秒速1.3メートル 誰かが死ぬ、なんてことは職業柄慣れっこなことだ。私自身、明日死ぬかもしれないなんて思いながら布団に入ることもしょっちゅうだ。 嫌な職業だな、とは思う。もはや誰かが死ぬことが日常茶飯事になってしまっているんだから。 今日は久しぶりに休みをもらった。何も考えず街を出歩ける貴重な日だ。はらはらと散っていく桜の花を見て、ああそういえば今は春だっけ、なんて思いだす。季節感なんてあったもんじゃないな。そう呟いて苦笑した。 コンクリートの地面。当たるスニーカーに感触がある。いつもは蹴り飛ばすように走っている所為で全く感じない、人工的な地面の温かさ。 少し強い風。靡く髪が少しくすぐったい。いつもは感じている暇がないほど緊迫しているために全く感じない、昨日のシャンプーの残り香。 皆が感じているその一つ一つを確かめるたびに、ああまだ私は“人間”なんだなと少し安心する。確かめるように一つ一つの当たり前を感じて、私はほっと息を吐いた。 交差点。赤と青の信号の、今は丁度青がパカパカし始めた横断歩道を、小学生くらいの男の子が走っている。結構な長さのある横断歩道。危ないなあなんて思いながら、私は次の信号が変わるのを待った。交通ルールを破ると後で五月蠅いのが騒ぐからだ。 散る桜の花びらに目を閉じて数秒、瞬きくらいの間に、突然甲高いブレーキの音と衝撃音、続いて悲鳴が叩きつけるように鼓膜を打った。まるで消音器なしで拳銃を撃ったみたいな衝撃音に肩をはねさせて目を開く。 白い横断歩道。黒いアスファルトに、転がる小さな影は間違いなくさっき通っていた男の子だ。 いや、男の子だったもの、か。 救急車を、と叫ぶ女子高生。悲鳴を上げる会社員に、顔面蒼白の運転手。近くにある巨大なトラックを見て、冷めた頭の私は思ってしまう。 助からないな、と。 この出血量からして男の子が助かる可能性は低い。全身を強く打っているから助かったとして何らかの後遺症が残るだろう。 それに、病院へ急いだとして、救急車が来て乗り込んで病院を探して、とどう考えても間に合う可能性は低い。 皆が男の子を救おうと必死になっている中、私は一人だけ別世界にいるように、しんと静まり返った脳内でそう考えていた。 助からない。ならどうして助けようとするんだろう。 そもそも、自分の子供でも友達の息子でも、ましてや知り合いでもない少年が、どうなったって構わないじゃないか。 そこまで考えて、私は背筋に冷たいものを感じた。 私は、いつからそこまで冷酷な人間になったのだろう。 私は、いつから“死”をどうでもよく感じるようになったのだろう。 私は、いつから―― 襲い来る恐怖に似た何かから逃げるように顔を背けると、近くにいたおばさんが心配そうにのぞきこんできた。 「大丈夫?気持ち悪いなら無理してここにいる必要はないんだよ?」 違うんです。違うんです。男の子が気持ち悪いんじゃないんです。 私が、私という存在が気持ち悪いんです。 首をぶんぶん横に振ると、まだ心配顔のおばさんが肩からそっと手を離す。かけつけた救急車の赤ランプが、男の子が沈む赤に反射して不気味に光る。 次いで現れた白と黒の縞々が、男の子を撥ねた運転手を連れて行こうとして、その中の影が一つ、私に気付いたように近づいてきた。 「響華?今日は非番だったよな?」 「あー、まあ、出くわしたっていうか」 季節外れの緑マフラーが、嗅ぎ慣れた死臭を覆い隠した。いつもと違う私に気付いたのか、どうした?と不思議そうに首をかしげる。 「桜花隊長、どうします?」 「とりあえず連れてってもらうように言って。なんかあったら直接俺か部長に連絡。でもまあ……」 そうして、楓汰は地面に色濃く残るブレーキ痕を見た。私と同じように目を細めて、小さく呟く。 「悪気があって、ってわけじゃないだろうな」 「……ですね」 そう。これは不慮の事故だ。誰が悪いっていう訳ではない。男の子の身長が小さすぎて、あのトラックの運転席からは見づらかっただけ。これは文字通り“事故”なのだから、今回私達の出番はほぼないだろう。 頷いた隊員が私と楓汰に敬礼してパトカーに乗り込んだ。返礼すると同時にパトカーがサイレンを鳴らして元の道を帰って行く。 「で、どうしたよ。死体なんか今更珍しいもんじゃないのに、そんな辛気臭い顔しちゃってさ」 「まあ、そうなんだけどさ。こう、自分と世間のギャップに悩んでた」 ふうん、と適当に相槌を打った楓汰が先行して歩いていく。一メートルほど空いた間に、来ねぇの?と振りかえって言った。 「ああ、ごめん」 「俺も今日は午後から非番ー。今のが最後の仕事だな」 「私は終日休みだ。どや」 「うわうらやまし。ちょっと半日譲ってくれよ」 「そしたら私が午前出勤になるじゃんか」 他愛無くそんな話をして、それからあの横断歩道を見た。きっと明日には放送部が綺麗に片して、何もなかったかのように横断歩道は歩行者に渡られていくんだろう。 そう考えると、いつものことなのにとても苦しかった。 「なあ」 「なんだよ」 「私って、最低の人間だと思うか?」 視線を自然に下に持っていきながら、そう聞くと、頭上の顔が驚くような気配を感じた。 「あの男の子、見たときさ」 「うん」 「絶対助からないだろうなって、思った」 「俺も思った」 「そんなの、分かってるのにさ。なんで皆助けようとするんだろうな」 辛いだけじゃないか。頑張って、必死で助けて、それで死んでしまったら。報われないじゃないか。誰だって。 「報われないし、それに知り合いでもないのに、なんであんなに悲しそうな顔してさ。我がことのように苦しむんだろうな」 言い終わって、はは、と自然に笑いがこみ上げた。こんなこと、路上で言うようなことじゃない。今はあまり人がいないけれど、もし人がいたら、私は酷いことを言う女子だと世間から白い目を向けられるだろう。 それに、楓汰だって世間の例外じゃない。ひょっとしたら、今白い目を向けているかもしれない。こいつ最低だ、なんて思われてるかもしれない。 柄にもなくしゅんとして肩をすぼめると、上からふっと笑う気配がした。 「な、何さ」 「いや、優しいなって思って」 「優しくなんかないじゃんか。だってこんなこと思ってさ」 「そう思ってる時点で優しいってことだよ」 ぽん、と頭に手をのせられる感覚。 「俺なんか、そんなこと微塵も考えてなかったぜ?ただ、ああまた交通事故か。早く帰って飯食いてえなあ今日の昼飯なんだっけか。そんなことしか考えてなかった」 「ちなみに今日の昼飯はカレーうどんな」 「よしさっさと帰ろう」 「おい待てお前今までの良い感じの空気ぶっ壊して帰るな」 本気で帰ろうとするその右腕にしがみついて止めると、面倒くさそうな顔で振り向かれた。そんな顔しなくたっていいじゃないか。 「きっとさ」 「うん?」 「多分だけど、あの男の子を助けた人たち、死ぬってことに慣れてないんだよ」 「そりゃそうだろうね」 「だからあんなに必死になって助けられるんだ」 「うん」 「けど、俺たちはどうだろ。もう疲れてるんだよ。必死になって助けようとした誰かが死んで、結局助けられなかった無力感が募って、助けたいとも思わなくなってるんだよ」 だから、と続けて楓汰がこっちを見る。 「別に響華が変なんじゃなくて、こう、怯えてるだけだから、優しくないっていうより、その、なんつうか、あーくそ。俺の乏しい語彙力じゃ伝わらん」 「……あんたが語彙力という言葉を知っていた時点で私は既に驚いてるんですが」 「よっしゃ後で表出ろ」 「もう出てますが」 「……なにはともあれだ。別にお前は変じゃねぇよ。怖がってるだけだから」 びしっと指まで指されてはもう何も言えない。しばらく微妙な沈黙が下りて、楓汰がうあー、とかなんとか唸って頭をがしがし掻き始めた。 「なんかすげえ柄にもないこと言った気がする」 「そんなに掻くと禿げるぞ」 「え、まじ」 「マジマジ。だから今日はカレーうどんじゃなくてわかめうどんにしなさい」 「え、ちょ、それだけは勘弁してください!」 拝む楓汰がおかしくて、少し吹き出して、空を見て。 少し軽くなった心とともに、歩きだした。 ゆっくりかみしめるように地面を歩く。明日はもう踏めないかもしれない地面を。 ゆっくり味わうように空気を吸う。明日はもう吸えないかもしれない空気を。 生きているものの特権を味わうように、私はゆっくりと目を閉じた。 |