リピカの箱庭
幕間28

母が亡くなった瞬間からリースは孤児になった。
母は元々はどこかの屋敷で侍女をしていたらしい。父親が誰かは知らなかった。孤児になったリースは住める場所もなく、孤児院に引き取られた。
しかしすぐにリースは引き取られることになった。それも、貴族の家に。その貴族はシュタインメッツ伯爵と名乗り、リースのことを皇子の御落胤だと告げた。
信じられない気持ちだったが、あの貴族が!――街に来ては民に暴虐を振るう特権階級の人間が、ただの孤児であるリースに丁寧な言葉遣いで喋るのだ。
何人かの使用人がリースにつき、家庭教師がリースを教育した。立ち振る舞い、言葉遣い、全てを矯正されて平民だったリースの価値観は上書きされた。横暴な貴族そのものに。そして同時に、今代の皇帝陛下であるピオニー・ウパラ・マルクト三世が帝位の簒奪者であるということも刷り込まれた。
あなたが皇帝になるのです。シュタインメッツはそう言った。それがリースの価値だった。リースを叱るとき、それでは皇帝になれないと言うのが家庭教師の口癖だった。命を狙われてしまうからとリースは半ば幽閉され、厳しい教育の拠り所は自然と自分が帝位継承者であることになっていた。
後から振り返ってみれば、たとえリースがフランツ皇子の真の息子だったとして、ピオニーを簒奪者と罵ることはできない。ピオニーの母は先代皇帝の妃の中でも最も位が低かったが、それでも貴族だった。しかしリースの母は完全に平民である。シュタインメッツの後ろ盾があったとして、その帝位継承に正当性があるかどうかは首を傾げざるを得ないものだ。
リースは数年かけて教育され、そして計画が実行されたのは預言の撤廃が為された時だった。
アクゼリュスの崩落に端を欲す戦の行く末はシュタインメッツの気に召すものではなかった。アクゼリュスがキムラスカの親善大使一行の手により滅んだ時、ガルディオス伯爵も死ぬ時は役に立つものだと喜んでいたが、しかしその死は事実ではなかった。無事に帰還した彼女はピオニーと共に停戦交渉に出向き、和平は成立した。そして預言の撤廃――シュタインメッツはこれ以上黙って見ていられなかったのだろう。リースを連れ帝都グランコクマに向かい、リースがご落胤であるという噂をばら撒いた。
そして狙い通り、その噂の真贋を確かめに皇帝の手の者が訪れた。それが皇帝ピオニーその人だったことには驚いたが、シュタインメッツのリースの帝位継承権に関する発表は無事謁見の間、つまり公式の場で行われることになった。これで真実は明らかになり、ピオニーはその帝位の正当性を問われることになる。リースはそう信じていた。
音素検査の結果も、嘘だと思った。だって自分はフランツ皇子の息子なのだ。帝位継承権を持つ人間なのだ。そうでなくては、そうじゃないと、平民じゃないから、自分は、特別なはずで。
「お前はピオニーの側で爆発するための手駒だ!ご落胤であるわけがなかろう!」
なんと言われたかわからなかった。熱い、体が燃える。第五音素が暴走していることが嫌でもわかった。爆発――そう、爆発すれば無事では済まない。
このまま、死ぬ。
失意のままリースは悟った。しかし目の前にきらめく何かが飛び込んできて、その瞬間急に音素の勢いが弱まった。
「カーティス大佐!第四音素で打ち消しなさい!」
女の声が聞こえた。ひどい状態のリースからは顔は判然としなかったが、かすかな希望はあった。女の指示の通りリースの体は冷たい音素で包まれ、暴走は止まった。崩れ落ちたリースは床に落ちた丸いそれ――響律符に手を伸ばし、握り込んだ。命綱のように。
死ななかった?でも――。
周りはまだ騒がしい。リースを捕らえにくる者はおらず、なんとか顔を上げると兵たちが貴族を捕らえようとしていた。どうなっている。リースは何も知らされていない。けれど皇帝の命が危ないことは察せられた。
シュタインメッツはピオニーを憎んでいると言ってもよかった。何もかも思い通りにならない若き皇帝。その姿を探そうとして、それよりも先に視界に入ったのは剣を振るうドレス姿の女だった。
女性の兵士は珍しくない。けれど、ドレス姿で剣を振るう女はそういないだろう。舞うような剣筋で兵士を圧倒した女はハッと顔を上げた。
「ピオニー陛下ッ!」
リースはそこから動けなかった。逃げ方がわからなかった。もし女がリースに肩を貸して引っ張らなければ、そこで呆然としたまま譜術に巻き込まれていただろう。
ピオニーが、本当の皇帝が死んでいなければいいと思った。その日、リースがちゃんと覚えているのはそこまでで、次に意識を取り戻したのは牢の中だった。
それもそうだ。自分が帝位継承者を騙り皇帝の暗殺を目論んだ一味であることは明らかだ。軍人たちの恐喝まがいの尋問、いや、拷問と言っていいそれは八つ当たりのようなものだった。リースはきちんと答えたが、駒でしかない以上大したことは知らされておらず、分からないことがあるたびに痛めつけられた。どうせ死刑だという大義名分がその軍人たちにはあったらしい。
「俺がいつ、リースが死刑だと言った?」
拷問はすぐに止んだ。皇帝陛下が直々に牢に出向き、やめさせたからだ。リースは驚きピオニーの顔を見上げた。
「どうして……」
「すまなかったな。暴走が過ぎるぞ、アスラン」
「申し訳ございません」
「処罰は任せる。リースのことは俺が決めよう」
「かしこまりました」
何が何やらわからないうちに、リースは牢から王城の一室に移された。そのリースの世話をしたのは若い男で、軍服を着ていなかったのでホッとした。見覚えがあるのは王城の庭でピオニーに声をかけられたときや謁見の間での発表のときにいたからだと思い出す。
「私は、どうなるんだ」
ポツリと漏らしたリースに、男は肩をすくめた。
「陛下が決めるのだろうさ。とはいえ処刑はされないだろう」
「なぜだ?私は陛下を殺そうとしたのだぞ」
「暗殺を目論んだのはシュタインメッツだ。お前じゃない。……陛下はそう考えていらっしゃる」
碧い瞳がリースを見つめる。歳の割に老成した雰囲気があり、そして、誰かに似ていた。
誰に?考えても思い至らない。
「それでも、無罪放免にはならないのだろう。どこに行けというんだ……」
リースに居場所はない。価値ももうない。全て、このときのために仕立て上げられた張りぼてだった。そんなリースに男は答えなかった。答えを持つのは、ピオニーだけだからだ。

はたしてピオニーは、リースに笑顔で問いかけた。
「お前はどうしたい?」
「……」
驚きすぎて声が出ない。急かすことなくピオニーは待っていて、その笑顔が偽物ではないことがむしろ気味が悪かった。殺されかけたというのに、いや、その前からピオニーは面白がっていた。帝位を脅かされることなど大した問題ではないと言わんばかりに。
「したいことなど……行く場所など、ありません」
「随分と愁傷だな。シュタインメッツと出会う前は何かしたいこと、なりたいものくらいあったのではないか」
「……いえ」
そんなのは思い出せなかった。あの頃の自分が、本当に今の自分と地続きかどうかもわからない。全て塗り替えられて、それが嘘だったと知って、あの頃に戻れるかなんてそんなわけがない。
「なぜ私を罪に問わないのですか」
何よりそれが、怖かった。責められるはずなのにどうして。ピオニーが恐ろしかった。皇帝という存在が、怖かった。
ピオニーは面持ちを引き締めると、リースをじっと見据えた。
「お前とて俺の民だ。シュタインメッツの被害者となることを止められなかった罪は俺のものだろう」
「そんなことは」
「民に恨まれるのも皇帝の仕事だ」
そんなこと、シュタインメッツは言わなかった。いや、何が皇帝の仕事かなんて一度も教えてはくれなかった。もともとリースが捨て駒なら、体裁だけ整えればよかったのだろう。それでも、自分が帝位継承者だと信じていたリース自身考えたこともなかった。
それで、いいのか。――その座に座ることを良しとしているのか。
問いかけそうになりリースは口をつぐんだ。罪人であり、平民であり、本来ならば皇帝となんの関わりもないリースに問えるものでもないと思ったからだ。
「さて、やりたいことがないのなら見つけねばならん。そうだなあ、ガイラルディア」
「は、なんでしょう」
若い男が応える。ガイラルディアという名前なのかとリースはようやく知った。
「ホドグラドの塾なんかどうだ」
「……レティシアに任せるおつもりですか」
「レティシアなら放ってはおかんだろう。あの場で助けたほどだ」
「レティシアなら、そう動きます。陛下、あなたに命じられればこの者を保護することにも反対はしないでしょう」
少しだけ苦々しげにガイラルディアという男は言った。レティシア、とリースは頭の中で名前を反芻する。知っている、レティシア・ガラン・ガルディオス。死ななかったガルディオス伯爵。
「ガルディオス伯爵……」
「知っているだろう?」
つい口に出すと、ピオニーは微笑んだ。ああ、わかった。
やりたいことが、一つだけ。
「礼を、したい、のです」
「レティシアに?」
「はい」
「……ははあ。なるほど。わかった、そうだなあ。レティシアに礼がしたいのなら騎士になるがいい。ガルディオス家の騎士だ」
「ピオニー陛下?!何をおっしゃるんです!」
「いいじゃないか。ガルディオス家の騎士にはよほどでないとなれないぞ。その覚悟を問うているのだ」
覚悟はない。何もない。ただ感謝を伝えたいという気持ちだけしか持っていない。リースは俯いていた顔を上げた。
「わかりません。ですが、したいことがそれしかないので、そのためにできることをさせてほしい、です」
「ならばよし。ガイラルディア、この者がレティシアを害すと思うか?」
「いいえ。ですが周りが何と思うか」
「レティシアは俺に面倒ごとを押し付けられただけだ。むしろ他の家にやるほうが疑念を抱かれかねんぞ」
ガルディオス家は親皇帝派と見做されている。中立や中途半端な家に引き取らせるほうがその家の立場を危うくするだろう。
「それはそうですが。……では、レティシアの判断に任せます」
「決まりだな」
皇帝の裁定が下り、リースは頭を垂れた。つまり、ガルディオス伯爵が断ることはないだろうとピオニーは笑んだのだが、リースにはそれがわからない。仮に拒否されたのなら、その時は本当になにもしたいこともなくなってしまうけれど。
ふとポケットの中に入れっぱなしの響律符のことを思い出す。牢から出されたときに持ち物はすべて返されていたが、これはあの謁見の間で拾ったものだ。音素の勢いが弱まったのはこの響律符のおかげで、きっとガルディオス伯爵の持ち物なのだろう。
もし、騎士になれたのなら。リースは騎士のことは詳しくない。だがあの女伯爵に仕えることができたのなら、そのときにようやく感謝を述べることが許される。そしてこの命綱を彼女に返すことができるのだろうと思った。


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