私は彼を愛していた。心の底から、彼さえいれば何もいらないと本気でそう思っていた。彼も私に愛の言葉を何度も囁いてくれたし、私がその言葉を欲 しがる時はいつだって惜しみなく言ってくれた。私は彼の不思議で魅惑的な笑い方が大好きだった。本心を迫ってもひらりとかわされ、私ばかり彼に夢中になっている事を話す羽目になってしまい、それが原因で不満だと頬を膨らませれば「可愛い」とキスをしてくれた。そうすると私の不満はすぐに吹き飛んで、悔しいくらいに満ち足りた気持ちへと変わっていくのだった。一緒にいる時はよく手を繋いで、互いの目を見て話す事が日課になっていた。恋人繋ぎをして額にキスをしてくれる。そして他愛もない話をするのだ。時には口論になったりもしたけ ど、いつも彼の方から先に謝ってくれた。だから私も素直に謝る事が出来た。手料理が失敗した時だって彼は笑顔を崩さず、私の頭を撫でてくた。次は失敗しない為にも、と料理本をいくつも購入して「腕を上げたじゃん!」と褒めて貰った日はとても舞い上がって喜んだ。そんな一つ一つの思い出が宝物になり、やがて私は彼との幸せな家庭を築きたいと本気で願う様になっていた。こんな幸せがずっと続く様な気がして、ずっと一緒にいられると信じて疑わなかったから。けれど私は、彼の真実を何一つとして知らな かった。彼はとても魅力的な人間だったから。私は彼を深く知る前に愛してしまったのだ。彼はそんな私にさぞに失望しただろうし、それ以前に馬鹿な女だと心中では笑っていたのかもしれない。

彼が服に返り血をつけて家に訪れた時、私は涙が止まらなかった。最初は彼の血だと勘違いして気が動転していたのだが、彼はクックッと喉で笑いながらそれを否定した。

「これさぁ全部俺が殺した人間の返り血なんだよね」

「じ、冗談でしょ?龍之介はそんな酷い事しない」

「何を根拠に言えるわけ?だいたいあんたさぁ、俺の事何にも知らないじゃん?」

彼は人殺しだった。それも一度や二度ではなく、数え切れない程に罪を犯してきたとさも当然の様に言ってのけた。目の前で返り血をつけた男を私は知らない。私が愛した龍之介はこの男ではない。ならば私の恋人である、優しくて私をからかってばかりいる龍之介は何処に行ってしまったのだろう。信じたくないと拒絶するあまり、私は私の愛した龍之介は死んだのだと思い込む様にした。目の前にいる男の手によって、龍之介は殺されてしまったのだと。そして龍之介の顔を被った、殺人鬼が龍之介の振りをして私を騙そうとしているのだと。

「どうしたの?身体が震えてるけど。俺が温めてあげるよ、いつもの様にさ」

「さ、触らないで」

目の前の男は少しだけ目を細め、暫し私を観察していた。すると突然狂った様に奇声じみた笑い声を上げ、肩を揺らしている。何だこいつは、何なんだこのいかれた男は。じりじりと距離を作る為にあとず去れば、男はピタリと笑うの止め「何処に行くつもり?」と私の手首を掴んだ。殺される、頭が危険信号を発する。だけど抵抗しようにも手首をがっちりと掴まれ、身動きすら取れない状態になっている。どうすればいい。いったいどうすれば。小刻みに唇が震え、涙が頬を伝う。男は動じない。眉一つ動かさない。やはり目の前にいるこいつは私の知る龍之介じゃない。龍之介はいつだって私が泣 くと頭を撫でて抱き締めてくれた。私が泣き止むまで何度も何度も背中を撫で「俺が傍にいてあげるよ」と安心させてくれた。込み上げる悲しみと絶対的な恐怖に涙はとめどなく溢れてくる。返して、小さく呟いてみると次の瞬間には悲鳴に近い怒声が口をついた。

「返して!龍之介を、私の……私の大切な彼を返してよ!」

泣き崩れる。手首を掴まれている為、片方の手だけ上げて泣きじゃくるという妙な構図になっている事だろう。とても辛くて苦しくて悲しい筈なのに、何処か冷静に客観的な物言いが 出来る脳内が不思議で仕方なかった。男は何も言わない。部屋には私の啜り泣く声と、時計の秒針が刻まれる音だけが響き渡っていた。もう私は死んでしまう。龍之介が殺されてしまった様に、私もこの殺人鬼の手によって殺されてしまうんだと諦めに近い感情が支配していたのかもしれない。もう駄目だ。そう思った瞬間、ピンポーンとこの空間に不釣り合いな程明るいベルが鳴り、客人が来た事を知らせた。 私は咄嗟に立ち上がり、男の腕を思いっきり解いて一目瞭然に駆け出した。このチャンスを逃したらもう終わりだ。絶対殺されてしまう。もつれそうになりながらも急いで玄関に向か い、性急に鍵を開けた。「あ、宅配便でーす」 そう言って帽子を脱ぐ青年に半ば抱き付いて「助けて!殺される!」そう叫ぶのと同時に、私の頬を掠めた何かが青年の顔に突き刺さっ た。

「いっ……きゃああああ!」

咄嗟に目と口を何かが覆う。そして私の身体はすぐに部屋へと連れ戻され、何も見えないまま放り投げられた。壁に体当たりした背中に鈍い痛みが走る。ずるずるとずり落ちながら聞いたのは、玄関の鍵が締まりチェーンが掛けられる音だった。もう終わりだ。私は本当に殺されてしまう。宅配便を届けに来た体格の良い青年が一瞬で殺されたのだ。あんな光景を見せられた後に、女である私に何が出来ると言うのだろう。すっかり抵抗する意欲を失い私は静かに涙を流し続けた。頭上ではわざとらしい溜め息が聞こえてくる。

「やれやれ、恋人である俺の目の前で他の男に抱き付くなんて信じられないよ」

「…………」

「あんたはいつからそんなふしだらな女になったわけ?」

虚無だ。最早私には虚無しか残されていない。どうせすぐに殺されてしまうんだし、もう無理に取り繕う必要はないだろう。そう思って私は口をつぐんだまま言葉を聞き流していた。全てがどうでもいい。目の前にいる男が本当 の龍之介で、私の前で笑っていた今までの龍之介が偽物だったとしても、もういい。責任は私にある。私の見る目がなかったんだ。騙されていた、本当の彼を見抜いてあげる事が出来なかった。だからいい。偽りでも何でも、私が愛した龍之介はもう何処にもいないのだから。 頬に男の親指が触れ、ぐいっと涙を拭われる。 そんな動作に苛立ちを覚え睨み付けると、切れ長の目が更に細く鋭利なものへと変貌し た。ゾクリ、背中に鳥肌が立つ。

「ねぇ、そんな目で見つめられたら興奮するじゃん」

覚悟をしたというのに身体の震えは止まらない。男は顔面蒼白する私の顎を掴むと、唇を軽く吸い上げた。離れる際にちゅっ、と大きなリップ音がし、その音が更に私を不快にさせた。 無抵抗のままいれば男は「抵抗しなくていいの?」と耳元で囁く。

「殺すなら、早く殺して」

「あんた死にたいの?」

「死にたくないけど、殺すんでしょ」

男は答えない。だけどその表情は、何処か寂しそうに揺れている気がした。

「あんたは俺の付く嘘が余程お気に召したんだねぇ」

「……嘘?」

嘘だったと言うのか、あの日々を。私が大切に扱ってきたあの時間を、たった一言で片付けてしまうのか。嘘、ならばそうだ。私は男の、いや龍之介の付く嘘が大好きだった。龍之介の嘘に惑わされ魅了され、完全に骨抜きにされてしまったのだから。 そう言えば、と思い返す。過去に龍之介は私に 泣き止めと言った事は一度もなかった。只私の身体を撫で、只傍にいると言っただけで。只の一度も泣き止む事を促す発言はしなかったし、涙を拭う時の彼の表情はどこか恍惚に近い何かがあった気がする、と今になって思い出された。

「痛い」切れた頬に触れる。あの時投げられた包丁は、確かにいつも私が龍之介のために頑張っていた料理道具だった。思い出して、また涙が溢れる。すると龍之介は壊れ物に触れるかの如く優しい動作で私を抱き締めた。

ねぇ龍之介、あなたは私の泣く姿が好きだったの?だから私を悲しませる為に今まで嘘を付いてきたの?

嗚咽が混じる声で私は龍之介の名前を呼び続 けた。

「俺が傍にいるから」

そう言って笑い掛ける男は、確かに私の愛していた龍之介だった。


あなたはだあれ




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