なんだぜ少女は無知


 我が友人の荷物持ちの大役を果たしつつ、当然のように友人の城に帰還する。バベルの塔は、新たに積み上がった建材に大いにぐらついたが、危ういところでバランスをキープする。まだ神はこの塔の成長を許すらしい。
 この十畳一間の空間の主は、マシンで抽出したエスプレッソを舐めながら戦利品を眺める。宝探しの一番の財宝は何やら難しそうな小説だ。
「"嘔吐"だぜ」
「"嘔吐"?って、金色のオロロロロ?」
「そういう風にナチュラルに下ネタ混ぜる君が大好きだぜ」
 何やら告白されてしまった。照れたように頬を掻いてみる。
「サルトルの哲学小説だ。私が読んだら貸してあげるんだぜ」
「ああ、なら頼むよ」
 友人が貸してくれると言った小説に外れはあまり無いのだ。金色のオロロロロをタイトルにつけたサルトルさんとやらの小説もきっと当たりなのだろう。少し顔を綻ばせると、友人は少しだけ微笑んで、口元に愛用の栞を口づけるように近付けた。
「君、外れないと当たるは違うんだぜ」


 我が友人に会った後も、僕の日常は変わらない。小難しそうな顔を貼り付けて、授業を受けて、休み時間は文庫本を黙々と読む。
 そんな変わらない日常に、変わった風が吹き始めたのは、サルトルの話をした三日後くらいだろうか。
「留守くんって、いつも本を読んでるね」
 クラスで別段目立つわけじゃない僕に、クラスでそこそこ目立つ女子生徒が話しかけるようになったのだ。
「なに読んでるの?」
 友人に言わすところによると、この質問は会話下手がする質問らしい。聞いたところでタイトルに聞き覚えがなければ、会話が途切れてしまうからだ。
「たったひとつの冴えたやり方」
「ふうん……ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアか」
 僕が驚く素振りを見せると、女子生徒はにこりと――否、にやりとした。
「本は好きなの。留守くんこそ、ティプトリーなんてよく知ってたね」
「たまたまだよ」
 言葉少なに返すが、この本は僕にとっての特別だ。小学生の頃、初めて友人に薦められた本。ハヤカワ文庫の可愛らしい装丁は、すでに至るところがぼろぼろだ。
「ティプトリーはこれしか読んだことがないんだ」
 気紛れからそう返事をすると、女子生徒は大変驚き、それから、勿体無い、と小さく漏らした。
「どうして、ティプトリーを?」
「友人に薦められた」
「斎藤くん?いや、2組の鮎川くんかな」
「いや、両方違う。もっと根性がひんまがってて、頭が柔らかくて、大胆な奴だよ」
「えー?じゃあ田浦くん?あの人本読むの?」
「それも外れ」
 僕は、ぼろぼろの本に挟まれたぼろぼろの糸栞を挟み込む。
「意外と留守くんってミステリアスなんだね」
 ミステリアス、だろうか。独特の言い回しに首を傾げた。
 その日、僕は名簿で女子生徒の名前を調べた。
 朱沙(あかさ)というらしい。
 その翌日も翌々日も、朱沙は僕に話しかけ続ける。
「留守くん、人はどうして生きてるんだろうね?」
 ふいにそう呟いた朱沙に、僕は肩をすくめる。
「さあ」
「ちゃんと答えてよ」
 夕暮れの下校途中、剥れたようにいう朱沙に僕は苦笑した。
「分からないよ、そんなの」
「だから知りたいのにな」
 可愛らしくこてんと首を倒した朱沙が、僕の方を上目遣いで見る。
 ややあって、僕がその視線から解放された。
「わたしね、このまま勉強する意味があまり分からないの。勉強しろ勉強しろって言われても、勉強したところで報われるか分かんないし」
「そうだな」
「だから、頭がいい人は、どこに向かうのかはっきりしてるんだろうなって、そう思ったんだけど、留守くんは違うみたい」
 朱沙は、僕のサブバックから未記入の進路調査表を取り出す。
「留守くん、わたし達はどうして勉強するんだろうね」
 朱沙の大きな瞳で見つめられて、僕は息が詰まった。返答に窮して、視線を下げると、朱沙が困ったように吐息で笑う。
「留守くんも、分からないことくらい、あるよね――」
「仕方ないぜ、君は、学校で決められたカリキュラム以外、興味なんて持たなかったんだから」
 朱沙の声音と正反対の、明るい声が後ろから聞こえた。
「やあ、君。放課後に女の子を連れるなんて、青春真っ盛りじゃないか」
 推定150cmのちまい友人は、いつのまにか僕の後ろに立っている。少しだけ斜めに被った黒いキャップから、浮世離れした光を湛えた三白眼が覗いた。黒のジャージには蛍光グリーンで"われ思う、ゆえにわれあり"と書いてある。デカルトの名言もチープに見える。
「貴女は?」
 朱沙が目をパチパチさせながらそう問いかける。それに対して、我が友人はどこか誇らしげに胸を張った。
「そこの留守在君の腐れ縁にして、人生を楽しみたい人間なんだぜ。名前は間田梨衣」
「名前はマダナイ?」
「間田が名字。梨に衣類の衣とかいてナイと読む。ややこしい名前だろ」
 夏目漱石じゃねぇんだ。憂鬱そうにそう呟いた友人は、朱沙に手をひらひら振った。
「まあ、好きに呼んでくれたらいい。それより君、約束の本を貸しに来たんだぜ」
 片手に掲げられた、紀伊國屋のカバーが掛けられた文庫本をひらりと振る。
「あぁ、そういえばなんでお前は高校を辞めたんだ?」
「え、この子、中退したの?」
 驚いたような朱沙に、友人はきょとんとする。しばらく押し黙ってから、細めた三白眼で僕らを見た。まるで、歪なものを見るように。
「どうして、高校にいかなきゃならない?」
「え……そりゃだって、行かないと就職も進学もできないでしょう?」
「高卒認定なら既にとってるんだぜ。就職はともかく、進学には不自由しない。最も、日本の大学に進む気はあまり起きないけど」
 唇をやや尖らせ、友人は車両進入禁止のポールに腰掛ける。
「君と貴女の本心は恐らくこう、だ。"周りは皆行っている""行かないと周りからだめな人認定される""親に行きなさいと言われた"。あぁ、別に悪いってわけじゃないんだぜ?それも一つの考え方。人生の捉え方の一つだし、ぶっちゃけ最近の主流の考え方だしな」
 目を白黒させる朱沙に対し、友人は滔々と語り続ける。
「私は、それは合わないと思った。周りからだめな人認定されても、そんなの知ったこっちゃねぇし、親とは縁を切ったし、気にする周りはそこの君くらいしかいないからな。だから必要を感じなかった。高校って本来そういうところだろ?お偉いさんが"高校への進学率が90%を越えた"って喜ぶのはお門違いだ。むしろ、勉強を望まない、高等教育を必要としていない人間が、校舎に詰め込まれて将来使いそうにない知識を湯水の如く浴びせられ、そして腐らせていくこの状況を憂うべきだと私は思う」
 そこまで話してから、友人は懐からお茶の入ったマイボトルを取り出して一気に煽った。一息ついてから付け足す。
「This is my opinion. あくまで私の意見だぜ」
「でも、高校生活が無くてつまらなくない?」
「既知の知識を延々と聞くより、自分の存在意義や未知の世界を紐解く方が性にあってるらしくてな」
 朱沙は妙に納得したように頷く。それから友人に向き直って、真剣な表情で尋ねた。
「貴女はどうして勉強したの?」
 僕にした質問をもう一度。朱沙の強い視線を真っ向から受け止め、友人は緩やかに微笑した。
「世界があり、君がいて、貴女がいて、私がいる。そのすべてのことが不思議で不思議で仕方なかったから。
私は確かにここにいる。けれど、私は自分についてなにも知らない。私はどうして"何故"と考える?私はどうして感情を持つ?神は人間にこう命じたらしいぜ。"生めよ、増えよ、地に満ちよ"。それだけが人間の存在意義なら、なぜこんな無駄な機能が必要となる?いや、そもそも私はどうしてここにいる?」
 吐き出された友人の好奇心は、泥のようにそこに留まる。
「お前の考えは何なんだ?」
 僕の問いかけに、彼女は笑った。
「私はまだ、それに答えられるほど賢くない。だから、先人の考えを引用するぜ。
答えは、ない。私たちに生きている意味はない。そこにある椅子や、公園や、家や、鳥や、遊具や、犬や猫にだって生きている意味はあるけれど、私たちにそれはない。なぜなら、私たちは実存が先に立つ存在だから。そして、ある目標を見据えて、それを存在意義にしようとする存在だから」
 歌うようにいった友人は、立ち上がって片目をぱちんと閉じた。


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