リピカの箱庭
47

ダアト港を発つその日は曇り空だった。新導師が就任してから港は少しずつ活気を取り戻しており、船も行き来していた。ダアトの海の匂いはグランコクマとも、ホドとも違う気がする。同じ海なのに、と思うけれど見える景色は全く違うのだ。なのに同じ海だと思うとやはり懐かしさもある。
船出の前に一人になりたくてふらりと散歩に出たのはその妙な郷愁のせいだったのかもしれない。ちょうど船が入港して、神託の盾騎士団の兵たちが行き来していた。何かの任務から帰って来たのだろうか――そうぼんやり考えていたせいで、人にぶつかったのだと最初は思った。実のところ、ぶつかってきたのはむこうだったのだけど。
「っと、すまない。……君?」
相手は私よりも年下らしい少年だった。声をかけても顔を上げないので不審に思って肩を掴む。身なりは綺麗なのでスリとかではないはずだ。
「君、大丈夫か?船酔いとか?」
燃えるように赤い髪が揺れて否定を示す。とはいえ、大きめの上着から覗く手は病人のような白で体調がいいとは思えない。ようやく上げられた顔はやはり真っ青で――そして私はその瞳の色に絶句した。
「……ガイ?」
ほとんど聞こえないはずの声量だったのに、彼の声ははっきりと鼓膜を打った。私は我に返り、ポケットをまさぐる。ドレスなんかを着ていなくてよかった、あれにはポケットもろくについていない。そして出てきたアメを少年の手に握らせた。
「気がついていないかもしれないが、きっと船酔いだ。少しは楽になると思う。これからダアトに行くんだろう?」
「……」
「誰か一緒に行く人は?」
少年は緑の目を瞬かせて、掠れた声を絞り出すように唇を開いた。
「お前……名前は……」
すがるようなその言葉に、その瞳に、何と答えるべきか迷ってしまった。私は彼が会いたい人でない。だが彼を哀れんでしまったせいで、慰めの言葉をついかけそうになっていたのは事実だ。
「アナタ!あの時の!」
なのにである。現れたその人物の間の悪さに私は呆れるしかなかった。
「確かガルディオス伯爵でしたね!」
「人違いだ」
こうも大声でわめかれては男装というか、変装の甲斐もない。私はため息をついてネイス博士を睨んだ。
「いいえ!私には分かります!あの時の小生意気なガキだと!」
……一応伯爵だとわかってて面と向かって小生意気とか言うのか。まあいい、今はネイス博士に構っている暇はない。出航までそう時間があるわけでもなし、この少年が心配だ。うん、これくらいの心配はしたって許されるんじゃないか。
本当は彼だって憎い仇の息子だ。けれど、こうして所在なく――事実、居場所をなくして佇むのはもう家柄も何も関係ない一人の子どもだと思えてしまうのだ。
「私はガランだ。君、保護者はどこに?」
「……目の前に」
「これか?」
「これだ」
ヴァンデスデルカ、ネイス博士に彼を任せるのはさすがにどうかと思う。確かにフォミクリー実験には必要な人材で、だからコーラル城に連れて行ったんだろうけど。
「キィー!私を無視するとはいい度胸ですね!」
「何だか知らないが落ち着けよ。私はもう行くからな。君、体調には気をつけなよ」
そう言ってもう一つアメを握らせた。ちなみにメシュティアリカがジョゼットと街に出たときにお土産に買ってきてくれたものだ。少年は戸惑いながら私を見て、拳を握りしめた。
「じゃあ」
あまりに心細そうな顔をするものだから、私はつい彼の頭を撫でていた。子供の髪はまだ柔らかい。驚いた表情の彼に笑って手を振り、踵を返した。
まったく、思わぬところで思わぬ人に会ってしまうものだ。ヴァンデスデルカも、やはり導師の死は想定外だったのだろうか。足止めを食らった者同士、港で会ってしまう可能性は考えてみればありえそうだ。
それもそうか。人の死なんていくら預言に詠まれていたって簡単に利用できるものでもない。死者は生きている者の都合なんて知らないのだから。
私はポケットに手を突っ込んで船へ歩いて行った。乗船はもう始まっていて、荷物は積み込んだらしいヒルデブラントが私を待っていた。
「伯爵、先ほど話されていた方は知り合いですか?」
「いえ。具合が悪そうだったのでアメをやっただけですよ」
「アメをですか」
ヒルデブラントは離れて私を見ていたらしい。私はポケットに突っ込んだままの指先に当たるアメを引っ張り出して、そこで気がついた。
「……あれ」
ポケットに入っていたのはアメだけではない。ビー玉のような小さな響律符も入れていたはずだ。
――それが、どこにもない。
「まさか」
私は振り向いたが、もう赤髪の少年とネイス博士の姿はなかった。いやいや、そんなはずが。
「どうかされましたか?」
「……乗りましょう」
誤魔化すようにタラップに足をかける。あの響律符はどんなものだったっけ。シミオンからもらったばっかりの新型のものだったんだけど。小型で高性能で、割とお高いやつだ。グランコクマを離れるので護身のために主に身体能力向上の効果があったはず。そんなものを無造作にポケットに入れるなという話だ。
「まあ……誤飲はないか……」
彼はしっかりしてそうだったし、大丈夫だろう。少なくともアメと響律符を間違えるような真似はしないはずだ。
あの響律符を彼は誰かに見せるだろうか。見せてしまうとまずいことになる。はっきりとは名乗っていないし適当にごまかしたが、私がガルディオス伯爵だろうと想像はついているだろう。敵国の貴族からもらった響律符を使うだろうか?わからない。その辺に捨ててほしい。もったいないけど。
新型なので技術流出の可能性を考えると頭が痛い。今後、響律符の管理は慎重かつ厳重にしよう。シミオンには謝らなければ。
船が動き出して風が流れ始める。最近気がついたのは、船に乗っているときは部屋でうずくまっているより甲板に出ていた方がいくらか気分がマシになるということだ。
「ヒルデブラント、船室に行っていても構いませんよ」
手すりに腕を預けて、もう片方の手はポケットに突っ込んだままだ。そうやっていくらか行儀悪く振り向くとヒルデブラントはどこか戸惑ったような、苦笑のような表情を浮かべていた。
「伯爵、それはアシュリークたちのせいですか?」
「はい?」
「いえ、仕草が本当に少年のようで。普段の伯爵からは想像がつかなかったものですから」
なるほど、私の変装時の仕草はホドグラドの少年たちの真似だと思ったのだろう。私は前世の記憶があるので一般人の多少行儀の悪い仕草も身に着けているが、普通の貴族令嬢がするものではない。
だから、だろうか。あの少年が呼んだ名前を思い出してつい口角を上げてしまっていた。私はガイラルディアに似ているのだろうか。そうだとして、それを教えたのが彼というのもまた皮肉な話だ。
「私は幼いころからやんちゃでしたよ。何せガイラルディアがいましたからね」
ヒルデブラントが応えに困るのは分かっていたので、私はそれからしばらくぼんやりと離れゆくダアトを眺めていた。


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