リピカの箱庭番外編
レーシュの旋律

※元拍手お礼SS
※ホド編軸

ぱたんと本を閉じる。頭が少し痛くて熱っぽい。これ以上続けるとまた倒れるか、いや、もう手遅れか。どちらにせよ集中できなくなったので、私は椅子から降りてため息をついた。
さて、読書を続けられないとなるとどうしよう。ガイラルディアはお姉さまにとっ捕まってしまったし、不思議と眠気はないので昼寝も却下。外の風に当たりたくなったので庭にでも出てみようか。
「あらお嬢様。どちらに行かれるのですか?」
広い屋敷の回廊に出ると、メイドさんが声をかけてきた。
「にわにいきます」
「はあい、お気をつけて」
にこりと微笑んだメイドさんに頷く。中身はともかく今の私は幼児なので、一人でふらふらしているとこうやって声をかけられることが多い。屋敷の中とはいえどこにいるかは把握しておきたいのだろう。
けれど今はそういうのに応えるのも億劫で、人気のなさそうな道を選んで歩く。となるとだんだん見覚えのない景色になっていって、屋敷の中でも来たことのない場所があることに気がついた。
つまり、迷子になった。
「……うーん」
来た方向を戻ってみようかなと考えたのもつかの間、何かの音が聞こえてきて私は顔を上げた。これは楽器だろうか。少しくぐもった音色は、近くの建物から響いていた。
その建物がなんなのかはすぐにわかった。礼拝堂だ。扉が少し開いていたのでそこから体をねじ込んで侵入すると、奥の方に大きな楽器があるのが見えた。
形や音はパイプオルガンに似ている。確か、礼拝堂のオルガンはただの楽器ではなく音機関だとガイラルディアの持っていた本に書いてあった。どんなものなのかは知らないけれど、まあああいう楽器というのはつくりが複雑だし、音素に何らかの干渉をするものなのかもしれない。
そのオルガンを弾いているのはヴァンデスデルカだった。こっそり近くまで来て、知らない旋律を奏でるヴァンデスデルカを眺める。ひどく真剣な横顔は譜歌を詠っている時とも違った。
――まるで知らない人のようで、どうしてか不安になる。
「……、お嬢さま!?」
そうやってしばらく眺めていたけれど、弾き終えて鍵盤から指を離したヴァンデスデルカが目を丸くしてこちらを振り向いたときはいつものヴァンデスデルカだった。そのことに安心してオルガンに近づく。
「なぜこんなところに?」
「ええと……さんぽをしていたら、きこえたので」
「散歩、ですか。こちらには来てはいけないと言われませんでしたか?」
……そうだっけ?私は首をかしげる。そんなことを言われた記憶があるようなないような。ヴァンデスデルカはそんな私に嘆息した。
「今日は調律師が来ていたんですよ。もう終わりましたが」
「ちょうりつ?たちあいをしたんですか?」
「母の手伝いですので、大したことはしていません」
へえ、楽器の管理はフェンデ夫人の仕事だったのか。よく分からないがヴァンデスデルカも子どもなのに仕事の手伝いをさせられていて大変だ。それを言ったら私やガイラルディアの相手がすでに仕事なのだろうけれど。
「今後は気をつけてくださいね」
「はあい……」
「さ、戻りましょう」
釘を刺されてしぶしぶ頷いたが、せっかくここまで来たのに戻ってしまうのはもったいない。ヴァンデスデルカがいれば迷子にならないだろうと思うと余裕もあった。
「ヴァンデスデルカ、おしえてください」
「はい?」
「ひけるのでしょう?わたしもやってみたいです」
そう言いながら椅子によじ登ろうとしたが、この体には高すぎる。と、体が宙に浮いて、一瞬後に抱え上げられたことに気づいた。
「では、こちらに」
「はい!」
ヴァンデスデルカの脚の間に座らせてもらって、鍵盤に手を伸ばす。並んだヴァンデスデルカの手もそう大きくはないけれど、私の手に比べたらずっと大きい。
その指がなめらかに旋律を紡ぐ。この体勢ではヴァンデスデルカの顔は見えなかったので、先ほどのように不安にはならなかった。
「こんな感じで……お嬢さま、できますか?」
ぼんやりと音に耳を傾けていたところでそう問われてはっとする。いやいや、難易度高いって。
「も、もっとゆっくりやってください」
「はい、では少しずつ」
たぶん微笑んでいるのだろうな、という声色でヴァンデスデルカが応える。鍵盤がひとつひとつゆっくり下がって、どこか荘厳な音が礼拝堂に響く。それを追いかけるように自分も指を鍵盤に滑らせると、いくらか間の抜けた音が鳴った。
「お、おもい……」
鍵盤が予想上に重かったのだ。手を広げた状態で鳴らそうとすると、指が痛くなってしまうしきちんと音も響かない。後ろでヴァンデスデルカがくすりと笑うのがわかる。
「お嬢さまにはまだ早かったですか」
「むう」
「そのうち弾けるようになりますよ。無理をしたら指を痛めてしまいます」
そっと手を取られてヴァンデスデルカのあたたかい手のひらに包まれる。
「……そのうち、」
そんな日が来るのだろうか。ホドが滅ぶことを私は知っている。巻き込まれたらおそらく私は死ぬだろう。この手のひらが大きくなることはないかもしれない。
「ええ、そのうち。お嬢さまが弾けるようになったらいつでもお教えしますよ」
ヴァンデスデルカはその未来を知らない。いつでも、なんてきっと訪れない。でも私はすがるように尋ねてしまった。
「ほんとうに?」
「本当です。なので今日はもう戻りましょうか」
「……わかりました」
かなわない約束なんて虚しいだけなのに、それでも今だけは嬉しいと思ってしまう。ヴァンデスデルカに椅子から降ろしてもらって、鍵盤に蓋を下ろす横顔を見つめる。
「ほんとうにおしえてくれますか?」
なんと言えばいいのか分からず、私は確認するように尋ねていた。ヴァンデスデルカが振り向いて、微笑ましいものを見るのように目を細めた。
「ええ、本当に。そんなに弾けなかったのが悔しいのですか?」
「そ、そんなことありません」
別に悔しいとかじゃなくて、……なくて、いや、本当に。ぷいと顔をそらすとヴァンデスデルカが喉を鳴らして笑うので、私は頬を膨らませた。
「もう!なんなのですか」
「いえ、すみません。拗ねないでください、私が悪かったですから」
「ヴァンデスデルカはおおきくていいですよね」
「お嬢さまもすぐ大きくなりますよ。旦那さまは体格が良くていらっしゃいますから」
「それをいったらヴァンデスデルカもうんとせがたかくなりますよ」
「そうなりたいものです」
訪れるか分からない未来の話をしながら礼拝堂を出る。
どうなるか分からないのだから、夢想することくらいは許されるはずだ。そう声に出さずにつぶやいて、私はただ私の知っているヴァンデスデルカを見上げた。


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