ああ、最悪だ。ボクはばれないようにため息をつきつつ、そっと彼らの方へ視線を向けた。
赤司くんのアドバイスのおかげで三軍から昇格し一軍入りを果たしてから数日。なんとなく予想はしていたが、まさかこんなに早く目をつけられるとは思っていなかったため少なからず動揺はしていた。
「すみません……。練習が始まる時間になってしまいますから、道をあけてもらえませんか?」
「ふざけんなよ! オレだって今日までずっと頑張ってきたっつーのに!」
「……そうでしたか」
「大体お前いつも吐きっぱなしだったろうがよ! いきなり一軍とかナメてんのか!」
ガッと胸倉を掴まれ苦しさに顔を歪ませる。影の薄いボクを見つけ出し校舎裏で囲む彼ら三人は二年生でバスケ部、そして三軍だ。やはり半年以上も練習を共にし、更によく嘔吐していたためか顔だけは覚えているらしい。ボクの二軍を飛ばしての一軍入りがどうしても気に入らないのだろう。
しかし言わせてもらえば、確かに赤司くんのアドバイスのおかげもあるがアドバイスをもらってからの三か月間ボクだって努力を積み重ねてきた。辛い体に鞭を打ち、ボクなりの答えを見つけ出して試合形式のテストへ挑んだのだ。彼らも来年度は受験生で引退の時期が迫っている。きっと焦っているに違いない。だからと言ってそれを人にぶつけるのもどうかということを簡潔に伝えた。
「なので先輩方にとやかく言われる筋合いはないです」
「っこの!」
だがその言葉は彼らを更に逆上させてしまったらしく、ついには手を出されてしまった。頬と腕に拳が入りじわじわと痛み出す箇所にさすがにボクも怒りがこみあげてくる。でもこんなところで問題を起こしたくはない。せっかく手に入れたチャンスを無駄になんてしたくはなかった。ボクは斜め上を向き、「あれは……」と声をもらす。それに三人が振り向いた瞬間死角を突いて校舎裏から逃げ出した。幸いボクをまた見つけ出すことは不可能と言ってもあながち間違いではないほど難しい。保健室までの道をなるべく他の生徒が通らないようなルートを使って駆け抜けた。
「ふう……」
保健室の扉の前で息を整える。さすがに殴られた赤い頬と腕のまま練習に出ることは出来ないため湿布を貼ってから体育館へ向かうことにした。ノックを三回して失礼しますと中へ入ってすぐボクは目を見開くこととなる。彼女が、いたのだ。ボクがいつも図書当番であるとき管理室の近くの長椅子に座っている、彼女が。彼女も動作を止め驚いたようにボクを見つめて、目線がボクの赤くなっているであろう頬に移るとその顔を先ほどのボクのように歪めた。彼女はいつも巻いている包帯を巻き直していたようで、その続きを急いで再開する。だがいかんせんその巻いている場所が太ももであった。ボクは目線を横にそらして巻き終えるのを待つ。後ろを向けばよかったのではと気付いたときには既に彼女は包帯を巻き終えていた。
「……あ、の」
「え……」
彼女は手に余った包帯を握り締め、ボクの目をじっと見つめる。こちらも見つめ返すがこれはどういう状況なのだろうか。彼女がボクに語りかけたのは間違いない。なら、用件は?ようやく聞けた彼女の声に柄にもなく気持ちが昂っていて冷静な思考が働かない。そこで用事を終えた彼女がすることなんて一つだろうという考えに至ったところでやっとボクの頭は冷えてきたのだった。
「邪魔、でしたよね。すみません、扉の前にいて……」
「い、いえ。そうでは、なくて」
お互いたどたどしい態度に変に緊張してしまう。ボクが邪魔で保健室から出られないことに困っているのかと思ったのだがどうやら違ったらしい。彼女は何度も目線をそらしては合わせてを繰り返し、意を決したように自分の隣を指差した。
「手当てしますから…座ってください」
ボクはこのとき激しく自分の耳を疑った。
*
「私が来たときには保健の先生いたんですが今職員室にいるんです。湿布や包帯はちゃんと使う許可とってありますから大丈夫ですよ」
「なるほど……」
「腕の湿布、取れないように軽く包帯巻いておきますね」
「すみません、何から何まで」
きっと練習中に汗で取れてしまうだろうと思っていたのでそれだけでも少しは助かった。いえ、と微笑む彼女の顔を失礼ながらまじまじと見てみる。遠くから見るだけでは分からなかった部分までよく分かるようになった。まつ毛が長いな、とか、乾燥の知らない肌だな、とか。……なんだかそろそろ自分を客観的に見て危ない人になってきた気が……。
「えっと……はい、終わりました」
「ありがとうございます。……あ」
名前を呼ぼうとして、そういえば聞いていなかったと気づいた。ずっと名前を知らないまま彼女を見続けてきたため、そこまで頭が回らなかったのだ。彼女も名を名乗っていないことに気付きはっとして謝ってきた。
「ご、ごめんなさい……名も名乗らずに、勝手なこと……」
「いえ、こちらこそ見ず知らずの他人の手当てをさせてしまって申し訳ないです」
「……見ず知らず、じゃ、ないのですが」
実際聞こえはしたのだが、あまりにも小さな声だったため本当にそう言ったのかが理解出来ず聞き返すが何でもないです!と慌てる彼女は復唱してくれなかった。もしかして、どこかで会ったことがあったのだろうか?ボクが覚えている限りでは彼女と遭遇なんて一度もしたことはなかったように思う。でももし本当に見ず知らずではないのなら、彼女はボクのことを知っていたということか?そう考えるとなぜか気分が満たされる気がして内心首を傾げた。
「そ、その……一年のみょうじなまえ、といいます」
「あ……っと、黒子テツヤです。ボクも、一年ですよ」
「一年生だったんだね……じゃあ同い年だ」
目の前で「黒子、くん」とぎこちなく名前を呼ばれて自分の心臓が小さく音をたてる。何か言わなくてはと焦り咄嗟に口から出た言葉は「よ、よろしくお願いします」という何とも情けない一言であった。それでも彼女……みょうじさんはにこやかにこちらこそ、と笑ってくれ安心する。
「ところで黒子くん、時間は大丈夫? 部活は……?」
「……あ」
しまった。気づいたときには既に遅かったらしく、保健室の時計は部活の始まる時間を十分も超えていた。まあ……赤司くんは察しがいい人だ。ボクの顔を見れば大体のことは分かってくれるだろう。
「あの、後日改めてお礼をしたいのでクラスを教えてくれますか?」
「え……!? い、いや、そんないいよ!」
「ボクがしたいんです。それとも迷惑ですか?」
「そういうわけじゃ……!」
あたふたとするみょうじさんには申し訳ないが、ボクには何かと理由をつけてクラスを聞き出すという使命があるため諦められない。お礼、という理由で教えるのを躊躇っていたが折れたのはみょうじさんでクラスを聞き出すことが出来た。黒子くんも教えて、と聞かれたのでボクのクラスも伝えると少しばかり驚くみょうじさんの表情が視界に入る。
「クラス、意外と近かったんですね」
「うん。今まで廊下ですれ違わなかったのが不思議なくらいだよ……」
ボクの場合は気付かれないという理由があるため不思議とは思わないのだが、実際みょうじさんのことは図書室でしか見かけたことはなかった。本当にすれ違わなかったのだろう。季節は既に冬だというのに今日まで目が合わないとは。なんだかおかしくなり小さく笑うとみょうじさんは当たり前だがボクの不可解な行動に首を傾げる。何でもないという意思表示のために咳払いをして、微笑みかけた。
「では後日、きちんとお礼をしにいきますね。今日はひとまず言葉だけで。手当てありがとうございます」
「……ふふ、うん。どういたしまして。気長に待ってるね」
「……明日行きますから」
「え!?」
「というわけでまた明日、みょうじさん」
保健室を逃げるように飛び出し体育館までの道のりを走る。コーチたちになんて説明しようとか、早く練習をしたいとか、もちろん思うことはいくつもあったのだが、今一番強く思うことは違う。
見るだけだった存在のみょうじさんと話をして、尚且つクラスも聞くことができこれからも会えるという事実が出来た。簡潔に言うならば嬉しい、だ。
走っているというのに、嬉しさのせいか体育館までの道はいつもより疲れを感じなかった。
結局、やはりボクを見た赤司くんが色々察してくれたのか、コーチに上手い言い訳を伝えてくれたことでペナルティなどは一切与えられなかった。さすが赤司くん、としか言いようがない。ちなみに紫原くんの「鬼ごっこか何かで遊んでたのー?」という問いかけには全力で否定させてもらった。
練習中は他のことを考える余裕はなかったが、着替えの途中にみょうじさんの話し声や優しく笑った表情を思い出す。早く、明日になればいいのに。