私は叫んでいた。人通りのない静かな道路沿いの大きな川、緑色で澄んでいるとは俄かに言い難いそこに、その濁りに感情をぶつけるかのように、体育の授業でも出したことのないような大きな声で叫んでいた。
車が走ってくるのが、ライトの光でわかる。すぐに遠ざかる光が幾つも幾つも私を通り過ぎて行く。
車通勤、羨ましい。だけど電車通勤の私がわざわざ乗り換えでもなんでもない駅を降りてここまでやって来たのには意味がある。
この川に会うためだ。何か嫌なことがあると、すぐにこの川に投げ入れて来た。この川が濁っている理由の8割は私の愚痴かもしれない。

「クソ野郎ー!最低男ー!」

会社では清楚で大人しくてだけど仕事はできる事務の女の子を演じているから、きっと会社の人が見たらその豹変ぶりに驚いてぶっ倒れてしまうことだろう。課長なんか貧血気味だし、卒倒しそうだ。
すいません、もともとの私はこんな人間なんです。ムカつく上司のコーヒーには汚い臓器で出汁をとった水を入れたいし、セクハラしてくるクソ部長のつま先をヒールで踏みたいとも思ってます。
コーヒー淹れてよって言われるたびに「自分で淹れろハゲ」って言葉を飲み込んでるし、「みょうじちゃんの淹れたコーヒーは格別だね」って言われても「たかがインスタントコーヒーで味が変わるわけねーだろ」と思っています。
そもそも、会社で素を出していればこんなことにはならなかったはずだ。社員の男共は私やちやほやしなかったし、アイツも私のことを好きにならなかった。
アイツが好きになったのは私じゃなくて、事務の大人しくて清楚な女の子だ。分厚い紙のホッチキスも止められないような子。両手で叩いて勢い良く止めるような、こんな野蛮な娘じゃない、だから、だから逃げられたんだよ。

「っ…貧乏人!包茎!かねかえせえええっ!!」
「ぶっ」

声を拡張するために添えた両の手を戻さないまま、首を100度左へ向けた。
白いワンボックスカーの運転席から窓を開けて、そこに肘をかけている男がいる。
くくくと俯きながら笑いを堪え切れていないコイツに、当然心当たりはあった。だからこんな冷や汗をかいている。知らない人ならそれでいい。悲鳴をあげて逃げるだけだ。
だけど、まさかの…

「か、寒咲…?!」
「びっ、貧乏人はいいとしてっ…包茎はダメだろっ…くく、金返せっておまえなあ…!」

私の後ろで抑えるように笑っているのは、高校の同級生だった。
高校時代二年と三年のとき同じクラスだったヤツだ。それなりに話して、それなりに仲が良かった。
恋愛ごとには発展していないし二人で遊んだことはなかったけど、何人かでコイツの家にお邪魔したことはある。高校から近かったから。
お互い就職で、コイツは自転車屋をやってるって聞いていたけど……まさかこんなとこで会うとは。
いくらここがコイツの家の割と近くで高校の近所とはいえ、偶然にもほどがある。しかも、今日に限ってだ。
親指で乗ってけよと示されて、遠慮なく助手席に乗り込んだ。後ろにはサドルの位置がやけに高い自転車が積まれていて、そういえばコイツ高校生のときこんなの乗ってたなと思い出す。
ロゴが書いてるけど、何語なんだろう。英語?自転車の知識は皆無なので、そんなところ見てもわかるわけがないんだけど。

「これ、寒咲の?」
「いや、店の」
「ふーん」

興味あんの?と、寒咲は車を発進させながら言った。微塵もなかったため、正直にないときっぱり答えたが、寒咲は「だろうな」と笑う。
寒咲が膝を壊すまで、部活で乗ってるところに遭遇したことはあるが、自転車の話をしたことはなかったから寒咲もよくわかっているのだろう。
妹が自転車バカでさ、と話し始めた寒咲は、私たちの通っていた総北高校の話を始めた。
部活のサポートで車を出すことがあるらしく、今でも寒咲が3年の頃の1年とは付き合いがあるそうだ。私なんて、卒業してから2度くらいしか行ってないっていうのに。まあ、寒咲のうちは高校に近かったからかもしれない。私のうちも電車で二駅分だが、会社と逆方向なので行く機会がないのだ。

「…ていうかこれ、どこに向かってんの?」
「オレんち」
「えっ」

なんか見たことある道だなと思ったら、行き先は寒咲の実家らしい。そういえばそうか、そこの道路をまっすぐ行って曲がれば、寒咲サイクルの看板が見えるはずだ。
てっきりうちまで送ってくれるのかと思ったのに、なんでお前の家なんだよ。せめて駅まで送ってよ。
唇を尖らせると、ぽんぽんと左手が頭の上に乗った。信号が赤い。エンジン音もなく、止まっている車内はとても静かで、妙な気まずさが車内を埋め尽くす。

「つかみょうじ、一人で知らない男の車に乗んなよ」
「はあ?なにいきなり」
「みょうじなら乗りそうだなって思って」

視線をこちらに向けないまま、寒咲はぽつりと言った。
……喧嘩売ってるのか、こいつ。
仮にも社会人の、ハタチ超えた女の私に、妹にするような言葉をかける寒咲にむっとした。知らない男の車に乗るなって、それ小学生の頃から言われてるんですけど。
プリントだって毎年もらってたんですけど。
流石にそこまで子供じゃないんですけど。
信号が青に変わり、車が動き出した。
「バカにしてんの」だの「冗談じゃない」だの、文句の一つでも言ってやろうと思ったが、それは「もうすぐだ」という寒咲の言葉に遮られてしまう。
仕方なく黙った私の隣の男はどこか上機嫌だ。口元が緩んでいる。
近くの駐車場に入ると車が止まり、ドアが開いた。
素直に降りると、機能を停止した車をおいて寒咲が歩き出したので、素直にそれについていく。
駅から川まで歩いた分の疲労はすっかり抜けていた。

「もう妹ちゃんいる?」
「まだ部活なんじゃねえかなあ」
「遅くまでやってるんだ」
「インハイ前だからな、多分今うちには誰もいねえよ」

誰もいない。
その言葉に、ぎくりとした。
足を止めた私の数歩前に立った寒咲が振り返る。
さっぱりした短髪だから顔に影は落ちないはずなのに、やけに表情が読み取りづらいのはもう周りが暗いからだろうか。

夏なのに、もうこんな時間に……


「みょうじ、男の車には一人で乗るなよ」


寒咲、さっきあんた『知らない男の』って言ったよね?



あおさんにささぐ
140403



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