赤ずきん


 狼とその少女が出会ったのは、本当にただの偶然だった。
 森中のあらゆる動物から『賢狼』と称される狼は、その日も狩りに成功し、膨れた腹をさすりながら、人の村の近くにある草むらで悠々と惰眠を貪っていた。狼が眠る草むらをわざと通る動物はおらず、静かな中、昼寝を貪っていたとき、狼の耳にかさかさという小さな音が届いた。
 なんだ、誰だと両目を薄く開けると、よく目立つ赤い頭巾を被った少女が歩いているではないか。
 狼は一瞬、この娘は何を考えているのだと頭を押さえたくなった。まさに夏を迎えんとする森の中は緑一色。自分以外にも狼が多く生息するこの森の中で、わざと目立つ赤い頭巾を被るなんて、自分を食ってくださいと言っているようなものだ。
 狼はのっそりと起き上がり、そして少女に近づいた。幸い、この少女に自分の仲間は気づいていないようだし、一つ注意でもしてやろうと思ったのだ。見る限り、この少女はとても愛らしく、ここで命を落とすにはあまりにも不憫だったからだ。
「こんにちは、赤いずきんをかぶったお嬢さん」
 わざと『赤いずきん』を強調しても、その少女はきょとんとするだけで、まったく気づく様子はない。それどころか、少女はにっこり笑って挨拶まで返す。人間の危機管理能力という物は死滅しているのかと、狼はこっそり頭を抱えた。
「赤ずきんちゃん、こんな森の中で、一人で一体どこに行くんだい?」
「あのね、ご病気のおばあちゃんのお見舞いに行くのよ」
 さらに狼は頭を抱えた。見るからに怪しい狼に、馬鹿正直に答える奴がどこにいる!いや、ここにいるのか。ニコニコと微笑む赤ずきんに、このまま去ってしまおうかと思った狼だったが、ふと思い当って再度尋ねた。
「そのおばあちゃんというのは、どこに住んでいるんだい?」
「この森のずっと奥よ。一人で住んでいて寂しいだろうから、私がお見舞いに行くの」
「へぇ……」
 森の奥に住んでいる老婆の話は聞いたことがあった。仲間内で襲うか、襲うまいかの話が出ていたくらいだが、病に伏せった、痩せ衰えた老婆を食うよりは、冬を越して程よく肥えた鹿や猪を狩ったほうが良いに決まっている。それに、わざわざ反撃される可能性のある人を襲う馬鹿は自分の群れの中にはいなかった。
 人食い狼がいる森と、この森はそう呼ばれているらしいが、人を襲ったことは一度しかない。自分たちの縄張りで勝手に狩りをした挙句、近くを通りかかった仲間を撃ち殺した狩人を、たった一度だけ殺したっきりだ。しかも食べてない。
「赤ずきんちゃん、この先をずっと行くと、花畑に出るんだ。狼も出ない、良いところさ。そこで少し花でも詰んで、それからお婆さんのお見舞いに行ったらどうかな?」
「えぇ、そうするわ。有難う、狼さん」
 狼は赤ずきんに背を向けると、すぐさまお婆さんの家に走り出した。森の中にある一軒家の場所など、この森で一番頭の良い狼が知らないわけがない。ものの数分で辿り着いた家の前で、狼は静かに考えた。それから、木製の扉をノックした。
 悲鳴を上げるでもなく、狼を家の中に迎え入れたお婆さんに、狼はただ尋ねる。
「あんたはどうしてこんなところに一人で住んでいるんだ」
「私は見ての通り病気の老婆。村の中で養う余裕はありませんよ」
 なるほど、そういうことかと狼は頷く。最近縄張りを荒らされているのも、森の中の動物が減っているのも、人間の村から余裕がなくなったからだろう。だから、危険な森で狩りをするしかないのだ。
「最近は何かを口にする元気もほとんどありませんで……ただ死ぬのを待つのみですよ」
 気品よく、しかし力なく笑うお婆さん。時折苦しげに咳き込むので、背中を摩ろうとして、それから自分の鋭い爪がついた掌を見つめた。
「有難う、狼さん。私を気遣ってくれるのね」
「よせやい。それより、元気があるならここを早く出てったほうがいい。それから安全なところに住みなおすんだ。じゃないと、あんたの孫娘が、一人でこんな危ない森に入らなくて済む」
「……孫娘が?孫が、ここに来ているのですか?」
「あぁ。森の中で目立つ真っ赤な頭巾を被ってな。俺達からしたら、狂気の沙汰としか思えない。会ったら一言注意してやってくれ」
「待ってちょうだい。孫ってどういうことなの?」
「安心しろよ、俺達は無抵抗な女の子をぼりぼり食うほど野蛮じゃない」
「そうじゃないの。人間も、森の中で赤いずきんが目立つことを知らないほど愚かではないわ」
 お婆さんは、病気でただでさえ色の悪い顔をさらに青くさせて、狼のふさふさとした毛皮を掴んだ。
「じゃあ、なんだ、あんたの孫娘は、わざと赤いずきんを被せられてこの森に来たってことか?」
「だとしたら、あの子は、あの子はもう……」
 賢い狼はすぐに気づいた。
 赤ずきんが村から捨てられたことに。
 お婆さんも村から捨てられていることに。
 今にも泣きそうなお婆さんの顔を見て、狼はゆっくりと考えを巡らせる。純粋無垢なあの少女が、この後どういう仕打ちを受けるのだろうかと想像する。
 あの女の子がどうなろうと、狼には関係のない話だが、それでも狼はお婆さんの顔を見てこう言った。
「なぁ、婆さん。あんた、このまま死ぬか、俺に食われるか、どっちがいい?」
 しばらくの静寂の後、賢い狼はさらに膨れたお腹を擦りながら、ゆっくりゆっくり考えた。
 どうすれば赤ずきんを幸せにできたのか。ただの狼にできることは何か。
 狼がいくら賢くても、いくらその牙が鋭くても、いくら沢山の仲間がいても、狼にできることはこれ一つ以外、ありはしなかったのだ。
「こんにちは、お婆さん」
 聞き覚えのある、澄んだかわいらしい声が狼の耳に届く。
「お婆さんの耳は随分大きいのね」
「そうとも。お前の声がよく聞こえるようにね」
「目もとても大きいわ」
「お前の顔をじっくり見れるようにね」
「それに、こんなに手が大きかったかしら?」
「そうでなければ、お前を抱いてあげられないよ」
「それよりも、とっても大きなお口。ねぇ、どうしてお婆さんのお口はそんなに大きいの?」
「そうじゃないとね……」
 最後に、狼はその少女の顔を見た。まっすぐに光る、澄んだその瞳に、狼は一瞬目を細めて、それから笑ってこう言った。
「お前を食べてあげられないからさ」
 たった一日で何もなくなった部屋を見渡して、狼は一つ溜息をつく。腹はとても膨れたというのに、今までで一番気分が悪かった。足元に落ちた赤い頭巾を見て、すぐに視線を逸らして口元を拭う。
 狼はその場から動く気力もなく、そのままお婆さんが寝ていたベッドに倒れこむ。腹が膨れたのと、考え疲れたのとで、すぐに睡魔が襲ってきた。
 視界が真っ暗になって、それから辺りが騒がしくなって、狼はうっすらと目を開けた。腹の中がぎっしりと重たく、しかし最初の重たさとは全く違うものだった。
 腹の中に石でも詰められたか。狼は鼻をひくつかせると、お婆さん、赤ずきんともう一人、違う人間の匂いを嗅いだ。
 足元からは、すでに赤い頭巾がなくなっている。
 それから、窓の外で様子を窺う、狩人の姿を見て微笑んだ。
「あぁ、喉が渇いたな」
 誰に言うでもなく、狼はのろのろと立ち上がった。扉から堂々と外に出て、それから小川の近くに跪いた。
 川に映った自分の口元には、肉の欠片どころか、血すらついていない。少しでも痛みがないようにと、丸呑みにしたのが失敗だったか。
 狼は一度だけ振り返り、こちらを見る六個の目を眺めた。
 それからそっと川に口を近づけ、そのまま水の中にゆっくりと身を横たえた。


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