ラーセオンの魔術師
15

夕食のあとゼロスは夜の街へ繰り出して行ったが、私は船旅で疲れていたのもあってさっさと部屋に戻ることにした。ゼロスがいない間に風呂に入って着替える。
「……うーん」
ホテルの部屋に備え付けのバスローブは却下して、普段の服を着ることにする。ゼロスが帰ってくるかどうかは分からないが、一応嫁入り前の身である。何かあったら嫌だ。
警戒しすぎではないかと自分でも思うけど、ゼロスが女性好きというのは屋敷を出てからひしひしと感じていたことだ。今までは噂くらいしか知らなかったし、パーティーでも一応婚約者の私を連れているということでダンスも私としか踊っていなかった。けど、船ではちょくちょく若い女性を口説いていたし、さっき夕食をとったレストランでもウェイトレスの女の子に鼻の下を伸ばしていたし。
逆に言えば、私の前で女性にデレデレするということは私が対象外ということ……だと思うけど、ゼロスは私をマナの神子の配偶者にしたがっている側の人間でもある。つまり、最悪既成事実を作ろうとしてきても不思議じゃない。
「……やっぱり考えすぎ、だよねえ」
とはいえ、そうするならわざわざアルタミラにくる必要はなく、自分の屋敷で私を襲うなりなんなりしてきただろう。自意識過剰すぎて恥ずかしくなってくるものの、備えあれば憂いなしというし……。なんか違うかな?
普段着のままベッドに倒れ込む。まだ時間は早いけれど、前世とは比べものにならないくらい今の生活は早寝早起きだ。ワイルダー邸ではまた少し夜型になったけど、明かりもタダではつかないのだし、里や渓谷で暮らしていたころは太陽の動きに合わせて生活していた。
今は冬なので夜が長い。月明かりが差しこんで影を作るのを視界に入れながらゆっくりと目を閉じた。
……けれど、どうにも眠れそうにない。私は一度起き上がると、部屋を見回した。
広い部屋にはベッドの他にソファもあって、洒落たローテーブルが置いてある。窓は大きくて、カーテンが掛かっていない窓からは夜の海と空が見える。窓からはバルコニーにも行けるので、私は靴を履くと立ち上がってバルコニーに出た。
風が少し強い。昼間は半袖でもちょうどいい気温だけど、夜は少し冷え込むようだった。手すりに腕をついて海を見下ろす。このホテルは結構高いので、ここから落ちたら死にそうだな、とか夢のないことを考えてみた。
いや、魔術があるんだから死ぬということはないか。ぼんやりしながら頭の中で空を飛ぶ術について考えてみる。風のマナを使ってものを浮かせるというのは実験したことがあるし、以前セレスに使ったときも上手くいった。そんな感じで、こう……。
ふわりと体が浮く。維持は……問題なさそうだ。そのまま体を上昇させて、手すりの上に飛び上がった。
「わ……」
さっきより少し目線が高くなっただけなのに、なんだかドキドキした。風もより強く感じる。浮いてるのと、足場の不安定なところに立つのとではやっぱり違うもんだなと思いながらマナで体を支えた。
このまま夜の空を散歩できたら気持ちがいいだろう。足場を、結界みたいに作るイメージで固めていく。透明な床だ。そこから一歩踏み出そうとして――、
「レティシア!」
バン!とドアが閉まる音と共に大声がして思わず振り返ってしまった。ぐらりと体が傾ぐ。
「は、」
ゼロスが驚いた顔をしてこちらを見ているのが分かったけど、私もかなりびっくりした顔をしていただろう。咄嗟にバランスが取れなくて足を踏み外す。浮遊感に背中に冷や汗が伝うのを感じながらマナをかき集めた。
「"風よ集え、翼となれ"」
落下しながら飛ぶイメージを頭に焼き付かせる。ゆっくりと落ちる速度が下がっていって、自分の背中に翼のようなものがあるのが感じられた。浮く、ではなく飛ぶ、といえば箒か羽根だ。
バルコニーからゼロスが驚いた顔で見下ろしてくるのが見える。私は背中の翼で――これ多分マナ効率悪いな――羽ばたいてゆっくり上昇していき、手すりに着地した。
「びっくりさせないでください、ゼロス」
うっかり落っこちてしまったじゃないか。非難するとゼロスは瞬いて、そして大きなため息をついた。
「それこっちのセリフ。手すりに乗ってたらびっくりするに決まってんだろ。しかも落ちたと思ったら飛んでくるし」
「……それは悪いことをしました。ちょっと、ほら、空を散歩してみたくて」
何言ってんだこいつみたいな顔をされた。私は仕方なく実演してみせることにする。
先ほどと同じように透明な床を作るように結界を張る。また足を踏み外したら笑えないので気持ち大きめに、だ。そして手すりから一歩二歩と宙を歩いてみせた。
「ね、どうです」
「ね、って、あんためちゃくちゃだな」
「だってこんなにいい夜なんですよ。眠れないなら空を歩いてみるのも悪くないじゃないですか」
周りに何もないというのは風の通りがいい。月もぐんと近づいたようで――本当はそんなことないと分かっていても、掴めそうだなんて思ってしまう。
気分が良かったからだろうか。私はついゼロスに声をかけていた。
「ゼロスも散歩してみますか?」
彼が了承するなんてありえないはずだった。だってゼロスは私のことを信用なんてしていないだろう。こんな危険なこと付き合うはずないと知っていたのに。
ゼロスはひょいと手すりに乗ると私の方へ一歩踏み出してきた。「うわっ」とおどけたような声が上がる。
「こえー……、けど、たしかに悪くねえな」
手のひらが私に突き出される。「落ちたら怖いから握っててくれよ」と言われて、私はその手をとるのにためらわなかった。
「ゼロスは魔術が使えるんですから、マナを感じられるでしょう?足場をマナで感じ取ってみてください」
「難しいこと言うなあ。いいよ、あんたについていくから」
「わかりました」
そんな難しいことだとは思わないけど、ゼロスにとってそうなら一般的にはできないことなのかもしれない。私はゼロスの側に広く面積を取りながら足場を作って、ゆっくりと進んでいく。
「なあ、レティシア」
「はい?」
しばらく無言だったが、ゼロスが話しかけてきたのに返事をする。ゼロスは前を見ながら言葉を続けた。
「眠れなかったのって、俺のせい?」
「……?べつにゼロスが原因ではないと思いますが」
「んー、俺が同室のせい、ってのが正しいかな」
「ああ」
そういう話か。私は首をちょっと傾げた。
「そうですね、ゼロスと同室なのは落ち着かないのでよく眠れるとは思いません」
「ハッキリ言うのな」
「ゼロスだってそうじゃないですか?」
ベッドを共にできる相手ならともかく、私では落ち着かないだろう。足元に広がる海を見下ろしながらそう思う。月明かりを反射してきらきらと光っているのが美しい。
「戻ってこないと思ったんですが」
私はゼロスを見て言った。ゼロスは私を見返して言う。
「こんな散歩に連れ出してもらえるんなら戻ってきたかいがあったってもんよ。……とんでもないヒトだな、あんたは」
「お褒めにあずかり、光栄です」
二人で視線を外す。
私たちはしばらくそのまま、空の上から夜のアルタミラと海と空を眺めていた。


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