君の居場所に帰っておいで



お題bot(@odai_bot00)様より:君の居場所に帰っておいで



 六月の曇天の下で、光穂は大きく溜息をついた。

 新生活、新天地、新学期、新入生。それらすべてに心を躍らせていた時期は束の間、怒涛のように押し寄せる忙しさや情報の海に目を回す。それでも、自ら選び、その身を投じると決めた大学で「こんなはずじゃなかった」と零すのは、光穂の矜持と、何より周りが許さなかった。

 自分の矜持、周りの羨望、両親の期待、新しい環境。きっと疲れていたんだろう、と思う。じゃなきゃ、光穂がこんなところにこんな時間に来るはずがないのだ。

 時刻は、十時を少し回った頃。今から帰れば、二限に間に合うだろうか。そんなことをぼんやり思った。それでも、この場から動けずにいる。このご時世には、非常に珍しい存在になってしまった鳥居を見上げる。朱塗りの木に区切られた空はどんよりとしていて、今にも雨が降り出しそうだった。

 帰りたいなぁ。そう思った。どこに帰るつもりだろう。家?高校?予備校?それとも、大学?

 知らずのうちに眦に涙が浮かんだ時に、柔らかな声が耳を擽った。

「参拝の方ですか?」

 声の主は光穂の少し後ろにいた。壮年の男性だった。少し抜けた白髪に、染みが浮いた茶色い肌、人懐こい笑顔が浮かぶ。

「学生さんですか」

「え、あ、はい」

「そうですか」

 光穂は慌てて道を譲った。自転車を脇に寄せると、「これはどうも」と男性は軽く頭を下げる。

「神社は初めてですかな?」

「お恥ずかしながら……」

「何を恥ずかしがることがあるんです。皆初めてがあるんですよ」

 男性の声は、決して大きいものではなく、むしろ静かなものだったが、染み入るようなものだった。

「鳥居は、端を通るんですよ。真ん中は神様が通る道ですから。それから、入る前にお辞儀をするんです」

「お辞儀、ですか」

「鳥居は神様のおうちの門ですから。お邪魔します、ということですよ」

 はぁ、と生返事をして、光穂は「お邪魔します」と声を出して一礼をした。男性は少しきょとんとして、それからははは、と朗らかに笑う。

「これはご丁寧なお嬢さんだ。やぁ、私も真似しましょうかな。お邪魔します」

 恥ずかしさで真っ赤になる光穂を知ってか知らずか、男性も曲がった腰をさらに曲げて、深々とお辞儀をした。

 境内はしんと静まり返っていた。男性に聞くと、あまり有名な神社でもないらしい。だからこそ、光穂の姿を見て驚いて声をかけてしまったのだそうだ。

「先の大戦で、随分と神社は数を減らしましたからなぁ」

 男性は目を細めて、どこか寂しそうにそう言った。

 参拝の仕方も何も知らない光穂に、男性は丁寧に作法を教えてくれた。手水場で身を清めること、拍手の打ち方、礼の回数、お願いの仕方。

 何を願えばいいのか分からなかった。不安の打開か、現実からの逃避か。どれにしてもろくでもないお願いごとになるのだろう。他力本願ではないのか。ぐるぐる回る思考の中、男性は光穂の肩をぽんと叩く。

「気負わなくてもいいんですよ」

「そもそも、私はここに来るのも初めてなのに、お願い事なんて烏滸がましくないですか?」

「ははは、大丈夫ですよ」

 不安そうな光穂に、男性は不格好なウインクを一つした。

「ここの神様はね、人間が大好きなんですよ」

「大好き、ですか」

「ええ。大好きで、大好きで。時代の流れの中で、忘れられても、捨てられても、それでも人を愛してしまうんです。だから、心配しなくてもいいんです」

 男性は力強くそう言い切った。

「不安なことがあるなら、声に出してしまえばいいんです。誰も聞いてくれなくても、ここなら、聞いてくれる存在はありますから。一人で塞ぎ込んで、ずっと下を向いているより、ここで吐いてしまいましょう?」

 さぁ、と促すように男性は光穂の背中を押す。掌で熱を持った五円を賽銭箱に静かに入れると、ちゃりん、とくぐもった優しい音がした。鈴を鳴らす。深く二回のお辞儀をする。二回の拍手は場を清めて、神様に感謝をするため。目を伏せてお願いをする。

 私の選択が間違っていませんように。このもやもやが少しでも晴れますように。

 深いお辞儀の後、軽い会釈をしてその場を退いた。

「やぁ、心は晴れましたか?」

「ちょっとだけ」

「なら、良かったですなぁ」

 男性は眦を下げて、人好きのする笑顔をくしゃっと作った。




 結局、二限には出席することが出来なさそうだった。二限を一緒に取っている友人には、なにかあったのかと心配されたが、そこは曖昧に微笑んでごまかした。あの時の感覚は、何故か心の奥にしまっておきたかったのだ。

 あれから気付けば一月ほど経った。リレー形式の入門講義で、大学周辺の地図が配られ、光穂はなんとなくあの神社のことを思い出す。

(……あれ?)

 見間違いかと思った。けれど、何回見返しても見つからないのだ。光穂が足を運んだはずのそこは、有名企業の支社になっている。

「今日は、この街の変遷を知る授業ですので、レジュメ一枚目の現代の地図と二枚目の古地図を比較しながら講義を進めます。では――」

 教授の声は急速に遠のき、光穂の頭は冷えていく。対照的に心には何故だかほんのりとした熱が灯った。

 ――忘れられても、捨てられても、それでも人を愛してしまう。

 にっこりとした優しい笑顔の男性は、今もあの社に一人で、迷い子の訪れを待っているのだろうか。



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