たしかまだ髪を切る前で、福ちゃんに抜かれて自転車を始め、部活に入ったはいいものの馴染めずに一人練習していた頃だ。
柄も悪くて態度もでかいオレを先輩達は受け入れるはずもなく、福ちゃんの自転車を乗り回すオレをいい風には決して思っていなかった。
それを気にしてはいないつもりだったが、潜在意識では不安だったのかもしれない。
その日オレは夢を見た。
チャリ部の公式ジャージを着た三年の先輩に取り囲まれて、ボコボコにされているオレ。
ケンカが弱ェつもりはなかったが、人数が多い。殴られて切れた口の中に血の味が広がった。
最初は素手だったリンチも、道具が入ってくる。夢なのにやけにリアルな痛みに耐えながら、出てきたバットに冷や汗をかいた。
ハコガクには野球部はねェのに、どっから調達してきたんだヨ。
夢だからって何でもアリだな。それが大きく振りかぶられて、動けないまま目を閉じた。

目をあけたとき、前に立ちはだかっていたのは先輩じゃなかった。
ストライプのスカートは最近漸く見慣れてきたハコガク女子のものだ。
両手を広げてオレを守るかのように立った女は、やめてくださいだのなんだの叫んでいる。
どんな夢見てんだオレ。ヒーローに憧れるガキじゃあるまいし。
女の声を聞いて先輩達は散らばっていく。コンクリートに投げられたバットが悲しい音で鳴いた。
あっけにとられたオレを振り返ると、女は笑って言う。
「大丈夫!荒北くんは一人じゃないよ!」

我ながらバカらしいと思う。
目が覚めてあの女は誰だと考えて思い当たったのは、一度廊下で見かけたヤツだった。
確か、一目ぼれした先輩に告白して玉砕した女子を慰めていたのだ。
玉砕したヤツの声がデカくてイライラしていたので、印象に残っている。
その時もその女は大丈夫大丈夫と女子の背中をなでていた。きっとあれが耳に残っていたんだろう。
見た目も声も好みだったわけじゃない。普通のヤツだったし、あの女子の泣きかたがもう少し大人しければ見向きもしなかっただろう。
だけどあの声はオレの耳に届いて、深層心理にまで響いて夢に見ている。
なんだか恥ずかしくなって、いつもの倍くらいはペダルを回した。
一人で始めた練習は疲れるしダルいし寮に戻ったらヘトヘトだしで楽しいことなんか全くない。
ハコガクの周りを走って走って、ちょうどいいところに公園と自販機が見えたので休憩することにした。
公園と道路には1mくらいの高さ違いがあって、スロープが伸びている。
福ちゃんの自転車を押して自販機横に置いてから小銭入れを出し、ベプシを買った。
予想以上に疲れているようで体は重く、いうことを聞かない。
自販機から取り出したベプシが力の抜けた指から滑り落ちていった。
そのままスロープを転がって、道路と公園の間の溝に落ちる。
高さが1mといってもスロープは緩やかで、距離が長い。
めんどくせェと舌打ちしてとりに行こうとしたが、自転車のことを思い出し、相当な値段がすると聞いたので近くのベンチの足に縛り付け、おぼつかない足取りでベプシを追った。

拾い上げて、めんどくせえなと腰を叩きながら公園のほうを見上げる。
階段のほうから来たのか、女が一人とさっきまで居なかったオッサンがいた。
女は自販機に向いているからオレと同じ用だろうとわかったが、オッサンがどうにもおかしい。
福ちゃんの自転車の前にしゃがみこんで、何かしている。
…まァさか、泥棒じゃ。
めんどくせェ。だけど、パクられたらたまったもんじゃない。
走り出そうとしたが、足は重く、そのまま倒れそうになったのを堪えるので精一杯だった。
息が切れていたからか、声が上手く出ない。
やべえな、走りすぎた。ゆっくりと歩きながら、オッサンの手際が悪いのを祈ったが、非常にも相手はプロのようだ。
走るか?いや、アレに乗られたらおいつかないのはオレが一番よく知っている。
体にムチ打って声を出そうとしたとき、自販機前の女がオッサンに声をかけた。
驚いたオッサンは逃げていく。手つきの割に気は弱いらしい。
女はじっと自転車を眺めてから、きょろきょろと辺りを見回した。
まさかコイツもパクる気かヨ、と思ったがそうでもないらしい。オレと目が合うと、持ち主だと思ったのか会釈をして階段を駆け下りていった。

「…ア」

あの女。なんか見覚えあると思ったら、夢に出てきたアイツじゃねェか。
妙な偶然に、柄にもなく運命を感じた。バカらしい。それでもアイツの声がまだ耳に残っている。

一度目は夢の中で、二度目は現実世界で助けられた。
空色の自転車は、今日もオレの下で日を受けてぴかぴかと輝いている。




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