リピカの箱庭
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研究所に向かうとシミオンが出迎えてくれた。彼は今や研究所の所長を務めてくれている。もともと軍の研究所にいたのだからなんとなく勝手がわかるだろうと思って任せたのだが、泣いて喜ばれてしまったときは流石に戸惑った。シミオンの優秀さは身に染みてわかっているし、何より信用のおける相手だ。そう思うのは彼がまだ4歳だった私の言葉に耳を傾けてグランコクマへ戻ったことも大きいのかもしれない。
「ノイの容体はどうですか?」
ルグウィンに任せると言ったものの、彼一人では治療まではできないのでシミオンにも協力してもらっている。仕事の負担が大きすぎるかと思ったが妙に楽しそうだ。
「今は安定していますよ。あのままだと確かに半年も保たなかったでしょう、体内音素の変異が激しすぎましたから。ですが伯爵様のおっしゃった通り周波数の特定による摘出とフォミクリーによる同一周波数音素の生成が上手くいっていますからこのまま定着してくれれば問題ないかと思います。それにしても音素レベルのレプリカ作製とは思いつきませんでしたよ。これくらいなら音素結合を気にせず活用できますし、自然治癒の一助にもなります」
シミオンが研究の話題で饒舌になるのに相槌を打ちながら奥の区画へと向かう。私が歩いても研究員達は誰も畏ったりはしないので楽だ。そういうふうにさせたのは自分だけど。
「実証実験はどうなっていますか?」
「概ね順調です。致命的な副作用も出ていませんし、ストレスチェックも適正値に収まっています。印象としても、そうですね。以前と比べたらはるかにマシだと思います」
最後の区画に踏み入って尋ねた質問の答えに私は頷いた。アクゼリュスは鉱山都市という土地柄もあって怪我人や死人がそれなりに出る。勤務体制については私も口出ししているが、例えば四肢の欠損までしてしまうと第七音譜術士でも治療ができないのだ。
ここではそういう人たちを被験者としたり、遺体を買い取ったりして人体実験をも行なっている。やっていることはホドの研究所と同じではないか。そうも思うが、手っ取り早く実証化するには必要なのだ。アクゼリュスの研究機関は完全に国から独立しており、ガルディオス伯爵家の事業になっている。物理的に離れていることもあり、国からの隠蔽は問題なかった。なにせここは数年後に魔界に沈むのだ。こんな実験をやるにはもってこいの場所だ。
――どんなに言い訳をしても、私が非人道的な研究を進めさせているのは確かだ。これだけはガイラルディアに知られたくないと思う。
研究所の一番奥ではイオンが検査を受けていた。と言ってもイオンも研究員の格好をしている。この街でいちばん「余所者」が多いのはこの研究所なので、建前上は研究員として迎え入れていることになっている。アリエッタは研究所の雰囲気が嫌いらしく、あまりいい顔はしなかったけれど。
「こんにちは、ノイ。体の調子はどうですか」
声をかけるとイオンは嫌そうに顔を歪めて私を見た。仕方がないのでシミオンには別の部屋での作業を続けてもらうように頼んで、検査の結果だけ受け取って二人きりにさせてもらう。
「あんたもよくやるよね。どおりでレプリカのことも知ってたわけだよ」
ダアトでは前と変わらず導師イオンがその任を務めている。私の目の前にいるこの少年ではない。私は微笑んでみせた。
「フォミクリー技術は縁の深いものですので」
「へえ。で?無駄な足掻きはどうだった?」
イオンは私の手元にある検査結果を睨むように見つめて口角を上げた。促されるまま紙をめくる。イオンにはこの数ヶ月、何度か検査と治療を施していたが、彼が知りたがらなかったので結果を伝えることはしていなかった。しかし頃合いだろう。
「音素異常値は解消されました。つまり、この病が原因ですぐに死に至ることはありません」
「……」
イオンは無表情で私を見上げていた。じきに年が明ける。イオンが死ぬと預言に記されていた今年は、もう残り僅かだ。
だからイオンは施した治療が功を奏さなかったと信じ込んでいたのだろう。とはいえ、死ぬ要因なんて病だけではない。不慮の事故でだって亡くなることは考えられる。私はただアリエッタのお願いを聞いただけだ。
「……死なないのか」
「確証はありません。明日、突然死ぬかもしれない。それは私もあなたも同じです」
「そういう意味じゃない。いや、そうか。そうだけど」
混乱している様子のイオンは落ち着きなく視線を彷徨わせていた。彼にとって、いや、この世界の人々にとって預言は絶対だ。だから預言については他の人の耳には入れさせないよう注意を払ってきた。知ってしまえば最後、誤魔化しようのないバイアスが働くだろう。
けれどフォミクリーによる治療は一定の成果を上げた。少なくとも病による急死の可能性はかなり低くなったはずだ。
この後、容体がどう変化するかはわからない。それでも彼が絶望していた預言に詠まれた死からは遠ざかっている。
「あなたは導師イオンではないのです。ただのイオン、あなたが死ぬ理由はなくなった」
「……それは、詭弁だ。僕は……」
「どうしてです?あなたは逃げ出したのに導師イオンは健在です。あなたではない誰かが、もうあの位置に立っているのでしょう」
導師の代わり、ダアト式譜術を使う道具として作られたレプリカたち。私は彼らの存在を否定できない。でも、イオンが――オリジナルの彼が生きていようといまいと、その役割が変わらないのなら生きていたっていいではないか。私が手を伸ばして、届いた位置にいるのなら。
「生きたいのならあの場所にいたことを捨てて、忘れてしまいなさい。できないのなら口を閉じていなさい。そうしている限りあなたは自由です」
我ながら酷なことを言う。勝手に生かしてこの言い草だ。導師としてしか生きることを許されなかった彼を、彼が信じた預言さえ裏切らせたのは私のエゴにすぎないと分かっている。同じ故郷を失ったアリエッタを哀れんだ、同じ子ども時代を失くしたイオンに同情した。できることなら自由に生きてほしいと願っている。
イオンの瞳が揺れて私を見ていた。縋るような視線だ。迷子の子どもの、泣きそうな表情だ。かつて、初めて会った彼が自分が導師であると告げたときとは正反対の顔に誤魔化しようもなく動揺する。
「選べというのか。僕はもう選んだのに、また」
導師である決意を彼は持っていた。預言に従って死ぬ運命を受け入れてしまっていた。なのに、とイオンは言う。
「もう何も信じるものはないというのに。今までの全てを否定しなくてはいけないのに。あなたは僕に選べと言うのか」
預言に毒された最もたる人物は教団の最高指導者だったのかもしれない。
これが世界を変えるということだと、イオンは私に告げていた。昨日までを全部置き去りにして、信じてた積み上げたものをまっさらにして。そうして、預言のない世界を生きてゆかねばならない。
「……そうです。選びなさい。これからもずっとあなたは選ばなくてはならない。一人で、あるいはあなたの信じる人と。そうして生きるか、預言に殉じるか。あなたが選ぶのです」
イオンは顔を歪めると視線を逸らした。
「ぼくは」
言葉の続きは出てこない。私は立ち上がり、「アリエッタを連れてきます」と彼に告げた。アリエッタがいれば少しは気持ちも落ち着くのではないか。そう思ったがイオンは首を横に振った。
「一人にして。ガルディオス伯爵」
「……わかりました」
ドアを静かに閉める。本当に彼を一人にしていいのかわからず、私はただそこに立ち尽くしていた。


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