卒業式のあの日以来、アルバムは開いていない。

 大学四年の冬。学生最後の正月。そうでない奴らも当然いるから、俺と、たぶん半分とかそのくらいの奴にとっては。
 「来年以降は集まりにくくなるかもしれないから、今年は盛大に新年会しようぜ!」なんて、誰がどういう気持で言い出したのか、二つ返事で了承した時には考えもしなかったことをいつもよりほんの少し浮ついた頭で考える。アルコールの影響と言うよりは多分集まったメンバーと雰囲気のせいだ。散り散りになった高校時代の友人達もこの時期ばかりは宮城に帰ってきているらしい。
 四年間の歳月を経て、垢抜けたり、チャラくなったり。まあ俺も含めて全く変わらなかったりする連中もいるけれど、話してみれば酒の力も相まってあの頃と同じかそれ以上のノリで話が弾んでいく。「縁下、あっちで西谷と田中が騒いでるけど」久々にそんな声をかけられるのも何度目だろうか。もう、ほっとけ。知らね。何回か注意はした。それでもはしゃぎたくなる気持ちは分からんでもないし、俺だってあいつらのお守りばっかりじゃなく落ち着いて飲みたいし、ゆっくり誰かと話がしたい。あいつらだって内定取り消されるほどの騒ぎを起こすようなバカじゃないはずだ。たぶん。

「ここいい?」
「あ、うん。どうぞ」

 ガヤガヤと思い思いに席を立つ奴らが増える中、空白となっていた自分の正面に影が落ちる。降ってきた声に顔を上げると、目に飛び込んできたのはグラスを握る細い指につるんとしたエナメルの深い赤。から更に上、柔らかく揺れる髪と丁寧に施された化粧が少し大人びた顔によく似合っている。苗字さんだ。俺に用かと一瞬驚いたけれど、俺の斜め向かい、苗字さんの隣の席の鈴木さんと談笑し始めているからそっちだったんだろう。当たり前だ。三年の時の一年間同じクラスだっただけでほとんど話したこともない。

「久しぶり、あっちはもういいの?」
「うん、ひとしきり話してきた」
「そ。そういえばさー、元彼と別れた傷は癒えた?」
「とっくに癒えたよー。ねぇあの後の話聞く? 聞いて?」
「聞く」

 久しぶりに会ってまず聞くことがそれかよ? しかもノリノリで話すのかよ。というツッコミはぐっと腹の底に飲み込んだ。別の席に移ろうか。そういう思いがよぎらなかったわけじゃない。ただ、尻と椅子が粘着テープか何かでくっついてるような変な引力を感じて立ち上がることも、逆らう気にもなれずにダラダラと留まることを選んで適当に相槌を打つ。ひどいでしょ? ふざけんなって感じだよね、と散々元彼の文句を言ったかと思えば、誰がカッコよくなったとか、誰と誰が付き合っているとか。相変わらず女子はそういう話が好きなんだな。
 思い返せばいつもこの二人は教室の中心にいた気がする。好きな場所で、好きなことを堂々と話すことのできる立ち位置に。進学クラスだからといって休み時間も放課後も、ずっと勉強一色だったわけじゃない。キラキラ、チカチカ。点いたり、消えたり、そういう感じのアレ。なんだろう、あ、そう、クリスマスツリーの電飾みたいだ。人目を惹いて、それでいてちょっとチープな小さな光。
 制服に身を包んでいた当時のままを思わせるような空気を纏いながら弾む会話に不思議と嫌悪感はなかった。

「でもさ、なまえ綺麗になったよ! 大学でモテてるんじゃないの?」
「ありがと、でも全っ然なの!」
「え、じゃあ今彼氏は?」
「いないよー。自分が幸せだからってムカつく」

 ムカつく、と言いながら腕を組んでじゃれる仕草をする。酔っているのか普段からそうなのか、女子ってスキンシップ多いな。はあ、でも、確かに。綺麗になったと思う。二人とも。校則をかいくぐってでも精一杯自分を可愛く見せるのに必死だった人たちだ。何のしがらみもなくなったいま、指先を彩るエナメルも、複雑に編まれた髪も、身にまとう服や重そうな耳の飾りも全部、彼女たちのお気に入りなんだろう。俺には良くわからないけど。

「縁下もなまえに何か言ってやんなよ」
「え、何を?」
「だから、可愛くなったねとか、そんなに綺麗なのに彼氏いないなんて信じられない、とか」
「いいよ、恥ずかしいじゃん!」

 酔っぱらいの戯言だから気にしないで、と手をヒラヒラさせる苗字さんの顔に恥ずかしさは浮かんでいない。綺麗になったと思う。好意を示されたら大抵の男なら喜ぶと思う。でも恥ずかしげもなくそんなこと言えるほど俺が慣れていない。それにそんなことは彼女自身がきっと一番よく理解している。

「ってか、女子みんな可愛くなった」
「それ。男子はあんまり変わってないやつが多いねー」
「わかる。変わらな過ぎて笑ったもん! あ、でも」
「ん?」
「縁下くんかっこよくなったよね。垢抜けたっていうか」
「は? えっ、俺!?」

 ワンテンポ遅れたうえに上手い返しも出来ず、開いた口を閉じることもままならないまま固まっていれば、鈴木さんが「え? 変わった?」なんて首を傾げて問いかけてくる。そんなの俺に聞かれても困る。隣で同じように「ふーん」とか「へー」とか相槌を打っていた友達を見てもニヤニヤとした笑いを返されるだけで、助け舟の一つも期待できそうにない。
 ただ苗字さん一人だけが「変わった。元から顔は整ってたけど透明感が増したっていうか。うん、絶対かっこよくなった」とウンウン頷きながら納得の表情を見せるけど、正直すっげー恥ずかしいからやめてほしい。

「そういやなまえずっと言ってたね、縁下くん格好いいーって」
「うん」

 待ってくれ。うん、ってそんなの聞いたこともない。「あれ、でも苗字さんって彼氏いたよね。イケメンな先輩の」と横から。こいつ完全に他人事だと思って楽しんでるな。思い切り睨んでみてもどこ吹く風。気を紛らわすように口にした半端に残っていたサラダの残りは長時間ドレッシングに浸っていたせいか味が濃くなりすぎている。ここの空気もそう。

「彼氏はいたけど縁下くんのかっこよさは別物」
「なんだよそれ。そもそもかっこよくないし、恥ずいから勘弁して」
「は? 分かってないの?」

 分かんないし、睨むなよ。「目のタレ具合と二重の幅が絶妙。眉の形も綺麗だし、鼻筋もシュッて通ってるし、あと結構喉仏出てる」桜のツボミみたいにふっくらとした唇からこぼれ落ちる賛辞は本当に俺のことを形容しているのだろうか。甘酸っぱいような、ほろ苦いような、ぱちぱちと弾ける炭酸みたいな痛みが胸のあたりを刺激する。暑い。この部屋空調効きすぎなんじゃねぇの。ぐいっと煽ったジョッキの中身はぬるくてぼやけた味がする。

「盛り上がってるとこごめん! なあ、縁下たちもこれ書いてくんね?」
「卒アル? これ誰の?」
「俺」

 突如かけられた苗字さんとは違う低い声に居酒屋特有のガヤガヤした音と空気が戻ってくる。盛り上がってないし、むしろこの話題をぶった切ってもらって助かった。

「卒業式の時あんまり書いてもらわなかったなと思って持ってきたんだよ。書いたら向こうまで適当に回して」

 今日の同窓会を仕切ってくれたそいつからアルバムと油性ペンを受け取って、厚みのある上質な表紙をテーブルに乗せる。テーブルはそのへんのおしぼりでざっと拭いたから恐らく派手に汚れることはないだろう。
 同じものが自分の部屋の本棚の隅にもあるはずだ。寄せ書きなんてそこそこに部活の奴らと集まって騒ぐ方を優先した結果、思い出と書かれたページの半分以上が白いままのアルバム。たぶん薄っすらとホコリをかぶったまま眠ってる。
 ページをめくるたびに見える制服の黒の眩しさにくらくらした。「懐かしいね」「そうだね」それ以上の言葉が出てこない。たった四年、もう四年。その数字が小さくなることは永遠にない。

 だから俺はきっと、卒業式以来アルバムを開けなかった。


「そういえば縁下くんにも書いてもらったよね、卒アル」

 覚えてる? メッセージを書きながら苗字さんが伏し目がちに音だけで尋ねる。俺は「覚えてる」と返す。油性ペンで思い思いに殴り書きされた思い出のページはほとんど黒で占められていて、隣の二人は飽きたのかとっくに会話から離脱していて、またさっきの炭酸が弾けたような痛みがぶり返す。

「でもなんて書いたかは覚えてないでしょ」
「それは流石に」
「そりゃそうだよね、わたしも自分が書いたのは覚えてないもん」

 苗字さんが油性ペンに蓋をして顔を上げる。どこか不安気で寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。
 どくん。その顔は少し可愛いから止めてほしい。
 卒業式の日、差し出された寄せ書きに自分が何を書いたのか、必死に記憶をたどってみても欠片さえ思い出せない。その時の気持とか苗字さんの表情だとか、そういったことも薄れてしまった。ただ、カラフルに埋められたページの残り少ない余白を自分の黒で汚すのがなんだか申し訳なくて、ひどく小さな字になってしまったことだけ覚えている。

「苗字さんの明るさがあれば、どこへ行っても大丈夫だと思います。って書いてあったの。それがすごく嬉しくて」

 懐かしい日々に思いを馳せる。受験とか合格発表とか就職とか、卒業、とか。人生の節目に直面したあの頃、たぶんみんな何かを抱えていた。時間と身体は否応なしに前に進むのに、心のどこかが教室に、体育館に、バレーのコートに、三年という月日を過ごした学校に取り残されているような感覚。それでも彼女のような華やかな人間は場所が変わってもすぐに堂々たる自分の立ち位置を確保するんだろうと勝手に思い込んで、それで。

「地元離れてめげそうな時、何回も見たよ」
「そう……」
「なんかさ、もっと話せばよかったなって思って。縁下くんとも、ほかの人とも」

 格好いいとは思ってたけど、グループ違ったしほとんど話す機会なかったもんね。話そうって考えたこともなかった。あの同じグループ以外の人とは仲良くなれない雰囲気ってなんだったんだろう。ぽつり、ぽつり、こぼれ落ちる言葉から知らなかった彼女の一面がほころびを見せる。

「ねえ! 縁下くん就職先どこ?」
「地元だけど」
「えっ、ほんと!? わたしも春からこっち戻ってくるんだ!」
「へぇ」

 へぇ。そっか、そうなんだ。ふうん、じゃあもしかしたらどこかで。

「ね、連絡先交換しよ?」
「えっ」
「だめ?」
「いや、いいけど」
「けどって言わないでよー、そこは『喜んで!』って言って」
「はいはい、喜んで」

 グループも違うしとっつきにくそう、と思っていたのは俺も同罪。明け透けに言えば自分とは関係のない人だとさえ思っていた。話してみるとなんてことない普通の、少しノリがいい女の子で。二十二年の人生で自分史上最高に褒めてもらった気がする。

「春になったら連絡するから」
「うん」
「そしたら絶対ご飯いこうね」
「時間が合えばね」
「縁下くん冷たい! 無視したら泣くから」
「しないって」
「じゃあ約束」
「はいはい」

 小指を絡めて指切りのうたを歌いながら手を揺らす姿はまるで小さな子どもみたいだ。ゆらゆら、ゆらゆら。雑音の中、揺れるリズムと心地いいソプラノが耳に届いて、奥の、柔らかな部分までも揺すられる。そうだ、たしか卒業式の日、俺に向かってアルバムを差し出した苗字さんの指先は春の希望に満ちたピカピカの桜の花びらみたいなピンクだった。あれ? そういえば苗字さんは俺の卒アルになんて書いてくれたんだっけ?
 やだな、はまりたくないなあ。アルコールの席での約束なんて鵜呑みにしてはいけないと重々分かっているのに、三ヶ月後には社会人という現実が待ち受けているというのに、次に会う時は爪の先にどんな花が咲いているんだろうか、なんて。
 ああ、こんなにも春が待ち遠しい。



彼女は可愛さを知っている
リーコ様 / bubblebath

**後書

烏野オンリーという最高に素敵な企画に参加させていただき本当にありがとうございました。
この日の深夜に縁下くんの卒業アルバムの埃も綺麗に取り払われたのではないかと思います。
お話を読んでくださった方々と主催のチコさまに感謝の気持ちを込めて。みなさまの春が素敵な季節になりますように。
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