リピカの箱庭
86

無事に導師とナタリア姫を救出して、私たちは再びタルタロスへ乗船していた。ここからの行き先はグランコクマである。とはいえ、直接港へ入ることはできないので遠回りすることになるんだけど。
で、とりあえず出港し目的地を定めたものの、船内の空気はよろしくない。アリエッタと導師一行との確執はまだ残っている。カーティス大佐が呆れたようにこちらを見ていた。
「随分と派手にやりましたね、ガルディオス伯爵」
「ええ」
後ろで威嚇しているアリエッタを宥めながら頷く。ちょっと頭に血が上ったのはある。イオンもアリエッタの件があったからかだいぶいい演技をしてくれて助かった。
「アリエッタ、落ち着けって」
「……だって」
「分かってるよ。でも今ここでやりあったって困るだけだろ。それに、僕たちはあいつらに助けられてる」
「イオン様が……」
そのイオンも導師一行に敵意をむき出しにするアリエッタをどうにか宥めようとしてくれていた。まあ、そもそもイオンと私が一命をとりとめたのは崩落に巻き込まれても魔物に乗っていたからというのが大きいのだけれど。あれもアリエッタの兄弟か仲間かだったのだろう。悪いことをした。
私もどうにか声をかけてやりたかったが、そろそろ疲労が限界に達していた。ここ数日ろくに眠れていないのでちょっと休ませてほしい。ぼんやりとしていると「ガルディオス伯爵?」と声をかけられてはっと顔を上げた。
「お疲れですか?顔色がすぐれませんが」
こちらを心配そうな瞳で探ってくるのはガイラルディアだった。
「……そうですね。少し」
「先に休みなよ。放っておくとすぐ無理するんだから」
イオンが余計なことを言うので軽く睨んでおく。肩を竦められた。しかし、こんな軽口を叩くなんて妙にご機嫌だな。アリエッタを取り戻せたのがよほど嬉しいらしい。
「あの、お怪我はありませんか?」
おずおずとナタリア姫に話しかけられて首を横に振った。多少剣を交えたくらいで、大した戦闘もしていない。譜術で対空砲撃を仕掛けられたときは焦ったけれど、それもこちらには直撃しなかったし。
というか、軟禁されていたナタリア姫もいろいろと大丈夫なんだろうかと思うが、わざわざ口に出しはしなかった。私のような者に気を遣われても困るだろう。
「いいえ、特には。カーティス大佐、先に休ませてもらいます。アリエッタのことはノイが面倒を見ますので」
「分かりました。何かあればお呼びしますよ」
「頼みます」
大勢に囲まれているとそれだけで気を張ってしまうので、私はさっさと部屋にこもることにした。合流してから一言も言葉を交わしていないルークがこっちを見ているのが気になったが、口に出さないということは大したことではないのだろう。
船室に鍵をかけてほっと息をつく。上着だけ脱いでベッドに倒れ込むと、あっという間に睡魔が襲ってきた。
しばらくろくに寝られていないのは、ホドを出た直後と同じだった。夢を見る。もう顔も声もおぼろげな父母と姉。アクゼリュスで障気に侵され弱っていく住民たち。この手で殺めた兵士たち。
――ヴァンデスデルカの私を呼ぶ声。
「……何を、考えて……」
今はもうない美しい風景がぐちゃぐちゃに塗りつぶされていく。失ったものを嘆いてもどうしようもないことは知っているのに。でも、もう大丈夫だ。だってガイラルディアがいる。ガイラルディアが、戻ってきてくれたから、だから。
私は役目を終えたのだ。ガイラルディアが戻ってくればガルディオス伯爵の名は私のものでなくなる。そして――その後は?
ずぶりと暗闇に沈んでいく。障気の海だったら命はなかっただろうに、広がっているのはただの闇だった。目を開けても閉じても何も変わらない。ただ自分がそこにいることだけしかわからない。
これも夢だろうか。ぼんやりと考えてやっぱり目を閉じた。待っていればいつか目覚めるだろう。疲れているので体だけは休めないといけない。時間が経つのをただ待っているのはひどく苦痛で、でも静かなこの場所はちょっとだけ落ち着いた。

目を覚ましたときには夢を見たことを覚えていても、内容はおぼろげだった。体は重かったけれど疲れはいくらか取れていた。体を起こしてふう、とため息をつく。どれくらい時間が経っただろうか。空腹を覚えるくらいではあったので、何か軽食でもつまみたい。お茶でも淹れてこようかな。
一度着替えて上着を羽織って部屋を出る。すると廊下の向こうでなぜか佇んでいたルークとばちりと目が合ってしまった。
「あ……」
ルークもこちらに気がついたようで、すぐに目を逸らされると思ったが逆に近づいてきた。なぜルークがここにいるんだ?お守はどうしたんだ、ガイラルディアにメシュティアリカ。ルークの足元のミュウも元気よく駆け寄ってくる。
「伯爵さま!」
「あ、こら、ミュウ!」
「……どうかしましたか?」
ぴょんぴょんと跳ねるミュウをルークが慌てて抱き上げた。ルークの実年齢も考えるとなんだか癒されなくもない。
「すみません、俺、えっと……」
ルークは赤毛を揺らしながら視線をさまよわせた。そういえば髪をもう切ってしまったのか。アッシュよりは色が薄かったけれど、よく手入れされた髪だったから少しもったいない。
「ルーク」
「は、はい!」
「少しおなかが空いたので、お茶でも飲みませんか?」
「え……、でも、」
「何かほかの用事がありましたか?」
嫌なら断ってもいいと言外に伝えると、ルークは戸惑いつつも首を横に振った。小さい子の警戒を解くには餌付けが一番である。ルークに懐かれても困るのだけど。
以前に導師とお茶をしたときのように私は勝手に館内の設備を使い、備蓄のビスケットも拝借した。カーティス大佐に文句を言われたら後で返そう。皿に並べるとミュウが嬉しそうに「ビスケットですの!」と声を弾ませた。ティーカップを持たせるのは不安だけど、ビスケットくらいならチーグルでもかじれるだろう。
適当に淹れたお茶は若干渋みが出ていたが、温かいものを口にするだけでホッとする。ルークは口をつけずに水面をじっと見つめていた。
私から誘ったわけだけど、こっちからは特に話はない。ルークが話題を切り出すまで無言で待つ。これまた備蓄に残っていたジャムをビスケットに乗せてやるとミュウは「おいしいですの〜」と呑気に喜んでいた。パラパラと食べかすが散って毛についてしまっているので後でブラッシングでもしてやった方がいい気がする。
「あの……ガルディオス伯爵」
しばらくして意を決したようにルークが顔を上げた。そんな悲壮な顔をされるとこっちも困る。
「はい」
「俺のこと、……責めないんですか」
「おや。ルーク、よくわかっているではないですか」
手についたビスケットのかすをソーサーの上に落とす。私は彼の緑の瞳を見つめて目を細めた。
「責められたほうが楽になるのでしょう?だからですよ」
罪悪感を取り除く手伝いなどこちらかするつもりなんてない。ルークは瞬きをして、眉を下げた。
「……ガイの言った通りだ」
「はい?」
つい聞き返してしまったのは、ガイラルディアの名前が出たからだ。ルークは視線をさまよわせながら口を開いた。
「謝られた方は困るものだ、って言われたんです。でも俺、謝りたくて、それは俺自身のためだったんだってわかりました」
その後に続けられようとしたのはきっと謝罪だったのだろうけど、ルークはそれを飲み込んだ。謝ることができないから何を言えばいいのかわからなかったのか。まあ、その葛藤に耳を傾ける余裕くらいはある。
「あなたは償いがしたいのですね。それがあなた自身の心を癒すのは当然のことです」
「……でも、俺は」
「ですが、それ以上に他人のためになるのなら意味のあることでしょう。多面的に物事を見なさい、ルーク。視野が狭くなっていてはできることもできませんから」
ふ、と息を吐く。次の言葉を続けるかは迷ったけれど、私は血を吐くように絞り出した。
「あなたに寄りそう人もいるのでしょう。ならば……一人で抱え込まないことです」
やっぱりずるいなと思う。こんなことになったってルークは一人じゃないんだから。傷つき、信じられなくなっても、彼を放っておく人ばかりではない。羨ましいし、けれど安心した。私はこの子どもにそうやって接することはできない。
ルークは少し戸惑いながら、小さくうなずいて冷めた紅茶を飲み干していた。


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