リピカの箱庭
幕間03

レティシア・ガラン・ガルディオスは今マルクトで最も有名な貴族だろう。"ホドの真珠"などと呼ばれるガルディオス家の姫君。どうせ担がれているだけだろうとジェイドは思っていた。
国民は何も知らない、ホドの崩壊はマルクト帝国がこそ招いたことであるなど想像もしていないだろう。そのように処理されてしまえば、皇帝の言葉は真になる。正しいのは権力を持つ者の言葉だ。ジェイドは己の願いを叶えるためにその権力に寄り添うのだから、批判する理由もなかった。
ジェイドは理論を現実にしたいだけだった。それだけの力も頭脳も手にしていた。他にどんなふうに使われるかなど気にかける必要すらなかった。
檻の向こうの実験動物も、被験体の第七音譜術士も、同じこちら側の白衣を着た人間も、全ては駒だ。ジェイドにとっては何も変わらない。人の死に心を動かされることもない。
「ホドをほろぼすことはゆるしません」
そう言ったのは子どもだった。ほんの子どもの言葉に耳を貸すほどジェイドは暇な人間ではない。――その言葉を覚えていたのは、子どもの告げた言葉が現実になったからだ。
「酷なことをなさるお方だ。そうは思わぬか、"死霊使い"殿」
そう言ったのは子どもだった。レティシア・ガラン。ガルディオス家の遺児。ジェイドはそのときようやく、ホドでただ一人ジェイドを糾弾した子どもがガルディオス家の姫君だったのだと気がついた。
この子どもはホドの崩落が超振動によるものだと知っていた。フォミクリー研究の秘匿のために行われたのだと知っていた。間違いない。そうでなくては、あんな殺意を向けては来ないだろう。ホドではただ貴族然と、ある意味では無垢で無知で清らかな視線をジェイドに向けてきた子どもとはまるで別人のようだった。
戦場で見た瞳だ。ジェイドを殺そうとする、憎しみの光だ。違うのは、あの少女はジェイドのことを恐れてはいなかったことだけだ。
そんな瞳を向けられるのが恐ろしいと思ったことはない。ジェイドはそれだけ当然のことをした。それを後悔などしていない。
――していない、 はずだった。
「お前……何をしたんだ」
ピオニーの言葉にジェイドは何も返さなかった。国の機密に関わることはたとえ皇子であるピオニー相手にも漏らすことはできない。沈黙が返事となり、ピオニーは走り去った少女の背中を憂う瞳で見つめていた。
「あの子は何を知っている」
「知らないはずのことを、全て」
「……なぜかは、お前にも分からんのだな」
「ああ」
驚きから覚めると、「なぜ」知っているかは重要ではないように思える。問題は、知って「どうするか」だ。あの目は復讐を望んでいた。ホドを攻めたキムラスカに対してではない。フォミクリーを生み出した張本人であるジェイドに、だ。それは明らかに反乱の芽でもある。
「……かわいそうな子だ」
しかしピオニーはそれほど危険視はしていないらしい。ピオニーならば、ジェイドがホドで何をしたのか予想はつくだろう。だがぽつりと呟いた言葉は子どもに対する哀れみを含むだけだった。
確かに不幸な子どもだ。家族を失い、復興の偶像に仕立て上げられた貴族の少女はそれこそただの飾りであればよかったのに。あれほど賢い子どもならばそうでないことは簡単に想像がついた。
ピオニーはゆっくり歩き始めた。ジェイドもその隣に並ぶ。二人は喪われた街並みの再現を横目に広場を後にした。
「あの歳で、あんな目をするとはな」
「……」
「ジェイド。お前がしたいのはあんな子を生み出すことなのか?」
この友人の、こんなところが厭わしいとジェイドは思う。説得のために手段を選ばないところは実に為政者らしかった。あの少女を、そしてジェイドを憂う感情は本物であることは実に人間らしかった。その二つを使うのだからタチが悪い。
「私は私の理論を実証するだけだ」
「それが何になる?お前もいつかその身を滅ぼすだけだぞ」
「そのときはおとなしく地獄にでも落ちてやる」
「ジェイド!」
ジェイドはピオニーの顔を見ず歩幅を大きくした。後ろから声が聞こえる。
「また来る。よく考えろ、ジェイド。俺もネフリーもお前を心配してるんだ」
それを聞こえないふりをしてジェイドは振り返らなかった。また来ると言えばピオニーは本当に来るだろう。人の妹に迷惑をかけるなという台詞は無駄だった。
無駄だ。今さらひとりの子どもに殺意を向けられただけで止まるものか。ジェイドは自分が意固地になるのも感じていた。喉に引っかかった小骨のように、あのフォミクリー研究所で小さな子どもが告げた言葉がリフレインする。
「――すくなくとも、いまのあなたでは」
舌足らずの幼い言葉はどういう意味だったのだろうか。預言か、いやそんなはずはない。そんなに事細かい預言を知らぬところで詠めるものか。預言はそんな都合のいいものではない。
無視をしたくてもかなわない。苛立ちを覚えながらジェイドはどうにか平静を取り繕い、ホドグラドの街を抜け出した。


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