激情ムース あれからしばらく経って、いつからか俺は二人きりのとき、なまえちんにキスをするようになった。 どういう経緯だかはあんまり覚えてない。 でも、拒絶しないから。なまえちんの唇が美味しそうだから。なにより、彼女が少し嬉しそうだから。 呼び名もみょうじちんからなまえちんに変えた。 いつぞやにさっちんにも言われたけど、もしかして女の子は名前呼びのほうが嬉しいの? …この場合は俺がなまえちんを喜ばせたかったってよりも、なまえで呼ぶような『関係』になったからなんだけど。 付き合ってるわけじゃない。唇を合わせただけ。 コレってなんて言うの?友達以上恋人未満?そんなんじゃないよね。 「なまえちん、目閉じて」 「っはい…」 二人っきりの家庭科室。蛍光灯はわざとつけていない。 俺がそう言うと、彼女はいつも、無防備に瞳を閉じてくれる。 睫が長いなぁ。そんなことを考えながら俺は彼女に口付けた。 なんだかなまえちんからはいつも甘い匂いがする。 髪も唇も肌も、全部ケーキで出来てるのかもしれない。 さっちんからはいつもシャンプーの匂いがしたけど、女の子って原材料が俺と違うのかな。 バスケ部の連中は皆汗のにおいしかしないのに。…あ、室ちんはたまに香水のにおいがするなぁ。 「もういーよ」 その合図でなまえちんは恐る恐る瞳を開けるのだ。 目の前に俺がいるか確かめるように、ゆっくりと。 キスについては何も言ってこない。 たぶん、ヘタに言って俺との距離が離れるのが怖いのだと思う。 そりゃそーだよね。好きな人とこんなに近づけて、拒否するわけないもんね。 そうでもなくてもなまえちんは拒否しないんだろうなぁ。 俺じゃない別の、好きでもなんでもない人にされても、きっと何も言わないまま、どんなに嫌だとしても泣き寝入りするんだろう。 …考えただけで嫌気がする。 恋人でもなんでもないけれど、なまえちんのやわらかくて甘い唇は俺のもの、そんな風に思っていた。 これって独占欲? * 少し前の、アイスケーキを作ってきた日からだったと思う。彼にキスを強請られはじめたのは。 正直、最初は動揺した。 焦りすぎて、5時間目に遅刻しそうになるくらい。 その日はろくに眠れなくて、翌日は友達どころか先生にも心配をかけてしまった。 いつもマジメに授業を聞いていた私が机に突っ伏すなんてよっぽどだと思われていたらしい。 ケーキを渡しに行く場所が、紫原くんの教室から鍵のかかった家庭科室に変わった。 二人きりのそこで、ケーキを食べた紫原くんがキスをする。 目を瞑ってというので、私はいつもしっかりと何も映ることのないように目を閉じる。 ケーキを食べたばかりの紫原くんはいつもケーキの匂いがした。 動揺を悟られないように、手のひらをぎゅっと握る。 顔は赤いままだけど、ばれてないと思いたい。彼はきっと鈍いから。 今紫原くんに彼女はいない。 でも彼はもてないわけじゃないから、いつか飛び切りかわいい彼女ができるんだろう。 …もしも彼女のほうが私よりもお菓子作りが上手だったら、私の存在価値はなくなってしまう。 そうでなくても、知らない女が彼氏にケーキを届けるなんて許されないだろうから、多分この関係もなくなってしまうんだろう。それは嫌だなぁ。 考えただけでズキンと胸が痛んだ。 ケーキを食べてもらえるだけで幸せだったのに、今はキスまでしてもらえるようになってしまった。 彼の心は読めないけれど、私はそれだけで幸せ。こんなに近づけたなんて、奇跡みたいなものだった。 「みょうじさん」 「はいー…って、部長じゃないですか」 「ははは。みょうじさんこんな時間まで熱心だね。」 こんな時間? 首を傾けて家庭科室に設置されている時計を見ると、とうに7時を越えていた。 ケーキの下準備に夢中になって、時間を忘れてしまっていたらしい。 …どちらかというと、下準備自体よりも考え事のほうが大きな原因となってるんだろうけど。 「キミらしいと言えばキミらしいけれど、あまり関心はしないなぁ。女の子がこんな時間まで。」 「す、すみません…すぐに出ます。」 「そうだね。もう遅いし、僕が送るよ。」 「えっ、いいんですか」 「うん。さっきまで生徒会の仕事でね。まぁ…ついでみたいなものだから。」 気にしないで、と部長は綺麗な笑みを見せる。 私の所属する家庭科部の部長で、生徒会副会長も務めている。 顔立ちは綺麗だし、誰にでも優しくて、うちの部でも一番料理や裁縫が上手。 そんな彼を女の子たちが放っておくわけがなくて、よく告白される現場を見かけていた。 「部長も大変ですね。」 「そうでもないよ。この時期なら…運動部のほうが大変なんじゃないかな」 校舎を出てちらりと部長が体育館側を見た。 練習を終えて、さぁ帰ろうとする運動部の集団がちらちら見える。 その中に例外はなく、紫原くんも居た。 「…お、バスケ部か。って、みょうじさん?」 見られたくなかった。 部長に気があるわけじゃないけれど、他の男の人といるところなんて。 別に付き合ってるわけじゃないからいけないなんてことはない。 でも私が個人的に嫌だった。変な勘違いをされたらどうしよう。 毎週キスまでしておいて、他の男の人と帰るなんて。 突然俯いた私に、部長が心配げに声をかける。 大丈夫です、と首を小さく振ると、別のほうから声が降ってきた。 「…なまえちん。」 もはや聞きなれた声。 いつものような気の抜けた声でなくて、その声にはしっかりと一つの感情が篭っていた。 120804 ←→ |