リピカの箱庭
幕間06

ケテルブルクに来たのは、未練があったからだ。
理解していた。預言に記された婚姻を、いくら立場のある人間だろうと――否、立場のある人間であるからこそ覆すことは叶わないのだと。自分の立場がまだ弱いことをピオニーは知っていた。それこそ預言に記されているから、自分は皇帝になるのだろう。だが、その玉座にどれほどの意味を持てるかは自分次第だ。
もう諦めはついていた。だから仮に彼女を妻に迎えるとしても正妃ではなく愛人だっただろう。けれど現実はそれすら許してはくれず、ピオニーは嘆き悲しむしかなかった。――恨むしかなかった。
預言はなぜ正しいのか、問われたことがある。預言を詠まれるのをひどく恐れていた様子だった幼い貴族の少女をピオニーは思い出していた。彼女が恐れた理由が今なら分かる気がした。
知らなければよかったから。その預言が存在していたとして、詠まれなければ愛しい人との仲を引き裂かれることもなかったはずだ。預言が正しいのはそれが「預言」だと、人々が信じているからだと理解してしまったから。
だから、その少女がケテルブルクに来ていると知ったとき、ピオニーは自分の胸の内を明かしたいと願った。きっと同じ思いを抱いている彼女に伝えて楽になりたいと思った。
「――では、皇太子殿下。預言を覆せばよろしいでしょう」
屋敷に招いた幼い伯爵はそう囁いた。できないと知っていることを、いや、自分が思っていることを、そうではないと彼女は言う。微笑みすらする幼い少女にめまいがした。
ガルディオス伯爵、と呼び止めた。けれど彼女が言葉を止めることはない。
「どうすれば良いのかお分りでしょう。ここに来たのだって、そうしたいからなのでしょう」
そうだ、未練があるからだ。諦めきれないからだ。強引にこのくだらない預言を打ち破ってしまいたいからだ。どうすればこの婚姻を阻止できるかなどわかっている。悪魔のような誘いに、ピオニーは拳を握った。
「あなたは力を振るえばよろしいのです」
誰が、何が、この娘にこんなことさえ言わせるのか。
想像はついていた。預言がレティシアの人生を狂わせた。ピオニーに具体的なことを知る権限はまだなかったが、ホドが滅ぶことはおそらく預言に記されていたのだろう。
以前、ガルディオス家のメイドに聴取したことがある。レティシアは戦争勃発以前からキムラスカの侵略を異様に恐れる素振りを見せて、それを心配した当時の伯爵にグランコクマへ療養の名目で移されたらしい。なぜ、レティシアだけが知っていたのかはわからないが、知っていたことは間違いないだろう。
だからこそピオニーはレティシアの誘いに頷くことはできなかった。自分だけではない。レティシアも、ネフリーだってそうだ。王位継承争いで無意味に殺し合い死んでいった異母兄弟たちだって同じだ。預言にがんじがらめにされて苦しむ人がいるのなら、それを取り除く努力をしなくてはならない。
力を与えられたなら、そうして振るわなければならない。たとえそれが目の前にいる娘が今望んでいることでなくても。
ピオニーがそう告げると、レティシアはどこか苦しそうに目を細めた。「残念そうだな」と問うと首を横に振って応える。
「いいえ、……はい。ピオニーさまの求める幸福がその道の先にないことは残念ではなりません」
それはきっと彼女も同じだとピオニーは思う。貴族としてではない、ただ一人の少女としての幸福が、大人と同じ舞台で合わない靴を履いて踊らされる彼女の行きつく先にはたしてあるのだろうか。人生でただ一度きりの子どもとしての時間はもう失われつつある。レティシアがピオニーを憐れむのと同じようにピオニーもレティシアを憐れんでいた。

そんな少女をピオニーは自分の事情に巻き込むつもりはなかった。彼女が今ケテルブルクに来たのはただの偶然で、そのおかげで踏ん切りがついたのはあったが物騒な目に遭わせたくはない。裏で全てを処理してしまいたかった。だが、存外にレティシアは首を突っ込んでしまう性分らしい。
ガルディオス伯爵から反皇太子一派の潜伏場所がもたらされて、ピオニーな嫌な予感がした。レティシア自身が発見したようではなかったが、果たして。
ピオニーはすぐにジェイドと相談して行動を開始した。とはいえケテルブルクではこちらの手駒は少ない。慎重に調査と準備をする必要があった。
「調べたところ、小屋はどうやらヘイエー伯爵の持ち物のようですね。伯爵の手の物が出入りしていたという情報もあります」
「知事のか。――クロか?」
「おそらく。厄介ですね」
ネフリーが狙われないようにするためには根本を叩かなければならない。その相手がこの街の知事となるとなかなかに面倒だった。とはいえ探せば証拠は出てくるもので、ピオニーは自分がこの街に軟禁されていた理由の一端を知って顔をしかめた。
「まあいい。さっさと片付けるか」
「あなたがいつまでもグランコクマを留守にしているわけにもいきませんしね」
「まったく、ゆっくり里帰りもできないとはな」
軽口を叩き合いながらやはり胸の内は重かった。ピオニーは椅子にゆっくり身を沈めてジェイドが出ていくのを見送る。自分が直接行動できないというのはもどかしいものだ。
――それでも計画通りなら片がつくはずだった。
そうならないと知ったのは、帰ってきたジェイドの腕にガルディオス伯爵その人が抱えられていたからだった。


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