月の蒼天
01

桃色の花弁がひらりと目の前を舞う。馬車の窓から外を覗くと満開に花開いたハルルの樹が視界いっぱいに飛び込んでくる。
「……」
この光景は何度見ても不思議だ。どうして不思議と思うのか自分でもわからない。「街」で暮らしていた頃は、こんなに大きな樹がなかったからかもしれないし、ハルルの樹は魔導器としても特殊だからなのかもしれなかった。
「レティシア?」
隣のフレンが声をかけてくる。わたしはパッと振り返った。
「どうかしました?」
「いや、随分と熱心にハルルの樹を見ていたから、また何かあったのかと……」
「ハルルの結界に問題はないです。この間リタさんが来たときも確認してくれました」
建て直されたアスピオにいるリタさんはそれなりの頻度でハルルにやってくる。ハルルの結界魔導器を見るという名目なことが多いけど、本当はエステルに会いにきているだけというのはわたしだって知っていた。
「そうか。やはり結界魔導器が万全な状態ならばそれに越したことはないからね。それにハルルには君とエステリーゼ様がいる。どうしても心配なんだ」
星喰みを消滅させてから五年。世界は精霊に満たされつつある。リタさんが言うには、あと数年もすれば、変化は指数関数的にもっと急速になるそうだ。それまで魔導器は使えるけれど、いつまでもこのままではいられない。もっとも、ハルルの結界魔導器は勝手に精霊化していたのでリタさん曰く「別の使い方がある」らしいけれど。
魔導器の不調という話も最近はよく聞くようになった。それでも結界魔導器は人びとの拠り所だった。いつかなくなるとわかってなお、フレンがこう言うくらいには。
「心配性ですね、フレンは」
今日だってそうだ。用事があるついでとか言って、わざわざ帝都から送ってくれたのだ。フレンが帝国の騎士団長として多忙にしているのは私もよく知っているから、気を遣ってくれたのだろう。こっちが心配になる。
「そんなことはないと思うけれど。レティシア、ちょっと寄っていかないかな」
「フレンがいいなら、構わないです」
そんなフレンに誘われるがまま馬車を降りて、私はハルルの樹の下へ歩いて行った。話を聞いただけなのだけど、フレンは騎士の巡礼に出たときに、枯れかけていたハルルの樹を持ち直すために手を尽くしていたらしい。結局ユーリさんに連れられて城を飛び出したエステルが治したそうだが、フレンにとってもハルルの樹は思い出深いものなのかもしれない。
ひらひらと舞い散る花弁を目で追う。するとフレンはこちらに手を伸ばしてきた。思わず目を丸くすると、フレンの指が鼻の頭に触れてから離れていった。指先には桃色の花弁がくっついている。
「ふふ、花びらまみれだね」
「……フレンだってそうです」
これだけ散っている樹の真下にいれば花びらが顔や髪につくのも仕方ない。わたしはこれから帰るだけだからいいけれど、フレンは仕事があるのだから花びらなんてくっつけていられないんじゃないのかな。
フレンは目を細めると、何かを言いたそうにして口ごもった。ちょっと珍しい。フレンは言うべきことははっきり言うほうだ。
「フレン?」
首を傾げてフレンを見上げる。出会ったときよりもわたしの身長は伸びて、でもフレンの顔はまだ見上げる位置にあった。その顔がいつもより近づく。
「レティシア、……その」
「うん?」
「……僕と、婚約してくれないか」
風がざあと吹いて、花吹雪が舞う。それでもこんなに近ければフレンの表情を見逃すことなんてない。
わたしはぽかんと、フレンがたった今告げた言葉を反芻していた。

ドアを開ける。わたしはどうにか中に入り込んで、それからずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
「レティシア、おかえりなさい。ヨーデルは……って、どうしたんです?」
わたしの帰宅に気がついたエステルが驚いたように駆け寄ってきた。その背後も騒がしい。誰か来ているみたいだけど、構っている余裕はなかった。
「……ぅ、っ、」
「レティシア?レティシア!」
勝手に喉から嗚咽が漏れる。わたしはうつむいたまま唇を噛み締めた。泣きたくなんかない。これ以上、情けないところは見せたくない。
「ちょっとエステル、一体何事よ。レティシア?」
「あらあら」
声を聞いただけでお客さんはリタさんとジュディスさんということはわかった。エステルがわたしの肩に手を乗せて顔を覗き込んで来ようとして、振りほどくことも出来ず、ぎゅっと目を閉じる。顔を伝うしずくが煩わしい。
「えっ、泣いてるの?なんなのよもう」
「……ぐずっ、なんでも、ない……です……」
「なんでもなくはないでしょ!」
リタさんまでわたしのそばに膝をついた。手を取られる。慰めるように背中を撫でられて、余計泣きたい気持ちになった。
「まあ、言いたくないことなら言わなくていいんじゃないかしら?」
「あんたこの状態のレティシアを見てそんなことよく言えるわね!?」
「もう一人に聞けばいいだけだもの」
さらりと答えたジュディスさんにわたしはつい肩を震わせた。
「さっきまでフレンといたんでしょう?外に来る気配で分かったわ」
ジュディスさんはこういうところでひどく聡い。うう、と喉の奥で唸ってしまった。
「えっ、フレン!?あんたフレンにこんなに泣かされてんの!?」
「まさか、フレンに限って……」
「ある意味女泣かせだけど」
エステルとリタさんがあれこれと言い始めたので、わたしはもう観念するしかなかった。顔を乱暴に拭って息を吐く。ジュディスさんはいじわるだ。
「……、フレンは悪くないです」
「別に庇わなくていいわよ。あいつがなんかしたんなら天下の騎士団長様だろうがなんだろうがとっちめてやるから」
リタさんが物騒なことを言う。そして実際とっちめるだろうところがリタさんがリタさんである所以だった。
「まあまあ、レティシア、とりあえずリビングに行きましょう?お茶は飲みますか?」
「……飲みます」
「はい、待っててくださいね」
エステルはやわらかく言って、わたしをリビングに連れて行ってくれた。エステルのその声とあたたかい手でいくらか気持ちが落ち着いたから、エステルはすごいと思う。


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