8 ハツザマ『涙の理由は』
昼も終わろうとしている頃、リビングに用があって廊下を急いでいたザマスは、曲がり角の先で不自然に上向きながら歩くハーツとすれ違おうとした。しかし異変を感じて立ち止まり彼の様子を伺うと、なんと目元を真っ赤にして鼻を啜り、泣いているようだった。
『どうしたんだ』
いつも笑みを絶やさない彼の尋常でない様子にぎょっとして思わず声をかけると、普段の格好とは違ってやたらと軽装のハーツは意外そうに目を開いてザマスを見下ろし、そして幾筋も涙を流したままいつものように笑いかけた。
「なんでもないよ、心配してくれてありがとうザマス」
『そうか......』
どう見てもなんでもないはずがなかった。しかし彼の気は至って落ち着いているし、表情以外からは感情の乱れや変化は一切感じられない。いつも以上に何を考えているかわからない。一種の恐怖さえ覚えたザマスはその場を流し、大袈裟に彼を避けて先へ進んだ。
リビングに飛び込むと、待ち構えていたようにフューが壁にもたれてザマスの方を見ていた。片手にはやや新しそうなメモ帳を掲げている。
「やあ、書いてあったものは全部用意して、必要な情報は書き足しておいたよ」
『苦労をかけたな。ところで......』
メモ帳を受け取ったザマスは、先程の奇妙な光景を思い出した。フューは彼の戸惑っているような様子を物珍しく思い、小首を傾げて続きを促す。
『あのハーツが、目を真っ赤にして泣いていた。何か知らないか?』
「元から赤いじゃん」
『そうではなくてだな......』
「もちろん全部知ってるけど、あいつはキミの助けなんて求めてないよ」
ザマスが何も答えられないでいるうちに彼はひらひらと手を振り、じゃあね、とその場から消えてしまった。結局本題は聞けないままでもやもやを抱えたままになったザマスは、ずっとあたりに漂っていたキッチンからの様々な匂いが気になって立ち寄ったがそこには誰もおらず、まだまだ生煮えの鍋が火にかかったまま放置されている。
今日の料理担当は誰だと眉をひそめた彼は、しかしそばの廊下にはまだハーツがうろついていることを思い出し、何かあればすぐに気付くだろうと放っておくことにした。そしてまたあの男の隣を通るのはなんとなく嫌だったので、瞬間移動で自室に戻ったのだった。
「やあザマス、ハーツが食堂に来いって言ってたよ」
虚空から不意に現れたフューは、夜の泉で瞑想をしていたザマスに声をかけるだけかけてすぐに去ってしまった。突然の妨害に精神を乱されたことに若干腹を立てながらも食堂に向かうと、長テーブルの上の大鍋には、玉ねぎが多目の美味しそうなシチューが入っているのが見えた。
「キミはよく煮込まれた玉ねぎが大好きだからな」
ハーツはいつも通りの笑顔でキッチンの方から現れた。よく見ると、袖を捲っている右肘のあたりに火傷の痕がある。ザマスは先程の彼の涙や目の前の料理の理由を察し、呆れたように首を振った。
『おまえ一人で作ったのか......これだけの量の玉ねぎを切って?』
「もちろん。ラグスに教えてもらってケーキも焼いたんだ。冷蔵庫で冷やしてある」
『酔狂な奴めが......』
ザマスは不機嫌そうな表情で酔狂な男につかつかと近寄ると、右腕をやや乱暴に掴んで引き、火傷痕にそっと手を翳す。白い肌によく映えていた赤黒い模様はすっと消えた。
「キミは知らないかもしれないが、今日は人間の世界では、家族と過ごす祝いの日なんだ」
『私にはおまえとの血縁はないが』
「血の繋がりだけが家族じゃないさ」
気怠そうに眉をひそめて上座についたザマスは、視線だけで配膳をハーツに命令する。ハーツは大皿にたっぷりと温かいシチューを盛ると、一緒に自分の分も取ってから、ザマスの斜向かいの席についた。
『お前があんなに涙するから、随分塩辛いシチューになったものだな』
不満げな表情のわりには彼の機嫌が良いことは、ハーツだけがこっそり知っていた。
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