リピカの箱庭
ION/02

ケセドニア周辺とルグニカ平野の降下は成功した。しかし魔界の空を飛んで回った結果分かったのは、セフィロトが暴走し、パッセージリングが耐用限界に到達しているということだった。
「ケセドニアもセフィロトの力で液状化した大地の上に浮いてるんだよな?なら、パッセージリングが壊れたら……」
「泥の海に飲み込まれますね。液状化した魔界の大地が、固形化でもすれば話は別ですが」
ガイの問いにジェイドが答える。事態はかなり切迫していると言ってよかった。
「そもそも、障気の汚染と液状化から逃れるために外殻大地を作ったのでしょう?外殻大地を作った人びとすら、大地の液状化に対して何もできなかったのに……」
ナタリアの言葉に重い沈黙が下りた。液状化など、どうしようもないのではないか。――ならば、今後世界は沈むしかない。外殻大地の存続も、魔界での生存も不可能なのではないか。そんな絶望をどうにか振り払うようにルークが声を上げた。
「なあ、ユリアの預言にはセフィロトが暴走することは詠まれてないのか?暴走するには理由があるだろ。対処法とか預言にないのかよ」
「残ってるとしても、お祖父さまでは閲覧できない機密事項じゃないかしら」
つまり、ユリアシティはあてにできない。となると――。
イオンは顔を上げた。
「なら導師に頼るしかないね。ユリアの預言、その最高機密を調べられるのは導師だけだ」
元導師であるイオンの言葉に一行ははっとして彼を見た。ジェイドだけは冷静にイオンを見つめ返す。
「あなたは知らないのですか?」
「もともと僕はここまで生きている予定じゃなかったから興味なかったし、秘預言全部を覚えてなんかないよ。それに僕の言葉を信じられるって言うの?改めて確認したほうが確実だろ」
「別に、信じてないわけじゃないんだけど……」
そうでなければ、ここまでの同行だって誰かが反対しただろう。ルークが言うが、イオンはふんと鼻を鳴らすだけだった。
「……だったら、ダアトへ向かおう。何か対処方法があるかもしれない」

一行はアルビオールで外殻に戻り、ダアトへ向かった。途中空から見えたルグニカ大陸はほとんどが降下してしまっており、残っているのはグランコクマ周辺だけだ。幸いダアトへ辿り着いて得た情報によると、降下した状態では戦争も中断になっているらしい。
「……で、イオンはどこにいるんだ?」
教会に入ったはいいものの、導師の居場所が見当もつかないルークが漏らす。
「ご自身の私室ではありませんか?」
モースがいる以上、導師が自由に出歩けているとは考えにくい。アニスを捕まえられればいいが、彼女もきっと導師のそばにいるのだろう。そう言うジェイドにティアが困ったように眉を下げた。
「でも導師のお部屋は教団幹部しか入れないわ。鍵代わりに譜陣が置かれていて、侵入者対策になっているの」
「それくらいどうとでもなる」
事も無げに答えたイオンはすたすたと迷いのない足取りで内部へと入っていった。その堂々っぷりについルークはガイと顔を見合わせて、そろそろと後についていく。
「さすが、『元』導師ですねえ」
「まあね。ここだよ」
イオンが案内したのは五つの譜陣が置かれた部屋だった。そのうちの中央の譜陣の上に乗って唱える。
「『ユリアの御霊は導師と共に』」
その瞬間イオンの体は掻き消えた。「うわっ、消えた!」驚くルークをティアが宥める。
「ユリアロードと同じ原理よ。心配しなくていいわ」
「よし……行くか」
モースとディストに見つかりそうになる一幕があったものの、一行は無事に導師の私室に辿り着いた。警護していたのがアニスだったためすんなりと導師との面会は叶う。
しかし、秘預言を確認するために教団に戻ったという導師もセフィロトの暴走のことは知らなかった。
「念のため、礼拝堂の奥へ行って調べてみましょう」
「礼拝堂の奥?なんで?」
「譜石が設置してあります。そこで預言を確認できますから」
「イオン様!それはお体に障りますよぅ!」
アニスが慌てて導師を止める。レプリカであるため体力が劣る導師――その顔色はいいとは言えない。イオンは思わず口を出していた。
「お前、その体であと何回預言が詠めると思ってる」
「……え?」
アニスがばっと振り向く。導師は静かにイオンを見つめていた。
「ここでくたばることを選ぶのか、お前は」
「僕は……」
「そ、そんなに悪いんですかっ、イオン様!?」
ぐ、と導師は――レプリカイオンは拳を握った。
「それが僕に、できることですから……」
「だめだ!イオンを犠牲になんかできない!」
アニスと一緒になってルークもレプリカイオンを制した。その様子を冷ややかにイオンは眺める。
「できること?馬鹿言え、預言の犠牲になることがお前にできるたった一つのことだと、本当に思っているのか?ここでお前が死んでどうなると思う。導師の座が空になればモースの奴が増長するのは目に見えてるだろう。戦争を止めるのがお前の目的だったんじゃないのか」
「ですが……っ、だったら、どうしろと言うのですか!」
悲鳴のように叫ぶレプリカイオンに、イオンは声を荒げず、ただ淡々と尋ねた。
「お前の前にいるのは誰だ、導師イオン」
息を呑む音が聞こえる。
フードの下の同じ顔が、見つめ合う。レプリカイオンは嗚咽をこらえるように、血を吐くように、信じられるはずのないものを目の当たりにして喉を震わせた。
「……イオン、オリジナル……」
「死にたくなければ選ぶんだ。僕は『ただのイオン』だけど……預言ならいくらでも詠んでやる」
「あなたが」
ぽつりと呟きが落ちる。
「どうして、あなたが……」
イオンは硬く目をつぶって、何かを振り払うように首を横に振った。
「僕と同じ顔したやつの自己犠牲なんて今更見たくないんだよ。僕だって……選んでここにいるんだ。簡単に死んでもいいとか言うな。生きるためにはオリジナルだろうが、お前には利用する権利がある」
「……」
「ほら、早く。時間がないんだから」
わかっている。自分がどれほど酷なことを突きつけているのか、イオンにはよくわかっていた。
それは――レプリカの存在の否定だ。導師として作られたレプリカから、導師にしか成し得ないユリアの預言を詠むという行為を剥奪する。例え預言を詠むことで命尽きるのだとしても、そのために生まれたレプリカには抗う選択肢などなかったはずだ。
オリジナルが生きていなかったら、その前提が崩れ去ることなどなかっただろう。今この瞬間、イオンがここにいることさえなければ。
「イオン様……死んじゃうなんて嫌です。お願いします、預言はノイに任せましょう」
「そうだよ、イオンが無理することない。ノイが詠んでくれるならそれでいいじゃねえか」
「導師イオンがいなくなられたら和平もなりません。わたくしたちには、いえ、世界にはあなたが必要なのです」
アニスたちが言い募る。それを冷静な目で見ていたのはジェイドだけだった。
「僕の代わりは……いえ、僕は、代わりでしかない……」
掠れた声が響く。イオンを見つめるレプリカイオンの瞳は、何かに燃えていた。
「あなたが導師になれば――元の形に、戻ればいい!預言も、和平も、あなたがいればいいんでしょう!オリジナル!」
「イオン様っ!」
アニスの腕を振り払って、レプリカイオンはイオンに詰め寄った。すがりつく手を、強く握ってすら痣すら残せない非力な指を、イオンは黙って受け入れる。
「なぜ、なぜなんです。僕は、あなたがいては何にもなれないのに」
「……お前、何も見えないのか?」
イオンの指がレプリカイオンのおとがいを掴む。無理やり上げさせられた顔を覗き込むように、逃さないように、イオンは同じ色の瞳をうつした。
「お前が導師の立場から逃げ出そうと僕は代わってやらない。代わってなどやれない!わからないのか。こいつらはお前にしかそう言わないんだ。僕がオリジナルならこいつらは僕をお前の代わりとして受け入れるのか?違うだろう!」
荒い息を吐き出して、最後にイオンはぞっとするほど静かに低くつぶやいた。
「自分がレプリカだからとお前の友の心を殺すのか。それでお前は満足か、イオン」
「ちが――」
指が離れる。レプリカイオンは再び俯いて、その手をイオンの腕から離した。
新緑の髪が揺れる。震える唇でレプリカイオンは必死に言葉を紡いだ。
「……僕の、オリジナル。預言を、どうか……僕の友に導きを……」
「うん。分かってるよ」
穏やかにイオンは応えた。答えを知って安堵するように。
レプリカが生まれたのは、ヴァンのせいだけではない。イオンが協力しなければ彼はこうして導師にはならなかっただろう。
「選べるじゃないか。イオン」
同じ顔をした、それでも自分よりずっと幼い少年の髪をぐしゃりと撫でる。きょとんと顔をあげるレプリカに、自分にこうする人は誰もいなかったな、とイオンは思い返して薄く笑った。


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