胃がグルグルして、心臓がドキドキして、唾液がダラダラ溢れて、僕の全身でそれを拒絶していることがはっきりわかる。床にしなだれた僕を誰かが抱き起こしてくれて、手になにかひんやりしたものが触れた。水の入ったコップだ。なんとなくそれも嫌な感じがしたけれど背に腹は変えられず、傾けて流し込む。……石鹸水のような香りがして、ついにはそれも吐き出してしまった。
 僕は自分や兄さんの服なんかを汚してしまったことが申し訳なくて、息継ぎの合間に何度も謝って謝ってしていた。金兄さんの強く優しい手が僕の背中をさすってくれる。僕はよくわからない不安と恐怖でどうにかなってしまいそうだった。それでもちょっとずつ落ち着いてきて、兄さんの胸に体を預けた。ちょっとだけ乱れた、だけどいつもの心音が聞こえてくる。

『何も変な味はしない……黒の体調不良に関係がありそうだな』

 上の方から紫兄さんの声が聞こえた。テーブルに取り落としてしまった僕の器に残ったお味噌汁を調べているみたいだった。誰かが駆け寄ってくる音がして、手袋を外した父さんの手がタオルを握って僕の体を優しく拭いてくれていることに少ししてから気付く。

『びょびょ、病気なのか!? 黒、くろ、黒は大丈夫、なのか……!?』

 気が気でないというような伝説兄さんの声が近づいてきた。僕はすっかり力の抜けてしまった全身に力を入れ直して、金兄さんを支えにしながらゆっくり立ち上がる。服が濡れて冷たかったので父さんに脱がしてもらった。それからほんの少ししてほんのりあたたかいシャツが手渡される。……紫兄さんが自分のを脱いで渡してくれたんだ。

ーー兄さん、大丈夫、です、僕……部屋に戻って、寝ます

 自分でもなかなか上手く喋れていないように感じる。それでもなんとか支えなしで立てるようになったので、扉に向かってひょこひょこ歩き出した。すると追いかけてきた伝説兄さんが壊れ物に触れるような震える手付きで僕の体に触れ、そして掬い上げるようにしっかりと抱き上げてくれる。

『お前の部屋でいいのか? オレが連れてく。』

 物凄く僕のことを心配してくれているのが嬉しくて、そしてそんな優しい兄さんに安心してほしくもあったのでなんとか笑って見せる。それから顔だけで振り返って、片付けやらをしてくれている兄さん達に謝罪と感謝を告げた。

『兄貴、黒は何か精神的にやられてるのかもしれない。よければ寝付くまでそばにいてやってくれないか?』

 《変な味を訴えるのは青が落ち込んでいる時に似ている》と紫兄さんが補足するように呟いた。僕を抱える伝説兄さんが身震いしたのが分かった。

『とにかく伝、いまは黒を安静にさせてやってくれ……後でオレも看病交代するから』

 金兄さんも僕を心配して辛い気持ちは変わらないようだった。僕はもう一度感謝してから兄さんの体に身を預ける。それを合図にして兄さんはそっと歩き出した。なんだか僕の部屋とは違う方向へ歩いている気がする。そう言えばどうして僕はリビングと間違えて書斎に行ってしまったんだっけ。ドアノブの位置が左右違うからわかるはずなのに……

ーー兄さん、すみません、少し外の空気が吸いたいです……

 少しでも気分転換になるかもしれない、僕はそう思って提案した。兄さんは黙って頷くと中庭の扉を開けてくれる。ひんやりした空気が僕の体を撫でた。僕は見慣れたはずの中庭の景色を眺めながら、またどこかからか嫌な気持ちが湧き出してくるのを他人事のように感じていた。

『く、くろ……?』

 目が回る。気持ち悪い、胸が苦しい、目を開けていられない、力が抜ける……!




 なんとなく体の感じが変わったように思えて意識がはっきりしてくる。僕は自分のベッドに寝かされているようだ。伝説兄さんが悲しそうな顔で僕を見つめていた。

『黒、そんなに体が悪いのか……?』

 自分の身に何が起こったのか暫く飲み込めなくて、ようやくといった感じで僕は声を出せる。

ーー僕、ここにいちゃいけない気がして……

 自分でも何を言ってるんだと思った。でもこれは紛れもなく、僕の心の中の素直な違和感の正体だとも思った。何故なのかはわからない。ここは僕達家族の家で、僕がここにいちゃいけないだなんて言ったらきっと兄さん達は怒ってくれる。そうは思ってもどうしても違和感が拭えない……

『そんなこと、ない、と思う……』

 妙に歯切れの悪い言葉。伝説兄さんは何かを決めかねるような困惑したような顔をしていた。きっと僕がこんなに落ち込んでるからどうしていいかわからないのだろう。ひどく落ち込むのなんて、青兄さんくらいしかないから。

ーーあっ、ああ、

『っ……どうした黒?』

ーー僕、それだけじゃなくて……兄さん達が兄さん達じゃないような気もするんです。僕も僕じゃない、この家もこの家じゃない、何もかもが違う気がする?、のかな……それが怖くて……

 ふと思いついた。これも僕の胸にストンと落ちてくるような、腑に落ちる表現だった。《でも、紫兄さんだけはなんとなく違和感が薄かったんですよね》と後から付け足す。不思議なものだと自分でも思った。

『多分……何かの原因で心が疲れていて、そのせいで色んなものが変わって見える、んだと思うぞ』

 兄さんは困ったような顔のまま、何かを考えながらそう言ってきた。僕が更に落ち込んでしまわないように気を使ってくれているのだろう。そう言えば兄さんは朝ご飯を殆ど食べていなかった。いつも朝から僕と同じくらい沢山食べるのに、お腹が空いて仕方ないだろう。

ーー兄さん、僕はちょっと、1人でゆっくり寝てますから。ちゃんと朝ご飯食べてきてください

 逡巡するような時間があった後、《何かあったら気軽に呼ぶんだぞ》と強く言い残してそっと兄さんは出ていった。その後ろ姿を顔だけで追って、なんだか首を寝違えたかのような違和感がまた湧いてきたので無理矢理目を閉じてしまった。
 ああ、もし食べ終わった兄さんの誰かが心配して僕の部屋にまたやって来るようだったら、今度こそ心配をかけないようにせめて上手に笑えるようになろう。僕はサイドテーブルからお気に入りの手鏡を取り出して覗き込んだ。それから無理に笑ってみる。

 ……でも、どうしても笑顔が上手く作れなかった。頭が痛い。きっと僕はまたひどい顔をしていることだろう。鏡の中の僕はあんなにも幸せそうに笑っているのに。






黒の憂鬱な日〜鏡の中の悪魔〜

おわり




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