攻略法はわかっている。この紐を手放せばいいだけだ。

私と目が合うと、荒北くんは即座に紐を引いた。
奈落よりも濃い恐怖が私を支配して、思わずヒッと喉から息を奪うような声が出る。
それを聞いて驚いた荒北くんは引きかけた手をとっさに止めた。中途半端なところでとまった刃は首に少し食い込み、少しでも動かせば血が流れそうな状況だ。

「っ何してんの!?」
「これ、今日の朝としかけ一緒だろォ?だからだヨ」
「だからじゃないよ!だ、ダメだって!死ぬって!」
「お前に言われたくねェンだヨ!朝から死にやがって!」
「あれは夢じゃん!」
「コレも夢だろうが!」

口論している場合ではないのに、お互い譲る気配はない。
相手は夢の中の自分の命の恩人なのだ。私は荒北くんに何度も助けてもらったし、私だってこの間、荒北くんを夢の中で庇った。
一歩も引けない。じゃあお願いしますといって簡単に死なせるわけがない。そんな、自分の為に命を張ってくれた人を。
今朝の夢では私が手を離した。だから荒北くんは「もう一度ならば自分が」と思っているのかもしれない。
…確かに私だって、もし荒北くんが同じように今朝の夢で死んで、それが自分の代わりだったとしたら…間違いなく、即座に手を離す。
あの夢は荒北くんにどんな思いをさせたんだろう。記憶に何を刻みつけ、心にどんな傷を与えたんだろう。
私が夢の中だけでも守るといったのに、結果的には傷つけてしまっているのだ。深くて、今荒北くんの首に食い込んだ刃よりも鋭く深い傷を、私は夢の中で彼につけてしまった。
想像がつかなかった。朝から他人のケータイを強奪してかけてきて、起こして、寮に住んでいるというのにわざわざ迎えにくるくらい。
付き合いの浅い私ですらわかるくらいの焦り顔。とんでもない量の汗をかいて、それこそレース中だって比にならないくらいの。きっと、ものすごい心配をかけたに違いない。
だけど、とはいえ私がここで引くことができるわけがない。
夢の中で何度も血を流す荒北くんは見てきたけれど、たったの一度も慣れないのだ。何度目だって、あの赤色を見るたびに眩暈がする。残虐な夢は何度も見たはずなのに。
今この瞬間だってそうだ。目の前で荒北くんの首がゴロンと転がるところなんて想像すらしたくない。夢だって言われても、目の前でそんなもの見られるはずがない。

あの夢と同じだ。一歩もひかないまま、私の体力だけがごりごり減っていく。
正直この状態は苦痛でしかない。眉を顰め目を薄め、口を歪ませて苦しそうにするたび、荒北くんは紐を引こうとする。
辛いことを表に出せば、今楽にしてやるといわんばかりに紐を引くだろう。
荒北くんはそういう人だから。私のために、夢の中でなら傷も厭わずに助けてくれる人。
だから平気なフリをして無理矢理に笑った。
手首の骨が抜けそうだし、指はびりびりと痺れてきている。限界が近いことを、身体全身からのサインと共に感じる。
荒北くんのはギロチンで、私は落下だ。
下に何があるのかわからないけれど、剣山とか、何か痛いものがあるようには見えない。
意外と下はクッションになってて、柔らかくて痛くない…なんて、現実逃避にもほどがあるだろうか。
だけど、もしかしたら落ちたらすぐに目が覚める仕掛けだったりするかもしれないし。
どちらの死に方が痛々しいかなんて聞かれたら、間違いなく荒北くんの方だ。
飛び降り死体は身体の中のありとあらゆるものを飛散させるから汚いと聞くけど、この高さなら荒北くんにそれを見られることもないだろう。

(怖くない、怖くない。手を離せば、すぐに元に戻れるんだ)

夢の中で感じた、落下の恐怖を全てなかったことにしようとした。
正直あんな体験はもうゴメンだが、そんなことは言っていられない状況なのだ。
これは夢、これは夢だと自分に強く言い聞かせる。大丈夫、きっと。
残りの力を振り絞り、声を張り上げ、荒北くんに向かって叫ぶ。
「もうそろそろ落ちるかも」その言葉に、荒北くんの怒声が返ってきた。
それだけで彼が生きてるって安心してしまうのは、自分の死を覚悟しているからかもしれない。

「ッ、ふざけんなよ」
「ふざけてないよ、正直これツラいんだって!手が千切れそうなんだよ…」
「じゃあオレが引っ張りゃイイんだろ!」
「あっ、荒北くんのは首チョンパでしょ!確実に死ぬじゃん!」
「オメーだって、こっから落ちたら死ぬだろうが!」
「そんなのわかんないって」

今日の朝だってそうだった。
落下したときのおぞましい感覚、自分がいなくなってしまうような恐怖は間違いなく現実に感じたそれだった。
だけど、結局は荒北くんの(正式には東堂くんの)電話で目覚めることができたのだ。
だからこそ荒北くんに会って、一緒に登校して、そしていまここで夢を見ている。現実世界の私の身体がどうなっているのかはわからないけれど、きっとまだ死んでない。
もしかすれば、あの電話がなければ死んでいたのかもしれない。死の世界からの電話なんて、ホラー映画ではよくあることだ。だから、生の世界から彷徨う私を引きずり起こすことだって。

あの電話さえあれば、もしかしたら。


「荒北くん、やっぱり私落ちるよ」
「ぜってーダメだ、何回言やァ…」
「…お願い、いいこと思いついたの。試していいかな?」

彼のポケットには、きっとさっき交換したばかりの私の連絡先が入ったケータイが入っているだろう。
交換しておいてよかった。じゃなきゃ、この状況に東堂くんがいなければ詰んでいたから。
脂汗が浮かぶ顔で、できるだけ自然に笑顔を作ってみせる。見下げる荒北くんの顔が歪んでいるのを見るに、きっと作りきれてはいなんだろう。

「…あのね、荒北くん。もし私が手を離したらすぐに、ケータイに電話をかけてほしいんだ」

当たり前だけど、死なないという確信はない。だけど思い浮かぶのはこれしかないんだ。
露骨に嫌な顔をした荒北くんは、「助かる保障がねェ」とその案を一蹴した。
私だって、現実的に考えておかしいってわかってる。だけど、今朝はそれでなんとかなったんだ。
私が生き延びるために、他にできることになにがある?荒北くんが死ぬのは勿論却下だ。二人で生きて帰らなきゃ、意味がない。
宗教じゃないけど、信じるものは救われるんだって。なんていったってここは、夢の世界だから。
震える手、引きつる頬、歪んだ唇。
何か言いかけた荒北くんは、そんな私を見て口を閉じた。

「なんだかわかんないけどさ、大丈夫な気がするんだよ。私を信じてよ、なんなら、かけてもいい。」

荒北くんって、前髪が以外と長かったんだ。かかった髪が影を落とし、下からだというのに表情は窺えない。
強く噛んだ唇にしわが寄っている。そんなに噛むと血がでてしまうかもしれないし、私の夢の中での出血はちょっと過剰気味なところがあるから、勘弁してほしい。
何をかけるってんだヨ、と、普段怒鳴り散らしている荒北くんからは想像できないような、弱弱しい声がかろうじて私の耳に届く。
ダメだ。手が震えて、滑ってきて、こう話していられるのも長くはなさそうだ。
死ぬかもしれないという思いが現実味を増す。
生にすがり付こうとする私の気持ちだけが、手に力を送っている。きっと鍛えられていない私のからだの筋力はもう限界だ。
綱に擦れた手が痛かった。伸ばしきった腕には殆ど血が通っておらず、白くなっている。だけど、それでも。
いつかみたいに勝手に口が動く。こんなこと言ったら荒北くんに嫌われちゃうかな、気持ち悪いとか、言われちゃうのかもしれない。
だけど、死ぬくらいなら。
私を助けてくれた荒北くんの姿が、目を閉じていないのに暗くなってきた視界に浮かんだ。
走馬灯っていうのかな。背中から血が出たり、コールドドリンクをくれたり、子供になったり、私を殴ったり。あ、あれは荒北くんじゃないだっけ。
それから、二人で一緒に夢の中で相談して、写真が枕元に入っていることに気づいて。
写真を外してみた夢は酷かったけど、その翌日に見た夢で荒北くんを助けることができたときは嬉しかったな。
荒北くん、荒北くん。

荒北くん、私、荒北くんのこと、

「じゃ、じゃあ、私が手を離して、二人とも生き残っていたら…」
「………」
「わ、たしと、お、お付き合い…して、もらえませんか」
「………………正気ィ?」

目を細める荒北くんは、探るように呟いた。
こくりと頷く。それだけなのに首にも力が入らなくて、ぐでんと首の据わっていない赤子のように頭を揺らした。
17年間の短い人生。まだ終えてはいないけれど、生死の境目で、こうやって好きな人と話すことができるなんて。
昔、殺人事件のニュースを見ながら「私が死んだ瞬間を大切な人が知らない」ということの恐怖に怯えたことがあったっけ。
その時はお父さんとお母さんに挟まれて、お姉ちゃんに抱きしめてもらって寝たっけなあ。
それに比べたら、こうやって死ねるなら幸せなのかなあ。…なんて。

「さっき言ったでしょ、私、荒北くんのこと………すきなの」
「………なまえチャン」
「荒北くん、お願い、信じて」

念じるように、懇願するように、祈りを込めて。
ぶつかった視線の先の、荒北くんの黒目が震えている。目は細いのによく開くから、荒北くんは黒目が小さいのがよく目立っていた。
荒北くんの手がゆっくりと、恐る恐るという風に紐からはなれる。
それからすぐにポケットに手を突っ込むとケータイ電話を取り出し、手早く操作した。どこも光っていないのに反射した画面が、私に見せられるようにこちらへ向けられる。
もう疲れきって体力がなくて、画面なんて全く見えなかった。何が書いているのかなんて読めやしない。それでも、うんうんと必死に頷いた。
きっと私の電話番号が映っているのであろうそれが見えなかったのは、疲れて視力が落ちてるからだ。水分が目を妨げているわけじゃない。だけどどうしてか、もう冷え切った頬が温かい。

「かけるからな」
「うん」
「…もしお前が死んでたら、オレを呪えヨ」
「信じてないね」
「信じたくねェヨ、好きなヤツ見殺しにして助かるなんてヨ」

荒北くんの言葉の後半は、もう聞こえていなかった。
汗で手がずるりと滑った感覚と、荒北くんが私の名前を呼ぶ声。

「―――――!」

奈落へ落ちていくのを感じながら、もうすっかり重くなってしまった瞼をゆっくりと下ろした。




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