一縷光


 衝動的に飛び出した現世は、太陽が西に沈むころだった。橙色の空に紫の雲が棚引く。母親に手を引かれて歩く子供や、仕事帰りの男衆の背中が嫌でも視界に入って、少年は早くもここに来たことを後悔した。
 けれど、今更のこのこ帰ることはプライドに反する。ぐっと唇を引き結んで、鎮守の森を大股で歩いた。足を踏み出すたびに、りん、りんと涼やかな音色がする。西日に射されても影はなく、身に纏うは汚れ一つない白の浄衣。行き交う人は彼に見向きもしない。不思議な音に耳を澄ませ、通り過ぎるときに感じるわずかな風に首を傾げるのみだ。
「所詮人間なんてそんなもんさ」
 少年は鈴を転がすような愛らしい声を、整った唇の隙間から漏らした。
「そして俺もそんなもんだ」
 誰にも聞こえない独り言を囁くように言いながら、少年は一の鳥居のど真ん中を進む。鎮守の森を出て、市街の方へ。まるで振り向いてはいけないというように、頑なに前だけを見据えていた。
 日が沈み、星が浮かんでも少年は歩く。どこに向かっているのかは分からないまま、ただ大きな道をひたすらに進む。途中までにぎやかに聞こえていた、宿屋娘の客引きの声も途絶え、野犬の低い唸り声と風の音だけが空気を震わせていた。
 ふと、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。川べりの柳の下、少年と同じような白い衣を着た童が立っている。童も顔を上げて、少年を見た。慌てて後ろを振り返っても、そこには誰もいない。童は確かに少年を見ている。
「お前、俺が見えるのか?」
 童はコクンと頷いた。
「そうか。人間で俺の姿が見える奴に会うのは、生まれて初めてだ。お前、名前は?」
 童はかすかに唇を動かした。けれど声が小さすぎて聞こえない。少年は焦れたように聞き返すが、やはり声が小さい。むっとしてその童に駆け寄り、口元に顔を近づけ、うんと耳を澄ませた。
「ヨコセ」
「横瀬?」
「人間、お前の体、寄越せ……!」
 あ、と思った時にはもう遅い。童の顔がぐにゃりと歪み、首から先が大きな口になる。かぱ、と口が開き、ぞろりと並んだ牙が少年の眼前に迫る。僅かの間、ぽかんとした少年だったが、次の瞬間には眉を吊り上げ肩を怒らせた。
「お前も結局一緒じゃないか」
 幼子が泣きだすような化け物を前にして、少年は涙一つこぼさずただ怒りだけを露わにする。化け物がその様子に違和を覚え、捕食に待ったをかける前に、少年は吐き捨てるように叫んだ。
「不快だ。失せろ!」
 その言葉が終わると同時に、ぱん、と化け物は破裂した。風船が弾けるようにして千々に散ったその体は光となって消えていく。ふん、と鼻息を荒く吐き、行進を再開しようと踵を返した。
 それを止めたのは、一人分の拍手だった。社でよく聞いたものではなく、純粋に何かを称賛するもの。不機嫌を隠さず振り返ると、一人の少女が両の手を打ち鳴らしている。
「お見事」
「なんだ、お前。お前も妖怪か」
「ううん、私は人間」
 今度こそ少年は目を丸めた。今度こそ、自分の姿を眼で捉えた初めての人間だ。近寄ると、少女の射干玉の瞳には確かに自分の姿が映っている。
「すげぇ。すげぇ。本当に俺が見えてら」
 嬉しそうに言う少年に、少女は困ったように微笑んだ。年の頃は十四、五だろうか。背が高いせいで少年を見下ろす形になっていた彼女は、膝を折ってわざわざ見上げるようにした。
「どうしてこんなところにいるの?お社は?」
「……家出だ」
「神様がお社を空けちゃ駄目じゃない」
「いいんだ。俺は神じゃねぇし」
 ぱち、と少女は一度瞬いた。
「それより、お前名前は?」
 また少女は瞬いた。無邪気に笑う少年に、毒気を抜かれたように肩を下げる。
「あずさ」
「嘘だな」
「本当よ。他の人からはあずさって呼ばれてるもの。私を呼びたいならそう呼んでちょうだい。それで、貴方は?」
「俺は名前なんてないよ」
 三度少女は瞬いた。この少年は妖怪ではない。人間でもない。歩くたびになる涼やかな音だったり、纏っている衣だったりから、どこぞの社に祀られている神かと思ったが神でもない。名前もない。
「君、何者なの?」
「そんなの俺が知りたいよ。なぁあずさ、俺夕暮れから今の今までずーっと歩いてきたんだ。さっき怒ったしお腹もすいた。人間なら家か宿があるだろう?泊めてくれないか」
 少年はぷくっと頬を膨らませる。しばらく悩んでから、あずさはしぶしぶと頷いた。



 神と人の間には切って切れない因縁が横たわっている。
 人は神の加護を受けて平穏を得、神は人の信仰でその身を保つ。故に、多くの神は一柱につき一人以上、生涯を己に捧げてくれる人を従える。神はその人間の信仰で身を保ち、人はその神に護られ幸いに過ごす。神憑きと呼ばれるその現象は、神に携わる者の最大の誉にして最初の難関だった。何せ、神に選ばれねばならぬのだから。
「人間も大変だなぁ。神様って我儘だろうに」
 その神様が言ってはいけないだろう。急遽宿の女将に作ってもらった握り飯をぺろりと平らげ、少年はあっさりとそう言った。
「それより、本当に君って何者なの。神様じゃないなら何?」
「俺?俺はただの半端ものだよ。分かり易くいえば、うちの親父殿が身の程をわきまえず人間の女に惚れちまって、ずっこんばっこんの末にできた子供。人間でも神様でもない半端もの。それが俺」
 酷い言い方だった。いっそ投げやりにすら感じられる口調で、少年は出自を吐き出す。成程、とあずさは納得した。その身体に神の力を纏わせるも、神だと確信させるには弱いもの。祀られるほどの名もなく、せいぜいできるのは妖怪を祓うことくらい。第一、実体を持たぬ神なのに、食事をしたり、歩き疲れたりと違和を感じることも多かった。よく思い出せば、あの化け物だって彼を人間だと呼んでいたじゃないか。
「半端ものの所為で力もないから、実体を認識させることすらできない。その所為で折角の加護も俺の仕業だってわからん。その加護だって厄を退ける程度のチンケなもんだ」
 幼い子供の姿をした半端ものの少年は、仰向けに転がってうんと伸びをする。
「だからあの時、私が君を見れたことに驚いたのね」
「ああ。あんた神様見るの初めてじゃないだろ?」
 その言葉に、あずさは顔を強張らせた。
「でも、俺を見たのはあんたが初めてなんだ」
「……お母さんは?」
「見えなかった」
 偉大なる父神に見初められるほどの力を持った母ですら、少年を見ることは能わなかった。母親は終ぞ目を合わせぬまま、遠い昔に死んでしまった。
「ま、誰かに憑いて神力を強めれば話は変わってくるが、名前もない神様が、存在すら認識できない人間に憑けるはずもねぇや。御蔭で二百年独り身だ」
「待って、誰にも憑いてないし社もないなら、どうして君は存在出来ているの?」
「人が生きるのに信仰がいるのかい?半端ものは人の生命力と神の力を受け継いだのさ。神の力で老いもしない。けど、人だから肉体はあるし腹も減る」
 ふああ、と大きな欠伸をして少年は目を閉じてしまった。
「ついでに眠気も……」
 その後は明確な言葉にならず、むにゃむにゃと何事か呟いてあっという間に眠ってしまった。やれやれとあずさは頭を振って、押し入れから布団を出して敷いてやる。一人部屋だったが、そこそこの広さはあるので二人でも眠れるだろう。二人と数えていいのかは分からないが。
 抱きかかえると、実体の感触が確かに伝わる。体を動かすたびに、神であることを示すように、りん、りんと綺麗な音が響いた。
「レイ」
「……あ?」
「レイ、がいい。君の名前。正式な名前じゃなくて、愛称だけど」
 動くたびになる鈴のような音。ころころした笑い声や幼くて小さな姿。布団の中できゅっと丸まった少年は眠気でとろんとした顔であずさの袖を握った。
「零か。俺には似合いな名前かもな」
 そういうつもりで付けたのではないのだけれど、という前に、すやすやと安らかな寝息が聞こえてきた。あずさは肩をすくめて布団をかぶる。小さな体を抱きしめるようにすると、郷里に残してきた弟を思い出すようだった。



 レイはどうやらついてくるらしい。旅支度を整えているとのそのそと起きだしてきた幼い少年は、置いていくのかとか細い声で問うた。好きにすればいいと返すと、浄衣の汚れを祓って靴を履き、しっかとあずさの袖を掴んでくる。
「まあ、厄払いくらいなら俺にだってできるからな。あずさの仕事の手伝いくらいはできるぞ」
「一人でやらなきゃ修行にならないんだけどなぁ」
 街道は朝から人でごった返していた。レイがこの中に紛れてしまえば見つけ出すのは困難だろうと手を差し出すと、数秒の躊躇いのあとに小さな手が乗せられる。それを掴んで歩き出した。
 今日は街道から少し離れたところで厄払いをするのが仕事だという。里長の屋敷に招かれて、説明を受けている間、レイは縁側で足をバタバタさせていた。当然ながらその姿はあずさ以外には見えない。女中が運んできた茶もあずさと里長の二人分だけで、まぁ当然かと視線を明後日にやる。
「すいません、茶をもう一杯持ってきていただけませんか」
「はぁ……?」
 何を言っているんだこいつは、とレイが呆れた顔を向けるもあずさは当然という顔で茶と菓子を持ってくる。退屈しているレイの隣にそれを置いて、頭を一つ撫でた。
「まぁ暇だろうけど、もうちょっと待っててよ」
「あずさ、お前俺を子供かなんかと勘違いしてないか?俺これでも二百歳は超えてるんだが」
「でも、甘いもの嫌いじゃないでしょ?」
「そんなことは」
「さっき目で追ってたじゃない」
 それは茶の数を数えていただけで、とも言えずレイは黙った。満足そうにしてあずさは部屋に戻る。何事かと首を傾げる里長に、あずさは笑って何かを答えていたが、上手く聞こえなかった。生まれて初めて飲んだ煎茶は思っていたより苦くて舌がぴりっとする。慌てて菓子を口に含むと、米とは違った甘さが口の中に広がって、思わず顔が綻んだ。
「祟り、ですか」
「ええ。前の里長の娘が死んでから、次々と里の人間が死んでいまして。医者も原因が分からんと。ですので、梓巫女様に祓っていただきたく」
「分かりました」
 あずさは荷物をかき混ぜて、中から弓を取り出す。矢をつがえずに弦を鳴らす寄絃だ。
 荷物を置いて外に出る。その背中に追いつくと、あずさが一瞥をくれた。千早を纏った彼女はいつもより澄んで見える。
 里の入り口から中心部に向かって、ぱん、ぱんと乾いた音色は行進する。一度弦を鳴らすたびに浄化されていく空気に、レイはやはりな、と心中呟いた。
 あずさは大変に優れた巫女だ。でなければ、一度の鳴弦でこれだけの場が浄められるはずもない。なんせ、あずさはまだ十四で、これからまだまだ成長する。
 もしかすると、誰にも見ることができなかった自分の姿を見ることができたのも、あずさの力が優れていたからかもしれない。
 里の真ん中で五回目の寄絃を行った時に、不自然に空間が震えた。千早の袖を引いてやると、あずさはかすかに頷いた。
「いる」
 のそりと出てきた黒い影。自分の手助けなど不要だ。あの程度の悪霊、弓の一鳴であずさになら祓える。
 ――せっかく俺が見えるけれど、俺が近くにいちゃこの子の迷惑だ。
 ――あずさは、もっと高位の神に見初められて、幸せに暮らすんだ。
 ――だから、俺が憑こうなんて考えちゃいけない。
「終わったね」
「……」
「レイ?」
 軽く頷くことで答えの代わりにした。
 夜半にはあずさの元を離れようと、そう心に決めながら。



 布団からそっと這い出した。街道に出るとやはり人の子一人おらず、月が冴え冴えと夜空に輝いている。人の器を欲しがる妖怪どもが擦り寄ってくるのを祓いながら、足を一歩踏み出した。その行く先に見知った光を見て、目を側める。
「そこにいたのか」
「こんな愚息の為にご足労とは」
「もう現世には飽いたろう。帰って来い」
 半端ものの自分とはまったく違う、物々しい気を纏った父神は、一歩踏み出すごとにその身に肉を纏っていく。家を二つ縦に並べたほどあった背丈は、目の前に立つころには人間の青年ほどにまで縮んでいた。
「現世に行ったところで、お前の存在に気付くものなど、お前の器と力を狙う化け物ぐらいのものだろう」
「そうだな。そうだったよ。人間に俺は見えない。母さんにだって俺の姿は見えなかったもんな」
「……」
「なぁ、なんであんた俺を作ったんだ。いらないだろ、俺。力もなくて、神様としても人間としても中途半端だ。いらない神様なら、すぐに信仰が廃れて消えられた。いらない人間なら、すぐに見捨てられて死ねた。なのに、俺は死ねないし消えられない。どうすりゃいいんだ」
 いっそ、あの時、生まれたとき、母が自分の姿が見えぬと泣いたときに、そのまま見殺しにしてくれればよかったのに。言い捨てると、偉大なる父神は身を揺らした。
「俺は社には帰らない。社にいたって何にもならないからな。盆暮れ正月くらいには顔出すさ」
 返答も聞かず、父神に背を向けて駆けだした。それを追おうとして、しかし数歩で踏みとどまる。この二百年間ずっと息子が抱えてきた孤独と、それに気付かぬ己の不甲斐なさに、父神は静かに嘆息した。
そう長くも社を空けることはできない。帰るかと息子の進んだ方角とは逆に歩き出そうとする神の手を、しかし誰かがしかと握った。
「待ってください」
 人の身でありながら、高位の神に躊躇いなく触れるその度胸。振り返ると刺すようにも感じる眼光。まだ年若い少女が睨むように、自分より遥か高い神の視線を真っ向から受けた。
「貴方がレイの御父上ですか」
「……何用だ、人の子」
「私を――」
 その次に出された提案に、父神は息子そっくりの動作で目を丸め、やがてふっと浅く笑った。



 化け物払いの神として、ひそかに語り伝えられる存在がある。身寄りのない者が、夜中化け物にかどわかされそうになった時、鈴のような音が聞こえると、目の前の化け物が雲散霧消したという。名も知らず、実体を見たこともなく、神かどうかも疑わしい。だが、控えめで凛とした音といい、澄み切った空気といい、あれは神であったと、誰もが口を揃えた。神に関わる者たちは皆否定した。化け物を祓う神の中で、そのようなものなどいなかったと。社も、神憑きもいない神が存在し得るはずもないと。
 誰かが名もない神をこう呼び出した。鈴の音を伴うから鈴神様だ。社を持たぬ鈴神は、まるで梓巫女のように、気まぐれに現れ、人を救っては消えていく。
 そうして鈴神の噂が流れ、五年の歳月が過ぎた。



逢魔が時に子供を連れていこうとしていた化け物は、たったの一声で掻き消えた。鈴の音をたどらせて母の元まで連れていくと、母親は顔をぐしゃぐしゃにして子供を抱きしめる。
「じゃあな、もう母ちゃん泣かすんじゃねぇぞ」
 聞こえるはずもない声をかけて、そっと頭を撫でてやると、衣擦れとともにりん、という音がした。子供を抱きしめていた母親がばっと顔を上げる。りん、りんと足音を鳴らしながら、かつてレイと呼ばれていた少年は頭を掻き、ぶらりぶらりと歩みを進めた。
「ああ、鈴神様だわ……」
「よせやい。俺は神様なんかじゃねぇや」
 どうせ聞こえることもないのだけど。
 雑踏に紛れてしまえば、少年の密やかな足音はすぐにかき消される。子供の手を引く母親と、家に急ぐ男衆の背中を見送りながら、橙色の空を見上げる。浮かぶことのない影を踏みながら、鳥居の真ん中を当たり前のようにくぐって、五年ぶりの社を見上げる。
 盆暮れ正月には帰ってくると言ったが、存外にこの国は広かった。帰ろうと思うころには帰れる距離におらず、また来年と見送り続け結局五年ぶりに帰省する。
「人の真似事は楽しかったかい、坊」
「おう、久しぶりだな」
 同じ土地の違う社に祀られている、生まれた頃からの知り合いである女神は、くつくつと笑った。
「鈴神様なんてご立派な名前もらっちゃってさ。あたしゃすぐに分かったよ。坊のことだってね」
「俺は神様じゃねぇっつってんのにな」
「人の子に頼られる気分はどうだい?」
「さてねぇ」
 肩をすくめる少年に、女神は素直じゃないねぇと、開いた扇で口元を隠した。その後、扇を閉じて少年の顎に当て、くい、と上げてみせる。
「不思議なもんだろ。殆どの人の子はあたしらの姿が見えない。なのに、あたしが雨を降らせば、ちゃあんとあたしの仕業だって分かるんだ」
 少年の十倍は時を生きる、竜の尾を持つ女神は、その加護に見合わぬからりとした表情で歯を見せると、顎から扇を外して長い尾で少年の尻を叩いた。
「ほら、親父さんと仲直りしてきな。社の主が湿っぽいと周りも湿っぽくなっていけないよ」
「だからって叩くこたないだろ」
 女神はもう聞く耳を持たなかった。やれやれと頭を振って、りん、りんと音を従え、鎮守の森を歩く。
 目指すは父神が鎮座する社。なんとなく足が進まずゆっくりになってしまうのは許してほしい。五年ぶりだ。どんな顔をすればいいのだろう。
「あ、鈴の音……」
 十四、五くらいだろうか。小袖を着た娘がこちらを振り返った。手を繋いでいるのは弟の様だった。参拝帰りだろうか。手水を済ませたので纏う空気は清らかで、ほのかにたなびくのは父神の加護だ。
「姉ちゃん、鈴神様かもよ」
「あはは、まさか」
 落ち葉を踏み鳴らして帰路を行く背中を見送って、なんとなく早く誰かに会いたくなった。
 あの娘の目が、自分を捉えてくれるかもしれないと一瞬でも思った自分に、やれやれと苦く口を緩めた。あずさは今頃誰かの神憑きだろう。あれだけの力を持っていれば、父神か、それ以上の高位に見止められてもおかしくない。
 りん、と鈴の音がした。己は身じろぎ一つしていないにも関わらず、聞こえた音に振り返った。
「レイ」
 懐かしい声が耳朶を打った。
「あずさ?」
「久しぶりね」
 なんでここに、などと問うまでもない。身に纏っているのはあの時のような装束ではなく、この社で飽きるほど見た、父神に仕える者の正装束だ。
「あの時急にいなくなっちゃうから、吃驚したのよ」
「ごめん」
「もういいわ」
「親父に憑かれたのか?」
 いきなり核心に切り込むと、あずさはゆるゆると首を振った。
「じゃあ龍神の姐さんか?」
 これにも首を振る。
「ええと、雷神のおっさんか。それとも、豊穣のお嬢」
「全員外れ」
 あずさはゆるりと笑って、その衣が汚れるのも厭わず、その場に跪いた。少年の爪先にそっと額を付ける。
「私、君に憑かれに来たの」
 この五年間、ずっと君だけを待っていたの。羽のように軽く、優しい声音であずさは言った。
「正気かい?」
「ええ。私が君に信仰をあげる。私が君を見えるように、神様にしてあげる」
「こんな名もない半端ものより、親父の方がよっぽどあんたの為だろう」
「でも私は君が良い」
 間髪入れずに返された言葉に、レイは戸惑って視線を巡らせた。
「……人が憑かれる神を選ぶってのかい?」
 何とか憎まれ口と共に手を差し出した。その様子に、ふふ、とあずさは笑う。身を起こして手につかまり、膝立ちの体勢になる。
「私ね、この目が嫌いだったの」
 そっと射干玉の目に掌を当ててあずさは唐突に語り始めた。
「だっていろんなものが見えるんだもの。親にも弟にも気味悪がられて、自分の人生も決まっちゃった。そんなに見えるならもう神に憑かれるしかないよって。全部恨んだわ。この目さえ、この力さえなければって。だって神憑きって、神様の消耗品みたいなものじゃない。適当な加護を与えられて、一生縛られちゃうのよ」
でもね、と言葉を継ぐ。
「君を映せた、この目が、今はとっても愛しいの」
 一人ぼっちの可哀想な少年。人の信仰はいらず、だが神ゆえに老いず、それゆえに彼は孤独だった。神としても未熟、人としては出来過ぎている中途半端な子供。
 中空に投げ出された掌を、自分は掴んだ。
 その時、初めて自分を、替えの効く消耗品でもない、自分だと認識できたのだ。
――ああ、きっと私、この子を見つけるために、この目を与えてもらったんだ。この子に救いをあげよう。私の力なら、私がこの子に憑かれたなら、この子の神の力を高めて、姿を周りに見せてあげられる。この子を孤独から救ってあげられるのは私しかいない。
あずさの告白を聞いて、レイは呆れたように表情を崩した。
「人間ってのは勝手だな」
「神様ほどじゃないでしょう?」
「じゃあ両方の俺はめちゃくちゃ勝手だな」
「ええ。自己完結してどっかに行っちゃうくらい」
 膝立ちのあずさの目線は、ちょうどレイと同じ高さだ。頭を垂れて仕えるべき神に敬意を示す。
「ねぇ、中途半端な神様。人が神を救ったっていいじゃない?」
 レイは柔らかく目元をほころばせる。
「後悔しても知らんからな」
「あら、五年間考えて出した結論なのに?」
「まさかずっと待ってたのか?」
「君、盆暮れ正月には帰ってくるって言ったのにね」
 小首をかしげて笑うあずさに、諦めたように両手を上げた。降参だ。
 髪を持ち上げ、露わになった首筋に、レイの掌を滑らせる。
「神(かみ)憑(つ)いてちょうだい」
 その首筋にそっと顔を寄せ、がり、とレイは歯を突き立てた。じわりと広がる血の味を嘗めて、代わりに自分の力を注いでいく。人の子の一生の信仰と引き換えに、自分の加護を。厄除けの加護を。
 最後まで注ぎ切ると、ゆっくりと身を起こした。吹き抜ける風が髪を揺らす。父神に仕える巫女が高い声を上げた。誰かがいると、あれは神だと。あいも変わらず普通の者には映らぬ姿だが、それでも、もうこの姿を映す瞳は一対のみではない。
 ゆるりと顔を上げた少女は、首筋の血を一拭いして、仕えるべき主を瞳に映した。
「私の名前ね、光って言うのよ」
「あずさじゃなくていいのかい?」
「もう梓巫女じゃないもの。それより神様、貴方の名前を教えてくれる?」
 にっこりと笑う光に、自分に一生の信仰をくれる人の子に、少年は生まれて初めて、自らを神と称しこう名乗る。
「魔を祓うことを加護としている、鈴神だ」


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