あの子は人形を卒業する


※この小説にはLGBTに関わる描写があります。
所謂腐向けを意図してはいませんが、ご留意ください。

人間は、最初は皆女の子なのだそうだ。お母さんのお腹の中で、女の子だったものに色々な何かが加わって、男の子になるらしい。
なら、逆も然りなのだろう。
その話を、大婆様から聞いたのは、小学校に入る前の、春の頃だったと思う。その時、おれが思い出したのは、幼稚園でけいくんが自慢していたロボットのプラモデルだった。武器屋パーツの付け替えで、勇ましい戦士になったり、シャープな狙撃手になったりするかっこいいやつだ。
小学校に入る前に、おれの体から男の子のパーツが取り外された。ズボンのパーツからスカートのパーツへ、短い髪のパーツは、時間をかけて長い髪のパーツへ。最後に「おれ」のパーツも取り外された。 姿見の前で、赤いドレスを体に押し当てるぼくは、どう見ても女の子だ。ただ、肉付きの悪い平らな胸が、自分が「おれ」であったことを示す唯一のパーツとなっている。それすら、もうすぐ付け替えられてしまうらしい。
「そろそろ御時間ですよ」
「はい」 最後に、鏡の中の自分に一瞥を投げた。「おれ」にも「わたし」にもなれない自分と、一瞬だけ交わった視線は、すぐに嫌そうに背けられた。



人生は偶然の連続だという。沢山の偶然から生まれ落ち、偶然誰かと出会って、偶然何かにのめり込み、ある日偶然にもぽっくり逝ってしまう。時々、人はそれを必然だと言ったり、あるいは運命だなんて詩的な言葉で表現したりする。なら、これも偶然などではなく、運命と形容したほうが洒落ているだろうか。菟上葵は回らない頭でそう思った。
サークルの飲み会が金曜日ということで長引き、乗り換えに失敗して終電を逃した。頼みの綱だったネットカフェはただいま改装工事中。笑えないくらいに不運が重なる。ふらつく足で何とか辿り着いた児童公園は、昼間の騒がしさが嘘のようにシンとしていた。今が春先や冬でなくて夏の終わりなのは不幸中の幸いだろう。万が一ここで意識を失っても凍死をすることはない。熱中症で死ぬかもしれないが。
始発が動くまで後五時間はある。
「ここで寝るか……」
 思わず口に出した。
「それはお勧めできないなぁ。ここ結構刺す虫が多いよ」
「ゲッ、マジかよ」
「折角目の前にホテルがあるんだから泊まっていけばいいじゃん」
「ばっかお前あんな高級ホテル泊まれるかよ。どっか二十四時間営業の飲み屋でも探して時間潰すか」
充電が半分を切ったスマートフォンをフリックした。そしてはたと気づく。自分は今誰と話しているんだ。鈍い反応で隣を見ると、頭一つ分低い少女が興味深そうに葵を覗き込んでいる。
「お前、誰だ」
「今更?」
至極もっともな反応を返して、少女はぷっと吹き出した。スニーカーに赤いパーカー、ジーンズというカジュアルな出で立ちに手ぶらなところを見ると、家出少女というわけでもなさそうだ。向こうから話しかけてきたんだから犯罪じゃないよな、と思わず確認する葵の隣で、ひとしきり笑った少女は目尻を拭いながら葵の背中を叩く。
「いやぁお兄さんって面白いね。いや、酔っぱらいが面白いのかな」
「俺は見世物じゃねぇぞ。ていうかお前誰だ」
歳は十代の中ごろほどだろう。そろそろ日付をまたぐこの時間に一人でふらつくのは流石に感心できない。顔に出ていたのか、少女は慌てて手を振った。
「通報とかは勘弁してよ?別に家出ってわけじゃない。そこのホテルの宿泊客だよ。外の空気吸いにベランダに出たら、なんか面白そうな人が見えたから降りて来ちゃった」
「面白そうな人って俺のことか」
「だって、酷い顔で入ってきて寝ようとするし、会話が続いてるのに気付かないし」
それに関しては全く否定できない。葵は額に手を当てた。
「で、面白い人が見れて満足だっただろ。さっさと部屋に戻って寝な」
「やだよ。折角面白い人に会えたんだからもっと楽しまないと」
「俺で楽しむ気か、お前」
じっとりとした目を向けると、少女は照れたように笑った。
「大金持ちのお嬢様が、酔っ払いの男見かけて面白そうだからしばらく付き合うとか、お前危機感とかないのか?」
「大金持ちのお嬢様か。間違ってないよ。どうして分かったのさ」
「向かいのホテル、一泊でも万札が五枚は飛ぶだろうが」
「へー、そんなにするんだ」
少女はあっけらかんと言い放った。絶句する葵を置いて、彼女は小さくううん、と唸る。
「危機感、ないわけじゃないよ。多分今ここで君が襲ってきても、携帯のブザー鳴らせば五分もしないうちに色んな人が集まってくるし」
「ぞっとするな」
「まぁ、わざわざ忠告してくれるお兄さんだし、そんなに悪い人じゃないんでしょ?毎日毎日退屈なんだよ。たまには気分転換くらいさせてくれたっていいじゃん。大丈夫だって、お兄さんが疑われたりは絶対にしないから」
そう言ってにぱっと笑う。素面の少女と酔っ払いの葵。会話もだんだん面倒くさくなってきた葵が、数秒の逡巡の後提示した条件は何とも情けないものだった。
「会計は自分持ちな」
「やった!」
そう笑う少女はいそいそとポケットから薄い財布を取り出した。おいおい大丈夫かと覗き込むと、万札と黒いカードしか見えなくてそっと視線を逸らす。
「そういえば、お前名前は?」
「ボク?」
少女は一瞬迷って、それから朗らかに名前を告げた。
「ミコト。尊いと書いて尊と言います。お兄さんは?」
「ウナガミアオイだ。アオイは源氏の奥さんの葵」
「そうやって紹介する人初めて見たよ」
「女みたいだって言われまくったからな。自虐に走ることにした」
「そう?ボクは良いと思うけどな。その名前」
立ち上がって埃を払った尊が葵に手を差し出す。「普通逆じゃないか?」「まぁ気にせずに」意外と大きな手だった。指はほっそりとして、体つきも華奢だ。切れかけの常夜灯に照らされる顔は、それなりに整っている。
普通に生きている限りなら、きっと出会うことはなかっただろう。これは神の思召しか、あるいはただの偶然か。焦れたように手を引く尊に、はいはいと生返事をしながら、葵はふらつく一歩を踏み出した。



我ながらあほなことをしたのだろうと、徹夜明けの痛む頭を押さえながら思った。未成年に酒を飲ませるわけにはいかなかったので、ソフトドリンクだけでの健全な飲み会となった。五軒梯子したあたりで日が昇って始発が動いていることに気付いた。何を考えているのか、尊は駅まで送るとのたまったが、それをデコピンで制して逆にホテルまで送り届けた。これでお開きだ。
「じゃあね、葵さん。楽しかった」
「おう、これでしばらくは大人しくしとけよな」
「やーなこった」
なんとなく気付いてはいたが、尊は口が達者だった。生意気と言うより、頭がいいのだろう。もしかしたら、女子は葵が思うよりずっと人付き合いに慣れた生き物なのかもしれない。
そんなことをしたのが三日前。ふとした弾みでそんなことがあったと零すと、大体の人が「ドラマかなんかみたいだね」と返す。それでなんとなく、どうして自分が尊の誘いに乗ってしまったのか、葵は納得がいったような気がした。尊は非日常の雰囲気を纏っていた。彼女が毎日退屈だといったように、葵自身、どこか自分の日常に飽いていたのかもしれない。そして、葵にとって尊がそうだったように、尊にとって葵が非日常の入り口だったのだ。
今日もきっと、尊はどこかの高級ホテルかどこかの豪邸で退屈に明かしながら彼女なりの日常を謳歌しているのだろう。
もう会うことはないだろう。不思議な寂しさを得ながらそう葵は思ったが、しかし再会は意外と早くに訪れた。
「やっ、葵さん」
「……なんでここにいるんだ、お前」
朗らかな顔で片手をシュタッと上げた少女の顔に、見覚えしかなかった葵は額に手を当てる。それもそのはず、ここは大学の構内だ。そして時間は二限が終わり、昼休みが始まった頃。ここの大学に在籍するものか、学食目当ての観光客以外の人間はいないであろう時間帯。
至極もっともな疑問に尊はあっさりと答える。
「付き添い」
「誰の」
「父の友達、かな」
なぜ父親の友達に同伴するのか、など疑問は尽きなかったが、ちょっと困ったように返した尊にそれは飲み込んだ。微妙な沈黙の中、なぜかこの少女を放って自分の生活に戻るという選択肢を見出せない葵は、手持無沙汰に立ち尽くす。ふわり。尊の白いワンピースが揺れた。
「あ」
呆けた声を尊が出した。視線の先にはスーツ姿の壮年の男がいる。男はしっかりとした足取りで尊のほうまで歩いてくると、葵を一瞥してから尊を見つめた。
「すまないね、尊。もう少しかかりそうだ」
「ううん、別に気にしてないよ。お仕事大変そうだね」
「あぁ。全く、皆頭が固くていけない。昼食の時間もとれそうにないんだ」
「大丈夫?ボクのことは気にしなくていいから、ちゃんとご飯は食べてね」
「本当にすまない」
「気にしないでよ。カメタニさんが悪いわけじゃないもん。夜に時間とってくれればいいから、さ」
「あぁ」
カメタニとかいう男は、尊の頭を一度大切そうに撫でた。それを享受してから、尊は小さく、上品に笑う。
「ところで、そちらの方は?」
「友達だよ」
「尊に友達がいたのか」
「失礼だな。ボクにだって友達くらいいるさ」
「はは、そうだな」
カメタニは葵に向き直る。一目で高級なものだとわかる鼈甲フレームの眼鏡越しに、鋭い視線が葵に刺さった。
「尊と仲良くしてくれてありがとう」
「……どうも」
「それではね。終わったら電話をするよ」
「うん、待ってるね」
踵を返して早歩きで去っていくカメタニを見送ってから、尊は小さくため息をついた。
「暇になっちゃったなぁ。そうだ、葵さんは時間あるの?」
「三限空いてるから、あるにはあるけど、また暇つぶし相手にする気か、お前」
「ボク学食行ってみたいんだよねぇ」
「聞けよ」
突然、尊が嬉しそうに笑う。ケタケタという笑い声は、カメタニに微笑んだのと同一人物とは思えないほど軽やかなものだ。
「いいなぁ。葵さんやっぱり面白いや」
「俺からしたらお前が相当変なんだけどな」
「ね、あの噂本当なの?北に行けば行くほど学食のランクが上がるってやつ」
「お前本当に人の話聞かねぇよなぁ……本当なんじゃねぇの?俺最北の学食行ったことないけど」
「じゃあ行こうよ。昼飯まだでしょ?あ、それとも弁当?」
「いや、学食」
「やった、じゃあ決まり」
何がそんなに嬉しいのか、尊はずっとにこにこと笑っている。早く早くと急かすようにその場で足踏みをする。まぁ仕方がないか。乗りかかった船というやつだ。葵は深く溜息をつくと、尊の背中を叩いて歩き出した。



昼休みのみならず、三限も丸々尊に付き合わされた葵は、四限終了時点で疲労困憊だった。人間台風のようなテンションの尊に、別れた後の英語のダブルパンチである。自主休講というカードを切りたかったが、五限は残念ながらゼミだった。死にかけた頭が強制シャットダウンしそうになる。いっそのこと一度再起動もありか。ちらりと腕時計を確認すると、五限開始の三分前を指している。
しかし、運はそうそう葵に味方しなかった。いつもは遅れて来るはずの教授が意気揚々と教室に入ってくる。頭を抱えた。
「菟上くん、眠そうだね」
「そういう教授は元気ですね……」
「いやぁ、ようやく研究の出資元が決まってね」
ほくほくとしている教授を見て、葵の脳裏に一人の男が浮かぶ。
「もしかして、カメタニさんとかいう方ですか?」
「いや、亀谷さんは代表だよ。出資をしてくれるのは久万野コンツェルン」
「久万野ですか!?」
話を聞いていたらしいゼミ仲間が大声を出した。心底驚いたという顔をしている。それを見て教授は得意そうな顔をしているが、葵は軽く首を傾げた。
「クマノ?」
「あぁ、久万野と言えば通じにくいか。家電のパナエレクトロニクスとか、銀行の東西証券とかの親会社だよ」
「えっ」
その名前は、流石に葵も知っていた。だとすると、あのカメタニという男は相当な偉いさんでお金持ちだ。そんな男の近くにいる尊とはいったい何者なのか。ひょっとしたら相当の御令嬢では、といたって庶民的な葵は表情がひきつるのを感じた。
「あ、あの、教授。カメタニさんの近くに、これくらいの女の子いませんでしたか」
「あぁ、あの子か。あの子は久万野尊さん。久万野コンツェルン総裁の娘さんだよ。今日は社会勉強にと、亀谷さんがお連れになったんだ」
いやぁ、なかなか可愛らしいお嬢さんだった。上機嫌で教授はそう付け加える。お金持ちだろうとは想定していたが、いざ肩書を聞くとリアリティが違う。とんでもない少女と知り合ってしまったと内心冷や汗をかく葵を置いて、教授が、「そろそろ時間だな」と教科書を開いた。眠気も疲れもまとめて吹っ飛んでしまったが、こんな吹き飛び方は予想外だったな。わずかに震える手で教科書を捲りながら、葵ははたと気が付いた。
尊は、本当にカメタニの単なる付き添いだったのだろうか。 あのカメタニの刺すような視線は、一体なんだったんだろうか。
じっとりと口の中に広がる嫌な感じに、きっと気のせいだと言い聞かせる。尊はカメタニを『父の友人』だといった。友人の娘をかわいがって何が悪いというのだ。
「あぁ、そういえば葵くんは尊さんの友人なのかい?」
ゼミ終了後、教授がそう問いかけてきたので、葵は一瞬言葉に詰まる。
「えぇ、そうですが」
どこから聞いた、と言外に含ませたのを、上手くくみ取ったのか、教授が小さく頷いた。
「亀谷さんが、尊さんにここの大学の友人がいるようだと聞かれてね。
そうか、葵くんだったのか」
「はい」
「実はね。毎週この曜日に、亀谷さんが話し合いに来るそうなんだ。
尊さんも連れてくるだろうから」
「カメタニさんが?」
「あぁ、いや、これは僕の個人的なお願いだよ。話し合いが長引くことが多いだろうに、尊さんを一人で放置するのは少し心が痛くてね」 教授が少し顔を顰めたのを見て、『皆頭が固くていけない』と言ったカメタニを思い出した。
「別に構いませんが、一つお願いがあって」
「何だい?あぁ、授業態度の点数加算はできないよ」
「いえ、そうじゃなくて」
単なる勘違いなら、それでいいのだ。それでも、葵はカメタニのあの視線が引っかかっていた。見当違いの悋気を向けられてはたまらない。
「俺の名前は、カメタニさんに伝えないでいてくれますか」
「構わないが、どうして?」
「あんまり、他人に名前とか知られるの好きじゃなくて」
とっさについた嘘だったが、年配の教授はうんうんと頷いた。
「最近は名前一つでいろいろ特定できる時代だからねぇ。特に菟上なんて苗字は早々あるもんじゃなし。構わないよ。僕が上手くごまかしておくから」
「有難うございます」
単なる酔っ払いと暇人の邂逅がえらいことになってしまった。けれど、それを面倒だと思わないのは、なんだかんだで、葵も尊を気に入っているからなのか。



大学生になってから、時間の流れが速くなったように思える。一週間前に尊と会った建物の前に、はたして尊はそこにいた。シフォン生地のスカートにブラウスという出で立ちは、御令嬢にふさわしいとは思うが、最初にスポーティーな格好を見ているせいか、少しだけ落ち着かない心地になる。そういえば、前も少女然としたワンピース姿だった。
「尊」
声をかけると、俯いていた尊は勢いよく顔を上げた。片手を上げる葵に、大きく目を見開いて驚く顔は、初めて見るもので、達成感のような、満足感のような不思議な心地になる。
「え、なんで」
「いや、ひょっとしたらと思って」
目に見えて戸惑っている尊の姿に、不安感が生まれた。ひょっとしたら何か取り込み中だったのかもしれない。カメタニあたりに、関わるなと釘を刺されたのかもしれない。テンプレートなお金持ち像しかない葵の妄想はだいぶ飛躍した。
「迷惑だったか?」
恐る恐る問いかけると、尊はぶんぶんと音が鳴りそうな勢いで首を振った。
「ううん。会えて嬉しいよ、葵さん」 満面の笑顔だ。
「へへ、初めて名前呼んでくれたね」
その次に照れたように言われて、葵は思わず「ああ」と生返事をした。そういえば、尊は世間一般的に美少女と評される部類の人間だ。平凡な感性を持つ葵は、ごく普通の反応として顔を赤らめる。これで喜ばない男がいたらそいつは俗世の煩悩から解き放たれているに違いない。
「今日も、カメタニさんは忙しいのか?」
「あー、うん。ちょっとお昼は無理っぽいって。ね、今日は一番南の食堂に行ってみたいな。本当においしくないのか検証したい」
「最南端っつうと医学部か。遠いぞ」
「ボクもいろいろ勉強したんだよ。構内移動って自転車らしいね。公道じゃないなら二ケツもありだと思わない?」
「それは乗せろということか」
「うん」
にこやかに言い切る。美少女を後ろに乗せて大学構内を走れと言うのか、このお嬢様は。思わず頭を抱えたくなった。そんなことをしたら、後で何を言われるのか分からない。
「せめて公道にしてくれ。大学構内二ケツは俺が死ぬ」
「えー、違法だよ?」
「それでもだ……!」
唇を尖らせる尊に、半ば懇願するように葵は言った。このままだと葵の社会的生命のピンチだ。にやにや顔で追及されるのはごめんだし、非リアのやっかみも勘弁願いたい。
「まぁいいよ。それもスリルあるだろうし」
尊の単純さにこれほど感謝したことはない。
自転車を引いて通用門から外に出ると、むわっとした熱気や排気ガスの臭いが押し寄せる。金具に上手く足を引っかけた尊が、葵の肩を強くつかんだ。そのまま走り出すと、尊ははしゃいだ笑い声を上げる。
「お前って人生楽しそうだよなぁ」
「んー?そうでもないよ。葵さんといると楽しいだけ」
「そうかい」
「だっていろんな初めてがあるんだもん。ボクと二ケツしようって言って頷いてくれる人はめったにいないよ」
「それは──」
お前がクマノのお嬢様だからだろうよ。言いかけて口をつぐんだ。尊は一度も自分がクマノだと名乗っていないし、御令嬢だというのも遠まわしに肯定しただけに過ぎない。尊が葵に求めているのは、自分をクマノの御令嬢として扱わない暇潰し相手としての立ち回りだ。
尊が葵といて楽しいと言うのは、葵が尊を御令嬢として扱わないからだ。
「葵さん?」
「そりゃそうだろうよ!お前、自分の顔面スペック考えて物言えよな」
「えっへへ!お褒めいただきどうも!」
これでいい。照れたのか、肩を掴む手の力が少しだけ強くなった。



次の週、尊は花柄のフレアスカートを穿いていた。ひょっとしたら、パーカーにジーンズでうろついている方がレアなのかもしれない。 本日の御希望は北と南の中間地点。尊は珍しいと興奮して選んだから揚げラーメンを微妙な顔をして啜っている。
「どうだ?」
「別々に食べたほうが美味しい……」
「だろうな」
ふやけたから揚げの衣を箸でぶすぶすと突き刺す尊は、それでもがんばって食べ進めている。自力で完食しようとする姿勢は好ましいものだ。
「そういえば、お前スカート姿が多いよな。最初に会ったときはパーカーにジーパンだったけど」
「あぁ、カメタニさんの趣味だよ」
何でもないように言い放った尊に、葵の箸が止まる。
「隣に立つ人の趣味に合わせて服を着るのは当然のことでしょ?」
「……そんなもんか?」
「少なくとも、ボクにとってはそうだよ」
本当にそうだろうか。再び箸を動かしながら、葵はぼんやりと考える。それじゃ、まるで。
「御馳走様でした!いやぁ、うん、個性的な味だった」
「普通に不味かったって言っていいんだぞ……」
「この味が好きな人だっているんだろうし、うん、それは申し訳ないかな」
変なところで律儀なやつだ。やれやれとこちらも手を合わせてごちそうさまをする。
「あれ、葵じゃん」
「ん?あぁ、三城か。どうしたよ」
「いや、席空いてなくて。相席いい?」
尊に視線をやると、構わないというように首を縦に振られた。
「お知り合い?」
「あぁ、こいつの腐れ縁のミキミヤコです。三つの城に宮廷の子供で三城宮子。しっかし、可愛い子連れてんね、お前」
このこの、と肘で突かれる。お前はおばさんか。ツッコミたい衝動をぐっとこらえる。尊はこらえきれないと言わんばかりに両手を叩いての大笑いだ。居た堪れない。
「ボクはミコトと言います。ね、宮子さんは」
興味津々といった様子の尊を止めたのは、テーブルの上で振動するスマートフォンだった。ごめんね、と一言断って、尊が画面を見る。
少しだけ顔を顰めて電話を取った。相手はカメタニのようだった。
「あー、ごめん。行かなきゃ」
「ありゃ、残念。ミコトちゃんともっとお話したかったなぁ」
「何が『したかったなぁ』だ。全く」
「ふふ、ボクも宮子さんとお話したかったよ」
トレイを取り上げた尊に、葵が立ち上がる。それを尊は軽く制した。
「いいよ。葵さんは宮子さんとお話してて」
「いや……」
「ごちそうさま。また来週ね」
そう手を振った尊は駆け足で食堂を出ていく。ただ見送った葵に、宮子はあーあ、と残念そうに声を漏らした。
「せぇっかく可愛い女の子に会えたのに」
「……なぁ、三城」
「ん?何?」
「お前さ、服選ぶときに、何考えて選んでる?」
「えぇ、何さ藪から棒に。そうだなぁ。その日の気分かな」
唐突に聞かれたにも関わらず、ちゃんと考えて宮子は答える。こういうところは素直に好感が持てるのに、どうして他の性格は残念なんだろう。いや、今考えるべきはそれではないだろう。
「隣に立つ人のことを意識して選んだりは?」
「そりゃあんた、デートとかそういう時は考えるよ?彼氏が好きなタイプの服は、とか色は、とか。……ちょっと、何その目」
「お前の口から彼氏とか出て来るとは思わなかった。けど参考になった。ありがとな」
トレイを持ち上げた。レシートをくしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込む。
「いえいえ。今度尊ちゃんに会わせてくれたら不問にしてあげる」
「はいはい」
返却棚に食器を置いて食堂を出た。時計を見ると、まだ昼休みすら終わっていなかった。尊といると三限はあっという間に潰れるのにと思って、思わず苦笑する。随分毒されてしまったものだ。図書館にでも行くか、と鞄を持ち直す。一人で過ごす一時間半は、きっととても長いのだろうけど。
図書館に行くまでに、尊がいつもいる建物を通るルートをなんとなく選んだ。それが間違いだったのかもしれない。
乱立する建物に、隠れるようにして二人分の影が重なっていた。先ほど見送ったばかりの花柄のスカートが、高級ブランドのスーツの後ろからはためいていた。その光景は、自転車で通り過ぎる一瞬で網膜に焼き付いた。誰と誰が何をしているのか。そんなの、自問するまでもない。
分かりきっていたことだった。



次の週、尊は薄桃ワンピースを着ていた。
「今日はどこに行くんだ」
「そうだねぇ、どこかで静かにお話できるところがいい」
そんなリクエストに答えて、ピークを過ぎた頃に、大学のカフェレストランに入った。今日も尊は楽しそうで、けれど葵の頭は半分も会話を受け付けていなかった。尊が求める葵像にこたえきれていないのは百も承知だった。
日替わりのパスタランチの半分も片付けるころには、会話はめっきり減っていた。
「葵さん、さ」
初めて聞く、元気じゃない尊の声だった。小さく、低く落とした声。
「幻滅した?」
何が、とは聞かなかった。
「見えたのか」
「ううん。けど、そこまで態度に出されちゃわかるよ。見てたんでしょ?」
何を、とは言わない。視線を皿に落とすと、尊が力なく笑ったのが気配で分かった。
「別に、俺は歳の差なんて気にしないぞ。尊が幸せならそれでいい。けど、違うんだろ」
「ううん、どうなんだろうね。カメタニさんは優しいし、イトイさんは面白いし、イマダさんはかっこいいし、モトジマさんは上手いけど」 聞いたことの名前を指折り数えて、尊は困ったように笑って、それから言った。
「葵さんが、一番楽しいかな」
「それ、この流れで言うか?」
「へへ」
困ったように、尊は笑った。気付いたようにフォークを口元にもっていく。ぎゅっと拳を握った。
「なら、俺にしとくか?」 手には汗が浮かんでいた。いたって真剣な申し出のつもりだった。尊は、驚いたように目を丸めて、一度唇をひくりと動かした。チークで薄桃に色付いていた頬がさらに赤くなった。
「……ごめんね、葵さんは、駄目なんだ」
数秒の沈黙の後、出たのは肯定の言葉ではなかった。
「だろうと思った」
何でもない様子を繕って葵はそう言う。
「会計は俺がやっとくから」
伝票を持って立ち上がると、初めて会った時を思い出した。会計は自分持ちだと言ったっけか。あの時とは全く違う状況で、でもあの時よりは自分はかっこわるい気がした。



次の週、建物の前に立っていたのは、尊ではなくカメタニだった。どうも、と会釈をして通り過ぎようとするのを、低い声で呼び止められる。
「尊なら来ていないぞ」
「見れば分かります」
少し棘のある口調になった。益々自分がかっこわるく思えた。
「よければ、尊の代わりに食事でもどうだ。勿論奢る」
「忙しいんじゃなかったんですか」
「今日で話し合いも最終日でね。早く片が付いた」
「何が目的なんですか」
「尊が初めて友達だと言った君と話がしたくてね」
「悋気なら結構です」
「随分古い言葉を知っている」
葵より人生経験が豊かな老人は、葵のどす黒い思いの詰まった言葉を涼しい顔で受け流す。
「悋気ということは、君は私と尊の関係を知っているんだね」
墓穴を掘った、と思った。ぐっと言葉に詰まる葵に、カメタニは目を細めた。
連行されるような気持ちで連れていかれたのは、構内にある高級フレンチだった。初めて入るそこは落ち着いた空気で、料理も超一級品ばかりなのに、全くおいしいとは感じない。
「別に、心配しなくても尊と貴方の関係を咎める気はありませんよ」
デザートを口に運びながらそういうと、カメタニはふむ、と顎を擦る。
「君は、何か一つ勘違いをしている。私は、尊が別に私以外の人間と関係を持っていても腹は立てないさ」
「なら、最初に会ったとき睨んだのはどうしてですか」
「目つきが悪いのはもともとでね」
そう言って、カメタニは苦笑した。初めて彼の人間らしい表情を見て、葵は一瞬あっけにとられる。
「君は、尊のことが好きなのかい」
「……嫌いな人間に、あれだけ振り回される男はいませんよ」
「そうか。実は尊に、君に熱烈な告白を受けたと言われてな」
「ぶっ」
思わずお冷を吹き出した。あの馬鹿、何をわざわざ報告してるんだ。
分かり易く動揺する葵に、カメタニは声を上げて笑った。
「尊は、『君は駄目だ』と言っただろう」
「えぇ、まぁ」
一瞬、カメタニは悩むように目を泳がせた。それから意を決したように葵を見据える。
「君は、尊が何であっても好きでいてくれるかい?」
「それはどういう意味でしょう」
「私はね、尊の叔父なんだよ」
「はぁ。でも、確か尊は『父の友人』だと」
「それは、尊と直接血が繋がっていないからさ」
直接血が繋がっていないのに、叔父。その言葉から葵が想定できる可能性は、二つだった。
「養子ですか?再婚ですか?」
「後者だな。もっと言えば、私は久万野社長の正妻の兄だ」
「ということは、尊は妾腹というわけですか」
「察しが良いね。半分正解と言ったところか。小説が好きなのかい?」
「人並みには」
あぁ、どこの現代小説かライトノベルなのか。尊という存在は常に葵の想像を超えていく。笑い出したかった。
「社長の名前は大和という。長男の名前はタケルだ」
「安直なネーミングですね」
「最初は尊がタケルだったんだよ」
「……は?」
「尊いと書いてタケルと読むはずだったんだ。さて、最初の質問に戻ろう。君は、尊が何であっても好きでいてくれるかい?愛してくれるかい?」
カメタニの眼鏡越しの視線は、あの時と同じ、鋭いもので、そして何よりも慈愛に満ちていた。



深夜。終電も終わる時間帯。高級ホテルの一室で、尊はシャワーを浴びていた。
反吐が出そうだった。切り落とされた男の象徴だったり、じんじんと痛む腰だったり、そして薄い胸だったり、その全てがカンに触った。 自分はいったい何者なのだろう、と思う。
尊は最初はタケルだった。母親と父親は恋愛結婚。周囲の反対を振り切って正妻の位置に収まった。それも今となっては忌まわしき過去となるのだが。 母親は器量よしだったが、それ以上に浮気性だった。それに業を煮やした父親が子会社の社長令嬢を誑し込んで妊娠させたのが十六年前。帝王切開までして予定日を早めて、尊の兄は尊より数十秒先に生まれた。尊は自然分娩で次男に収まった。正妻の次男と、妾腹の長男。尊の母親と父親は結局離婚。大量の相続問題と共に、尊は一人残された。 次男で問題になるのなら、長女にすればいいと囁いたのは誰だったか。
孕むことのない体、愛情が欲しいと叫ぶ心、弱みを握ることができる性的交渉。利害は完全に一致していた。はずだ。
「あーあ」
今まで、好きになるのは皆女の子だった。それが自分の心を支えていたのだ。けれど愛をくれるのは男の人だった。男の人から愛をもらって、女の子に与えていた。友達と言える人はできなかった。こんな気持ち悪くて、汚れている自分を近づけたくなくて、人と距離をとっていたから。
それなのに。
一挙手一投足に馬鹿みたいに心臓を跳ねさせて、わざわざ自分から触れにいって。疑念が確信に変わったのは、葵の隣に宮子がいることに、情けなく嫉妬したとき。女の子に嫉妬なんて初めてだった。
胸の手術は一週間後。男に恋をしてしまった『ボク』は、一体何になってしまうんだろう。女の子にもなれない癖に。
やめよう、とシャワーを切った。髪を拭きながら出てくると、ベッドサイドには手紙が残されている。
「『急用が入った。また今度。元島』……ま、いいんだけどね」
モトジマ好みの服を放り出して、女性用ボクサーショーツを穿く。ジーンズにTシャツ、あの時と同じ赤いパーカーを羽織ると、懐かしくなって外を見た。あの日も、こんな風だった。モトジマが急用で呼び出されて、外の空気を吸おうと窓を開けたときに、公園に、酷い顔で入ってくる人影が見えたんだった。
季節は夏から秋に変わった。夜は少し肌寒い。
見下ろす公園の、切れ掛けの常夜灯に、こちらを見上げる人影が見えて、尊は弾かれたように走り出した。
「よう」
「ば……ばっかじゃないの!?今何月か分かってんの!?」
「十月だな。流石に寒い」
大学からそのまま来たのだろう。葵の格好は秋物に一枚羽織っただけという、見ているだけで寒くなるようなものだ。掌を触ると、冷え切っているのがすぐに分かった。
「お前出てくるのおっせぇんだよ」
「っていうかなんでここにいるのさ!」
「亀谷さんに聞いた」
絶句した。あの爺は何を考えているのか。そして目の前のこの男も何を考えているのか。
「お前髪濡れてんじゃねぇか。乾かさないと風邪ひくぞ」
「それ、こっちの台詞……」
「やっぱそっちのほうが似合うな」
「……っだから、ちゃんと会話のキャッチボールしようよ」
「奇遇だな。俺も前からお前と会話のキャッチボールしたかった」
葵はそう笑った。初めて見る優しい笑顔に、尊は視線をぎこちなく彷徨わせる。
「退屈なら相手になってやる。この間の店にでもいい。今日は寒いから、おでんの屋台とかが良いかもな」
「ボク、財布ないんだけど」
「給料日後の大学生なめんなよ」
「前は自腹だったくせに」
「それはそれ。好きなやつ前にしてかっこつけない男がいるかっての」
また、それだ。尊は唇を淡く噛んだ。
「ボクは、さ。葵さんに好かれる資格なんてないよ」
「自分が男だったからか?」
尊が分かり易く肩を跳ねさせた。
「カメタニさん?」
「ああ」
「あのくそジジイ……」
口汚くそういう尊に、葵がおかしそうに笑った。いつもと逆だ。居心地悪そうな尊の頭をぽんぽんと叩く。
「全部聞いた」
「なら、なんで」
情けなく震えた声だった。葵は、うん、と短く頷く。
「色々考えたんだけどさ、好きって気持ちには嘘はつけねぇんだよな。俺は尊が女だから好きになったわけでも、男だから好きになったわけでもないんだよ。まして、久万野の肩書に惚れたわけでもない。俺はきっと、いろいろ振り回してアホみたいに笑ってる尊が気に入ったんだ」
「何それ、それなら、ボクが葵さんに気に入られるように動いてる打算的な人間だったらどうするつもりなのさ」
かわいくないなぁ、と自分でも思った。けれど葵はゆるく笑う。
「そんときはそんときだろ」
「その時は幻滅してたの?」
「してないだろうなぁ。俺は尊の全部が好きだったわけだから。一つくらい想像と違ったって、許容範囲だ。むしろそういうところが好きになったかもしれない。それに、好きな人に好かれようとするのは当然だろ」
「はは、葵さんアホだよね」
「失礼なやつだな」
明らかにむっとする葵に、尊は久しぶりに笑顔を浮かべる。顔を上げると、優しさの中に真剣な表情を混ぜた葵が、まっすく尊を見つめていた。
「俺は駄目か?」
ずるいなぁ、と思う。答えなんて決まってるはずなのに。
「葵さんがいい」
「言質とったぞ」
「何回でも言ったげるよ。葵さんがいい」
少し顔を赤らめた葵が、「そっか」と小さく言う。
「俺も、尊がいい。男とか、女とか関係ない。別にこれから尊が変わっていったって、尊がいい」
今まで空っぽだった心が満たされていくような、不思議なふわふわとした気分だった。差し出された掌をぎゅっと握る。
「これから大変だよ。なんせボクは久万野の子なわけだし」
「それは、うん頑張る」
「やっぱ葵さんアホだよね」
「うるせぇ。おら今日はどこがいいんだ」
「うん、おでん屋とか行きたいね」
少し強めに引っ張られる手に、笑って歩幅を合わせた。
人生は偶然の連続だという。沢山の偶然から生まれ落ち、偶然誰かと出会って、偶然何かにのめり込み、ある日偶然にもぽっくり逝ってしまう。時々、人はそれを必然だと言ったり、あるいは運命だなんて詩的な言葉で表現したりする。昔は、そんな言葉が大嫌いだった。偶然弟より早く生まれて、偶然男を辞めてしまったのを、運命だなんて言われたくなかったから。
けれど、その結果今ここにいるとしたら、それもまぁ、悪くないかと思うのである。


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