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目が覚めた時から、僕は自身の体と心に大きな異変を感じていた。体が重い。気分が悪い。何だかとても憂鬱だ……
辛うじてベッドから起き上がり、部屋を見回す。そうだ、昨夜のジャンケンでは兄さん達があいこになったから、今回は誰とも添い寝せずに一人で眠ったんだった。僕はどこか胸にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちで、誰も居た形跡のないベッドの片側を見下ろした。どうにも違和感があるような気がしてならない。気持ち悪い。
漠然とした不安に押し潰されそうになったので、重い体を引き摺ってでも早く誰かに会いたかった。長い宮殿の廊下がいつもよりもずっと長く感じる。いくつかの扉を越えて、そしてリビングへ……
『黒? どうしたんだ?』
……おかしい。ここは青兄さんの書斎……
ーーあれ、え、
兄さんはついさっきまで覗いていた顕微鏡から体を離して、僕を心配そうな顔で見ていた。その心配の色は見てわかる程どんどんと濃くなっていき、すっと椅子から立ち上がって、ぼーっとしていた僕に近付いてくる。
『顔色が悪いぞ……大丈夫か?』
兄さんの暖かい手が額に乗せられた。すこしだけほっとしたけれど、それでも何かが怖く思えてその手を取って握る。兄さんは困ったように眉を顰めながら、空いた片手を僕の首筋に触れさせた。
『低体温気味で……発汗があって、脈も少し早い……まずいな、とにかくかけてくれ』
僕の手が優しくひかれ、兄さんが使っている仮眠用のベッドに座らされた。すこしクラクラする。落ち着かない。薬箱を取ってくる、と出ていこうとしたその裾をなんとか掴んで引き止めた。ひとりにしないでほしい、不安でたまらない。兄さんは片膝を着いて僕に視線を合わせてくれた。
『困ったな……制御装置に問題は無さそうだ、何か心当たりはあるか?』
ーー何も……目が覚めたら、なんだか体の調子が悪くて、それで物凄く寂しくて、怖くて……
『おはよーう、青ー……っと、取り込み中だったか?』
大袈裟な開閉音と陽気な声、紫兄さんが入ってきた。兄さんは僕達の方を見て、それから僕の顔をじっと見て、慌てたように駆け寄ってくる。
『おいおい黒、酷い顔だ……!』
僕の隣にそっと座って、顔を覗き込みながら背中を優しくさすってくれる兄さん。なんだか込み上げてくるような何かがあって、体の奥がずうっと熱くてたまらなくなった。
『な、泣……っ痛かったか!?』
ーーちがうんです、兄さん……
おろおろ慌てる紫兄さんの胸にそっと凭れて、いくつか呼吸して、元に直って2人の顔を交互に見た。兄さん達はそっくりな心配顔を見合わせる。
ーー兄さんがあったかくて、安心しちゃって……
『そっか、怖い夢でも見たのか? 俺達がここに居るから、大丈夫……』
そのまま優しく引き寄せられてハグされて、青兄さんからも同じように抱きしめられる。安心の溜息が勝手に溢れて、少しは気分がよくなったような気がした。
『ところで青……? お前、なんかの微生物のスケッチしてたんじゃなかったのか?』
『アッ……』
デスクにすっ飛んで顕微鏡を覗き込んだ兄さんはへなへなと崩れ落ちた。紫兄さんが僕の背中をぽんぽんしながら笑っている。
『あいつ、昨夜は変な生き物を見つけたからって研究するために俺を寝室から追い払ってずっとここでああしてたんだ』
ーーなんか、ごめんなさい、兄さん
『いや、少し移動してしまっただけだからまだ大丈夫、のはずだ……黒は気にしなくていい』
『昨夜はおまえ、一人で寝てたんだよな? 俺が添い寝してやればよかったかな……』
ーーそんな、大丈夫ですよ……
そんな時、高鳴り竜の声が聞こえてきた。朝ご飯のお知らせだ。紫兄さんは僕を支えながら抱き起こして、先導してくれる。青兄さんは何やら必死で顕微鏡をいじっていた。
『顔色も大分よくなったし、ちょっとでも朝ご飯を食べて元気出していこうぜ』
『俺の分は取っといてくれ……カタが着いたら食べるから』
『おっけー。』
いつもならお腹がすいてたまらないはずなのに、いまいち何も食べる気にはなれなかった。兄さんは歩きながら《せめてスープだけでも飲んであったまろう》と言って僕を元気づけてくれる。扉を開くとリビングがあって、既にみんな席に着いて僕達を待っていた。
『青はどうした?』
『研究中。あと黒がなんか調子悪いってさ』
その瞬間、伝兄さんが勢いよく立ち上がって、少ししてからまた座り直した。金兄さんもこっちを振り返って心配そうな顔をしている。
『くっ、黒……? 大丈夫か?』
僕はなんとか笑顔を作ってみせる。ぎこちなかったのだろうか、父さんも僕の名前を心配そうに呼んだ。
ーーなんだか起きてから気分が優れなくて、お腹もあまり空いてないんです……
3人の顔がさあっと青褪めるのを見て慌てて付け足す。
ーーだ、大丈夫ですから! 心配しないで、ちょっとスープだけ飲んで様子を見てみようと思うんです
紫兄さんに導かれるようにして席に座る。兄さんも隣に座ってくれた。またざわめき出していた心が少しだけ落ち着く。でも、食器を片手に心配そうにこっちを見る兄さん達を見回してまた不安になるような気がした。
『今朝は親父が味噌汁を作ってくれたんだ、暖かいうちに飲んでしまえ』
金兄さんから手渡された黒い器……お味噌汁に映った僕の顔はとても具合が悪そうで、自分でも心配になるほどだった。お味噌の粒がワカメやネギたちと一緒にゆっくりと回っている。体調が悪いからか、匂いがよくわからなかった。胃に違和感があって口に入れる気にならなかったが、それでも少しでも腹に入れようと決心する。
『もし無理そうなら残してもいいんだぞ、伝説達が食べてくれるから』
そう優しく言ってくれた父さんの方を見て、また漠然とした強烈な不安感に囚われる。伝説兄さんが僕の方に手を伸ばして頭を撫でてくれた。暖かくて優しいけれど、それでも僕はなんだか寂しいような切ないような、奇妙な違和感を感じていた。兄さんには一言感謝してから、そんなもやもやを払拭するように顔を振ってお味噌汁を再度覗き込む。
ーー頑張ってちょっとでも、食べてみます……い、いただきます
あたたかいそれを思い切って口に含んで飲み下そうとした時だった。一瞬のうちに舌に乗せられた全ての異変が僕の頭を貫いて、僕は心臓の動かし方さえ忘れる。
『ど、どうした黒!』
次の瞬間には大袈裟な水音、呻き声と共に僕はそれを吐き出していた。それは砂粒、プラスチック片、工業油、シリコンゴム……ありとあらゆる《食べられない物》の匂いと衝撃そのものだった。鼻の奥にまで入って激しく噎せ込み、取れない匂いと呼吸の苦しみで満足に座ってもいられなかった。兄さん達が僕の名前を必死で呼んで介抱してくれようとしているのがぼんやりと分かる。
ーーへ、へんなあじがしてたべられない……すなみたい……きもちわるい……
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[mokuji]
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