朝餉を終え、洗濯の手伝いも終わった私は縁側でのんびりと庭を眺めているといつもの事ながら後ろから誰かに抱きしめられた。
こんなことを私にする人物など一人しかいない。




「……仕事はどうした」

「朧不足で死にそうじゃ……」

「勝手に死ね」




その言葉に返しは返って来ず、代わりにぬらりひょんの頭が私の肩口にぐりぐりと押し付けられる。
まるで幼い子供のようだ。

いつもの事だから朧は今の会話などなかったかのように話を続けた。



「……まぁ、確かにこっちに帰ってきたら魑魅魍魎の主となった貴様にへりくだる妖怪共や喧嘩売ってくる妖怪共の相手で組もてんやわんやだものな」

「なんじゃい、この忙しさは…!」

「魑魅魍魎の主になった代償だな」

「ぐっ……」




奴良組自体割と最近出来たような新参者の組らしい。
といっても、妖怪の感覚で言えばの話だが。
それが魑魅魍魎の主となったのだ。
急激に成長するぬらりひょんに下る者も多いが反対に新参者と見て喧嘩を売る者も多い。

ぬらりひょんとしては京からわざわざ連れ帰った自分の女である朧との時間を作りたいというのにお目通りを願う妖怪やら喧嘩売ってくる妖怪やらのせいで全く作れずじまい。
江戸からに来てからというもの朧といる時間は一日にどれほどなのかも分からない。
恐らくこっちに来た初日以外は朝餉夕餉の時以外会ってない気もする。

それによってイライラは募るばかりだし喧嘩売ってくる奴は多いしへりくだる妖怪共は自分の機嫌を伺うばかりで鬱陶しい。




「やっと朧と一緒におれる……はぁ」

「仕事は終わったのか?」

「最低限やらにゃならんことはな。
あとはもうカラスに押し付けてやったわ」




確かに先程どこかで鴉天狗の総大将ぉぉ!!という声が聞こえてきた気もする。
どうやらやはりあれは気のせいではなかったらしい。

でもまぁ、このぬらりひょんを見る限り本当にこのまま萎れてしまいそうだから大目に見てやろう。
流石にカラスたちも萎れた総大将は見たくないだろうからな。




「……朧たちがこっちに来てもうどのくらいたったかのう?」

「一ヶ月ほどだな」

「……一ヶ月も経っとるのに祝言すらあげられんとはなんなんじゃ……クソ……」

「準備期間として私はのんびりやってるよ」

「……そう可愛いことを言うな」

「今のの何が可愛いのか意味がわからん」




一体今の発言のどこに可愛らしさを感じたのか、コイツは。




「のう、朧」

「なんだ」

「ワシずっと思っとったんだがな」

「あぁ」

「……あんた、ワシのこと名前で呼んだことねぇよな?」

「…………………………」




た…。
私はスン、とスリープモードに入りたかったがそれを許すぬらりひょんではない。




「他の奴は皆呼んどるのにのう?
なーんで夫になるワシの名を呼ばんのじゃ?ん?」

「………………………………」

「黙りかい?」




抱きしめてくる手を挙げたと思えば前に流れる髪を指に搦めてクルクルと遊び始めた。




「朧、ワシは随分と前からあんたの名を呼んどるのにワシを呼ばんのはどうかと思うがのう?」

「……いや、私の名を呼んでるのは確かに随分前からだが勝手に呼び出したのは貴様だろう」

「またじゃ。
あんたはワシを『貴様』や『お前』と呼びやがる。
祝言あげてもそう呼ぶつもりかい?」

「………………」




わかっている。
いつまでもそんな呼び方ではダメなことくらいはもちろん分かっているとも。
けれど、いざ前にしてみると名を呼べなんだ。
ほかの者の前なら『ぬらりひょん』と呼ぶのは容易いことなのに本人の前だと、どうも呼べない。




「のう……ワシらは今のところ夫婦じゃあねぇが所謂未来を約束した許嫁ってやつじゃ。許嫁同士が名前を呼び合わんのはいささかおかしな話じゃと思うが?」




その通りである。反論の余地はない。
が、無理だ。




「……それは、まぁ、あれだな。また今度ということで」

「阿呆、次またこうして時間作れるのがいつになるかわからんのじゃ。ワシは時間が惜しい。
ワシの名を呼んでくれ、朧」

「っ」

「あんたのこの口で、その声で、ワシの名を呼べ。
それだけでいいんじゃ。何も難しいことはなかろう?」




後ろから顎をくいっとあげられたと思えばそのままツゥと顎のラインを人差し指で撫でつけてくる。
擽ったいそれに顔を歪めればぬらりひょんは私の体の方に回している腕に少しだけ力を込めた。
まるで、言うまで逃がすつもりは無いと言いたげなその行動に顔が引き攣りそうになるのをなんとか堪える。




「なーに躊躇っとるんじゃ。早うせんか」

「…………」




そうは言われても、朧の口からぬらりひょんの名前がすんなりと出てくることは無い。




「……襲うぞ?」

「なぜそうなる!」

「こちとらどんだけ我慢してると思っとるんじゃ!?
やっていいなら今すぐにでも押し倒すぞ!!」

「はっ!?」




こっちに来て雪麗によって夫婦の営みなるものの軽いレクチャーは以前受けたからもうぬらりひょんの言う『襲う』の意味はわかる。
だからこそ爆弾発言に近いことを言い出したぬらりひょんに思わず振り返ってしまうと、その時見えたのはどこか真剣な様子で私への愛情と切望、そして熱の篭ったような眼差しが私を射抜いた。




「っ

「ほれ、ほれほれほれ。呼べ、ほれ」

「ほれほれ喧しい!」

「ほれほれほれほれほれ!」

「このっ、ほれほれジジイが!」

「なんじゃそりゃ!?」




というかジジイとはなんじゃ!!とぬらりひょんは騒いだが私は頬が熱くてたまらないったらありゃしない。
名前を呼ぶだけなのに何故こんなにも恥ずかしいのか。
自分のことさえも理解できないとは実に腹立たしいものだ。




「………………ん」

「あ?なんだって?」

「…………………………………………ひょん」

「間が長ぇ……
……じゃなくて何言ってんのか聞こえんぞ?」

「っ、ぬらりひょん!これでいいのか!?」




顔を真っ赤にしながらどこか投げやりに発せられた己の名。




「…………………………」

「…………呼ばせておいて無反応か。
相変わらず貴様はムカつくな」

「貴様じゃねぇ、『ぬらりひょん』じゃ」

「そうだな」

「違う、『ぬらりひょん』ほれ言ってみろ」




…………なんか変なスイッチ入ってないか、こいつ
だがまた言わせるまでこいつは私を離すことなどないだろう。




「……ぬらり────」




先の言葉はぬらりひょん自身に飲み込まれていった。
いきなり重ねられた唇に朧は目を見開くも、その目がぬらりひょんのものと合ってしまい愛おしげに細められているのを見つめ返すことなどできなくて固くその目を瞑る。

恋仲のような関係になって口付けや口吸いというものは既にこの男によってさせられた。
けれど回数は両手に収まる程度しかやっていない朧にとってはやはり慣れぬもの。
口吸いまでやるのかと思っていれば、何度か唇を重ね最後に朧の唇を甘噛みするように挟むとゆっくりと離れていった。




「っ




やはり慣れない。
恥ずかしくてたまらない。
顔を見られたくなくてぬらりひょんの首筋に顔を埋めれば少し苦しいくらいの力で抱きしめられる。




「凄いのう、朧は」

「……なにが」

「あんたに名を呼ばれるだけでワシは幸せでたまらんのじゃ」




ぬらりひょんの一つ一つの仕草が、全てただ私を愛おしむもので。
髪を撫でるのでさえも優しくて私自身が宝物になったかのような気分になる。




「朧に呼ばれるだけで、己の名がえらく特別なものに思える」

「……大袈裟だな」

「大袈裟かもしれんが、ワシにとってはそれほどのことなんじゃ」




たかが名前、されど名前。
今まで幾千幾万と呼ばれただろう己の名が、朧という人物に呼ばれるだけで光り輝くのだ。




「やっぱりあんたは特別じゃ。朧がいれば、そこらに転がるただの石も宝石になる気がするのう」

「いやそれはただの気のせいだ」

「そんな本気で返してこんでもええじゃろ。
気分の話じゃ、気分」




ぬらりひょんにとっての朧はそれほどまでの存在。
ぬらりひょんにはきっと言わないが朧にとってぬらりひょんという存在もまた同じ存在。

流石にぬらりひょんが言うようにそこらの石が宝石になる気はしないが、そんなただの石も特別なものに思えるほどぬらりひょんは既に朧の心の奥底に根付いているのだ。




「夫婦、か」

「朧?」

「……早く、なりたいものだな。夫婦に」




何よりも愛おしい女にそんなことを言われてしまえば、男…もといぬらりひょんが動かぬわけにはいかない。
というか動くしかないのである。




「よし、何がなんでも今月のうちに祝言をあげるぞ!」

「は……?」




朧はいやいやいや待て待て待て。と心の中で言う。
今は月末くらいで、今月はあともう数日しか残されていない。




「ま、え、ちょっと待てぬらりひょん」

「カラス!!!!カラスは何処じゃ!!!」




私を離したぬらりひょんはどデカい声で鴉天狗を呼び付け、総大将に呼ばれた鴉天狗は疲れた顔でパタパタと飛んできたではないか。
その顔つきでどれほどの仕事が押し付けられたかなんとなく察した。




「な、なんですか総大将……
こんなところで遊んでないで仕事してください……」

「おお、来たか。カラス、ワシに喧嘩売ってきた奴らの組はどれほどあったかの?」




鴉天狗の言葉は完全スルーで自分の話をするぬらりひょんに朧は呆れたが鴉天狗は気にしてないのか、普通にぬらりひょんの言葉に返す。




「えーっと、確か三つほどだったかと。
東の方の鬼の組とうちの化猫組に敵対する猫又の組。
あとは北の方に猿妖怪の組でしたかな、確か」

「よし、今日明日にその三組ぶっ潰す」

「はい…………はい!?」




思わず返事したがぬらりひょんがとんでもないことを言ったということに気づく。




「確か今日はたまたま幹部達もおったはずじゃ。
今すぐ呼び集めて広間に来いと伝えろ」

「は、ちょ、総大将!?
今日明日で全て潰すのはいささか厳しいのでは!?」

「やるっつったらやるしかねぇんだよ。
ワシはもう我慢ならん……!」

「なんのですか……!?」

「ワシは…一体いつになったら…
朧と夫婦になれるんじゃあ━━━━━!!!」

「はいぃぃいいい!!?」




今にも地団駄でも踏みそうなぬらりひょんに朧は脇でそれを見てため息をつき、鴉天狗に至ってはなんでそんな話になった!?と言いたげに驚いていた。




「そ、総大将!もう少ししたら落ち着きますから多分!
そうなったらあげましょう!?
朧様もそれをご了承してくださったではないですか!
ですから───」

「うるせぇ!ワシだけでなく朧も夫婦になりたいと強くそう思っとるんならワシャあ全力でそいつらぶっ潰して今月に祝言をあげる!
準備は既に整ってると雪女からは聞いとるからのう…
なら邪魔者潰すまでよ……!!」




……私はどうやら余計な事言ってしまったようだ
非常に申し訳ない。
すまん、鴉天狗。




「朧様ぁぁぁあああ!!!
総大将を止めてくだされ!!!」

「…………いや、ああなったらもうダメだと私は思うが」

「そ、そう言わずに……!!!」

「でええい!何しとるカラス!朧に話しかける暇があったらさっさと幹部呼んでこんかい!!
その羽根毟られてぇのか!!?」

「承知しましたぁぁぁあああ!!!」




ビュンッと光の速さで飛び去った鴉天狗に私は心の中で手を合わせた。
変に仕事を増やして、すまなんだ鴉天狗。
今度うんと労わってやろう。




























総大将、急に総会とはどうされたのです?

てめーら今日明日で喧嘩売って来た三組ぶっ潰すぞ

は?

狒々、ひとつ猿の組がある。
それはてめーに任せるから好きにしろ

キャハハ!わしは別行動かい

時間がねぇからな。くくく、ワシに喧嘩売った東の二つはワシが直々に木っ端微塵にぶっ潰してやる

…………鴉天狗、総大将は一体どうしたのだ

祝言を待つのがもう限界なんだそうだ、牛鬼

あぁ……そういうことか



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