割と多い。
夜の良いひと時に、カウンターに居た荒れた模様の人間をそっと見て彼女と再び笑い合う男なんかも居た。
それが余計腹に立った。

苛々していても一人で座っていれば、特に愚痴をもらす相手も居ない。
だから、ひたすら浴びる様に酒を飲み続けた。
そんなとき、よりによって直ぐ隣の席に座ってくる男が居るもんだから、溜まったもんじゃない。
一人一人が物凄く独立して生きるこの現代、こんな密着して座ってくる人間はそうそう居ない。
しかも、ここは独り者が座るカウンター席。
勿論、私だって見ず知らずの人間が隣り合わせと言う環境が元より好ましく無かった。


「お嬢さん、何でそんなに荒れてるんだい?」


なんのナンパだ、と顔を上げると先ほどステージでコントラバスを弾いていた男が居た。
なんとなく緩い雰囲気は漂うが、品のありそうな感じ。
最近の流行で言えば、いいかんじの『オジサマ』。
特に顔も悪く無い。
けれども知り合いではない。

すっとその男が手を伸ばして来て何事かと思って肩を竦めると、目の辺りを優しく擦られた。
その長い指先には、数滴の水のようなもの。


「泣くほど辛い事でもあった?」


知り合いではない男に隣り合わせで座られて、声までかけられて、優しい言葉迄かけられた。
普通の女の子で普通の状況だったら相当嬉しい状況だろう。
けれども生憎、今はすこぶる機嫌が悪い。


「ふられたの。
 ……音楽に。」











音楽に振られた、何て普通の人間には分からない感覚だ。
音楽家からしてみれば、もう、死にたくなるような思い。
かく言う自分も音楽家、一端のチェロ弾きだ。

名字名前

チェロ弾きが出てくる有名なお話の様に寂れた人生は送ってない。
割とその道では名が知れた方。
今はとあるオーケストラに所属して、その傍らソロ活動もしている。
毎日毎日肩に大きくて重いチェロケースを抱えて生きている。
だから、右肩は何時も肩こりが酷い。

そして、
このたび音楽に振られた。


「音楽に振られたの。それは凄く、辛いねえ」

「気持ちがわかる?」

「僕は基本的に、女の子の敏感な気持ちにしか反応しない」


男はしれっとして名前に言う。
アルコールが回った脳味噌では今ひとつ上手く反応出来なかったが、今時こんな台詞を言う人間がいるなんてと耳を疑った。
それはともかく、気持ちは分からないと言っている?
質問はともかくナンパが先?


「僕にも彼女と同じの」


名前をよそに、男は片手を軽く上げ、バーテンにそう言う。

やっぱり、分かる訳ない。
何となく複雑な気分になって、名前は行儀悪く頬杖をついた。


「君がそれだけ悲しんでるってことは、音楽に振られるのはそれほど辛いってことでしょ」

「まあ、そういうかんじ」


男の前に、名前が飲んでいたものと同じものが入ったグラスが置かれた。
その時に、ふと指先を見ると、それはやはり名前と同じ楽器を弾くものの手をしている。
分かるものにしか分からない。

例えば、勿論爪は短い。
それはつまり女の子が憧れるようなネイルを施したりする事は無理ということ。
演奏するときに邪魔になるから、指輪もあまりしない。

バイオリンなんかより遥かに太い弦を押さえる左手の指先はとても堅い。
弓を持つ手と比べれば一目瞭然。
その堅さと言ったら、普通の皮膚を5枚以上重ねてボンドで固めたのかと思うほど。

弦は指先だけで押さえている訳ではない。
楽器本体すら支える手のひらは、親指の付け根を中心に手のひらに筋肉がある。

ぱっと見ただけで、その世界に身を置く人間なら何となく分かるその特徴。
男にもそれがある。
なら、音楽に振られる気分ぐらい味わった事があるんじゃないかと、ふと思った。

遠慮すらせずにじっと腫れた目で手を眺めていると、流石に気になった男がこちらを見て微笑んだ。

(……なんか、聞いた所で言わなそう)

考えるのもばからしい。
そう、取り敢えず今は物凄く苛々してる。
名前は手から視線を逸らして、グラスを手に取って残りを一気に煽った。
空になってカランカランと乾いた氷の音しかしなくなると、グラスを音を立てて置きカウンターに突っ伏した。


「もう1ぱ」「もうやめだ」


名前が次のグラスを頼もうと片手を上げると、その手を男がパッと掴んでしたに下ろした。
何をするんだ、と言わんばかりに睨むとニコリと笑ってかわされた。


「あー…もう…ホントに……ああああー」


再び突っ伏してひたすら言葉にならない思いを呻く。
そっと男が名前の頭を撫でて今日はもう飲むのはやめな、と言った所でその先に覚えが無い。













二日酔いの後のティンパニーとかは、とても辛い。


「あれ、名字さん顔色悪いですよー」


それはそうだ、何せ酷い二日酔いを引きずってこの場に来たのだから。
後輩が気にかける声だって、振られた心と二日酔いを抱えた体には何となく応える。

音楽に恋するのは、人間にするそれと違ってとても複雑だ。
熱烈なアプローチをした所で、期待に答えてもらえるかというと…確実にそうとは限らない。
そんな難しい恋を遂げて破局に向かえば、それは、大変な事になる。

ーーーーーカツカツ

指揮棒が譜面台に当たる乾いた音がすると、ちらばっていた団員達はスッと席に着く。
名前も、ステージの淵の方に設けられたチェロの席に着く。


「やあ、おはよう名字。
 あまり良い顔じゃないな」

「もとからこんな感じだったかと」


席に腰を下ろして、楽器を置いて直ぐに隣席の男がそう言って笑った。
白髪で、人が良さそうな感じの彼は浮竹十四郎。
眼鏡片手に、今日の楽譜を眺めている。

基本的に一つのパートの席は2列。
二人一組のプルトと呼ばれるペアが縦に幾つも並ぶ。
一番先頭の指揮者に向かって左側はパートリーダー。
それが、浮竹十四郎。
その隣に、名前。
基本的にこの席が名前は好きではなかった。
勿論、実力を認められて、このオーケストラのチェロのメンツの中で一番上手い浮竹の隣に座っている。
その事実は素直に嬉しい。
けれど、浮竹程ではないがステージぎりぎりの端っこの席というのが何となく嫌だ。
ちらりと左側の下を見ると、少し足を踏み外せば真っ逆さまに下に落ちつづけるんじゃないかという錯覚が起こる。
実際はたかが一メートルやそこらの高さ。

(…絶対に外側の席にはいきたくない…)

その為には、絶対に腕を落とさない事と浮竹さんを越さない事が必須条件。
後ろのプルトにもその後ろにも外側の席というものはある。
何処に行ったって状況は全く変わらないが、後ろにいけばいくほど腕が劣る。
なら、今の席が一番良い。

そして、もう一つ嫌な事。


ーーーカツカツカツカツ

「始めるぞ!!早く準備しろ!!」


大声を上げてカツカツ指揮棒で譜面台を叩く指揮者。

指揮者の真横というのは何となく辛い事が多い。
特に、二日酔い後の頭とかには。

名前は頭を抱えた。

(今日が終わるまで、此所に座ってられる気がしない)

もう一度左側に目をやって、深い谷に見えるステージの淵を見た。

(二日酔いの所為とかで此所から足を滑らして死んだりしたらかなり笑える)


「どうした名字。
 本気で調子悪そうだな」


眼鏡をかけながら浮竹は名前の顔を覗き込んだ。
名前の顔は浮竹の目にも明らかなぐらい蒼白で、寝不足なのか目の下にクマもある。
先ほど聞いた声も何となく枯れていた。
あからさまに調子が悪そうだった。

名前も同じく胸ポケットから眼鏡を出して、かけつつ片手で楽器を持ち上げる。


「気のせいですよ」


気持ち悪いくらいニコニコしながら浮竹にそう答えると、未だ心配そうな顔をしつつ浮竹も楽器を手にした。


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