あの日、ライドからの言葉にわたしは瞳が渇くまで、瞼を閉じる事が出来なかった。これは夢なのだろうか?だとしたらなんて悪い夢なのだろうと思った。不思議と涙は出てこなかったが、何もかも現実を受け入れる事が出来ないでいた。愛する人が手の届かない場所へ行ってしまった。行かないで。置いていかないで欲しい。私は彼にまだ何も返せていないのに。どうして。なんで。わたしはまだ。頭の中はそんな言葉でいっぱいだった。言葉は呪いだ、呪縛だ、呪詛だ。言葉は何年経っても体に染みついて離れないものだとわたしは思う。それが愛する人から送られた言葉なら永遠に消えない。三日月が言った通り彼の言葉はまだ生きていた。今だって彼の言葉を、声を、ぬくもりをすべて思い出せる。彼の言葉がわたしの中で生きている限りわたしは死ぬことはできない。死ぬことを許してくれない。死ぬつもりはないけれど彼がそばに居なければ意味はないのに。彼になにも言えなかった。ありがとうも、愛してるも、何もかも、言えなかった。死ぬな、生きろ、止まるな、彼の言葉はなんて悲しいのだろう。なんて重いのだろう。なんて、愛しいのだろう。そうしてわたしは彼の言葉に生かされるのだ。今日も。明日も。 空は青いいつも通りの昼下がりだった。いつも通りのはず、だった。目を閉じて小さく息を吸い込む。そして何かを確認するかのように静かに目を開ける。どういうことだろうか。目の前にはたしかに散ってしまった、いなくなってしまったオルガがいる。あの時と変わらない姿に知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。これは夢なのかもしれない。オルガは片目を瞑り「痩せたな」と困ったように言うのだ。片目を瞑るのは彼の癖だった。わたしの大好きな、彼の。 「どっかの誰かさんのせいでね」 「言ってくれるじゃねぇか」 「わたしは誰もオルガなんて一言も言ってないけど?」 相変わらずだな、とオルガが笑った。あぁ久しぶりに彼の笑顔を見たな、と静かに思った。名瀬さんたちが亡くなってしまった時から、いやそれよりも前からかもしれない。彼が笑う姿を見なくなったのは。そうしてわたしは「コーヒーでも飲む?」と立ち上がり、「あぁ」というオルガの声に椅子に手をかけたまま振り返ると、彼は椅子に座ったままわたしを見ている。どうしたか?と笑って尋ねるオルガに首を振った。自分から言ったものの、わたしがここから離れると彼は居なくなってしまうのではないかと不安になりながら台所へ向かい、コーヒーを片手に戻ると、そこにはかわらずオルガがいた。安堵したわたしはほっとしながらオルガの前にコーヒーを置き座る。 コーヒーに手を付ける事なくオルガは「懐かしいな」と呟いた。 「いつもお前にコーヒーを淹れてもらってたな」 「そうだね、眠気覚ましにってコーヒーを飲みすぎて最近コーヒーを飲んでも効かなくなったと聞いたときは睡眠薬でも入れてやろうかと思った」 「…恐ろしいことを言うんじゃねぇよ」 「それを三日月に言ったときは名案だねって言ってくれたよ」 「あいつ…」 苦笑いを浮かべるオルガに笑みが溢れる。そこからは昔話が続いた。アトラと共に鉄華団に雇ってくださいと押しかけたこと。名瀬さんたちと出会ったこと。初めて見た海のこと。一緒に見上げた地球の夜空のこと。新しい仲間が増えさらに騒がしくなった日々のこと。まるで1からパズルを当てはめるかのようにゆっくりと。なんだかその時間が永遠のように感じられた。実際は30分か、1時間か、それくらいの時間しか経ってないだろうにすごくすごく長く感じたのだ。そうしていつしか二人の会話はわずかに間が生まれたが居心地の悪いものではなかった。むしろ心地よく、懐かしい空間。あぁ、伝えるならば今しかないと思った。あの時に伝えることができなかった言葉を。これが夢でも良い。ううん、どうせ夢なのだから。きっと。だからこうして夢に彼が出てきたのかもしれない。 「あのね、オルガ」 「ん?」 「わたしはね、何があってもオルガに生きていてほしかったよ」 しっかりと彼の目を見つめ、伝えた。それはわたしの今まで彼に言えずにいた本音だった。すでに多くのものを抱え込んだ彼は自分のために生きることはないだろうとわかっていた。家族のためならば自分はどうなっても構わないと。それでもわたしは彼に伝えたかったのだ。ただ生きて傍にいてほしかったのだと。 「俺もお前には生きていてほしいと思ってた」 「っ!わたしはっ!オルガがいない世界なんて…!」 いらなかった。長年言いたかった事をぶつけようと思った。それでも最後まで言えず、言葉が詰まる。別に恨み言を言いたいわけではなかったのだ。そんなことを彼にわたしは伝えたかったわけじゃない。そんなわたしに彼は片目を瞑りくすりと笑った。 「お前に出逢えてよかった。俺はずっとそれを伝えたかった」 ひどく優しい顔で、ひどく優しい声だった。その優しさはあの頃のままで、それがとてもつらかった。胸をかきむしり泣いてしまいそうなくらい悲しかった。そんな素敵な言葉をもらってしまっては何にも言えなくなる。わたしはただただ嬉しくて、言いたかったことは飲み込んだ。代わりにあの日出ることのなかった涙が溢れてしまいそうだった。そんなわたしに気づいたのか、オルガが手を伸ばす。オルガの指先はわたしの頬に触れようとしたものの、一瞬寂しげな顔をして手を引っ込めて時間か、と目を伏せた。 「お前がまだ歩き続けてくれててよかった」 オルガがまっすぐ見て言う。その目の美しさに小さく息を飲んだ。澱みのない目だった。 いつまでもいつまでも笑っていてくれ。そんなお前が俺は好きだった――と微笑んだ彼にわたしもオルガが好きだったよと笑い返し、とうとうわたしの涙は静かに頬を流れて行く。それを今度こそオルガはわたしの頬に優しく触れ、涙を拭く。 「泣くなよ」 泣かせているのはいったいどこの誰だと思っているんだ。きっと彼もわかってはいるのだろうが言葉にせずにはいられなかったのだろう。どこまでもずるく優しい人だ。たぶんこの夢の中で一番優しい時間だろう今この瞬間が止まればいいと願ってしまうほど、穏やかな時間だった。 そんなわたしの思いを咎めるように視界がぼやけていく。お願い、まだ、もう少し。そう願ったが窓から強い風が通り抜け、わたしの髪が揺れ思わず目を閉じる。薄れゆく意識の中、最後に聞こえた彼の言葉はわたしの勘違いではなければわたしの名前だった。 「ーーーって。起きて」 耳元で、今や聞き慣れた声が聞こえ目を開ける。どうやらわたしは眠っていたらしい。 「…暁、アトラ」 「こんなとこで寝てたら風邪引くって言ってた」 誰が、とは言わないそういうところは本当に父親に似たらしい。ごめんね、起こしてくれてありがとうと暁の頭を撫でると暁は嬉しそうに笑う。 「そろそろクーデリアも帰ってくるしご飯にしようよ」 「ごめん、アトラ。1人でご飯の用意やらせちゃったね。もっと早く起こしてくれてもよかったのに。」 「いいんだよ。気持ち良さそうに寝ちゃってたから起こすのも悪いかなって思ってさ。」 「…夢を見てたんだ」 夢?と首をかしげるアトラに夢の話をしようとして、言葉に詰まる。どんな夢だっただろうか。何故か思い出そうとすると霧がかかったように思い出せなかった。何も言わないわたしにまた首をかしげるアトラ。すごく、優しい夢だったとだけ伝える。夢の内容は思い出せないがそれだけは確信を持って言えた。あれからずっと心の中で重たく渦巻いてたものがぽっかり無くなりすっきりとした感覚がしたからだ。なんだか気分がいい。よかったね、と笑う彼女はあの頃の幼い笑顔とは違い母親の顔をしていた。 そうして3人でリビングに向かう中、未だ、誰も気付いていない。 わたしが眠ってしまっていたテーブルに、冷めてしまったコーヒーが入ったコップが一つあった事に。確かにそこには先程まで「誰か」がいたことをコーヒーが主張していることに。 どこまでが夢で、何処までが現だったのか。 それを知る者はいない。 さようなら、また逢う日まで thanx:アダムの溜息 |