5
頭に何か冷たい物が乗せられている。
これは濡れた布だろうか?目を瞑ったまま自分のおかれた状況を考える。
蝋燭の燃える匂いと音からいって、今俺が寝かされているのは教会の片隅。教会と言えば……シスター!!
―ッ!殺される……!!
慌てて跳ね起き、逃げ道を探した。俺はどうやら祭壇に寝かされていたらしい。窓を割れば逃げられるが今はそんな力が…俺は扉に向かい全力で走る。
―あら、起きたのね?………悪魔
―主はあなたを殺さねばならないと仰った
何が何だかさっぱり分からないうちに、胸の上にびぃがのしかかって来た。抵抗も虚しく首を締められ、10本の長い爪が首筋に突き刺さる。あまりの痛みに俺は高く唸りながら、自分を殺そうとする細い女の手首に爪を立て暴れた。
―ッイイイイィーッ!!
びぃは甲高い声を上げ血の滲む手首を庇って飛び上がる。俺は痛みと苦しみの余韻に打ちひしがれながらも必死で逃げようともがいていたが
―主の御命令に背く事は赦されません
突如としてしぃが目の前に立ちふさがり、その右手に持った大きな十字架で俺を思い切り殴りつけた。
脳髄がぐらり揺さぶられる感覚と視界が不自然に揺れ白と黒に染められる違和感、同時に力が抜けて
―あなたが居なくなればこの村は平和になるのよ?分かる?
女神のような微笑みとは裏腹に、そのか細い手で俺の首を絞めつけた。爪を立てずに、手を組むようにしっかりと
―悪魔にはこんな死に方がお似合いよ
―これは神の裁きなのです!
呼吸が出来ない顔が脈に合わせて膨らんでいく苦しい
………そうだ。やっぱり俺は死ぬべき人間だった。悪魔だった。抵抗する必要は無いんだ。兄者の為に俺は死ぬ。
ああ……兄者が……兄者が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく…………
思えば俺は兄者に守られてばかりだった。兄者に頼るしかできない俺は、俺はなんて弱い人間だったのだろう
俺はやはり生まれてきてはいけなかったんだ。俺さえいなければ兄者は、兄者は幸せに暮らしていけたかもしれなかったのに全部俺の、俺のせいで…
すまない兄者。俺なんかの為に苦しませてしまって。俺なんか最初から見殺しにしてくれてよかったのに。
………さようなら兄者。ごめんなさい……………
―ッきゃあああぁァァ!?
ふと首が楽になった。何が起きたのか確認しようにも、俺の体は殆ど言うことを聞かない。痺れて動けなかった。
血の滴る肉を叩きつけるような濡れた音と棒を振るような乾いた音が教会中に響く。
びぃが何者かに殺されたのだ。なんとなく、そう感じた。
―モララー!?やめて!!私はしぃよ!!悪魔はあっぢィィッ"
体に何かの飛沫がかかった。意識はだいぶ回復してはきたが、未だに体は動こうとしない。
ふと、血と泥に汚れた男の顔が目の前に迫った。
―弟者…………
何か投げ捨てられたような音と共に、俺の背に農家の太ましい腕が回される。血に濡れそぼったモララーの体に抱き締められると、俺はなんだか酷く安心した。まるで兄者のような温もりに………
―ああ……モラ、ラー…………
―弟者……弟者は何も謝る必要はない………
ああ……モララーが離れていく………
―モララー………
モララーが、俺を、助けてくれた。
なんでモララーが
―兄者………!?
オサム、が居る?
―オサ、ム………
濡れた足音と布の擦れる音が近付いてくる。意識はかなり明瞭になってきた。またも、オサムが来てくれた。
―モララーに呼ばれて来てみたが……何なんだこの有り様は…大丈夫か…!?
―オサムぅッ!!
気がつけば俺は、オサムに抱き付いていた。体が震える。目頭が熱い。顔が不自然に歪んで嗚咽が止まらない。
ああ、怖かったんだ。自分でもよく分からないくらいに、なぶり殺されていく恐怖に苛まれてしまって。
―兄者………
オサムは不安そうに、しかし強く優しく、俺をそっと抱き締めてくれた。泣き顔を見てしまわないように配慮してくれているのが俺からでも分かった。俺はオサムの温もりに、どこか兄者と似通った何かを感じた。2人は似ている。
―ケガは無いのだな……?
言われて、嗚咽しながら何度も頷いた。今はとにかく、誰かに甘えていたかった…どんなに大人ぶっていようと、やはり俺はまだ幼い少年なんだ。唯一の身内にして最愛の兄を失えば、大人にしか頼ることのできない弱い人間なんだ。
―帰ろう、兄者………l
俺はオサムの肩に顔を埋めたまま、ありがとうとだけ呟いた。
夜、晩飯を食ってから俺は外を出歩いていた。少し肌寒かったが、袴一枚羽織るだけでも十二分に暖かかった。
不自然に月だけが雲に隠れ、乾燥した風が強めに吹き荒ぶ。雲のおかげで真っ暗な外は、既に持っているランタンですら殆ど照らせなくなっている。
広場に出向くと虫のたかった街灯が、ようやく死体の消えた虚しい祭壇を照らしている。しかし、血腥い腐臭が僅かに残り空気中に漂っていた。
―ん?
ふと、背後が急に明るくなった。振り向くと、明るく燃える松明を手にしたモララーの弟ジョルジュが突っ立っていた。俺は驚いてランタンを取り落としそうになったが、取り敢えず平静を装いランタンを強く握りしめた。
―なんだよ………
少々声が震えてはいたが、警戒に後退りしながらそう問いかけた。ジョルジュは何も聞こえてないかのように、ただ黙って空を見上げていた。
俺を殺す気は無いようだ。
―火はおっぱいのようにオレ達を優しく包み込んでくれるんだ…………
バカだった。俺は溜め息一つ吐くと、黙って家に戻り床についた。
何か大きな物が崩れ落ちる様な音と女の悲鳴に目が覚める。目を瞑ればパチパチと何かが燃える音が聞こえ、同時に水をぶちまけるような音も聞こえたし、焦げ臭い匂いもした。火事か?
飛び起きて窓を覗き込む。曇った銀色の空には真っ黒な煙が立ち並び、いくつもの家が燃えている情景も伺えた。
―何事だ……!?
慌てて家を飛び出すと、遠くには避難所へ向かう人々の群れが出来ていた。その手前、広場では、握り締めた松明でえぃを燃やすジョルジュの姿が
―ぎゃああああああああ!!!
えぃは野太い声で叫びながら、広場中を勢いよく転げ回って辺りに火を撒き散らしていた。平静を取り戻せばその火を消す事も出来ただろうに、シスター服は灰となって崩れ落ち、焼け爛れた皮膚を晒しながらやがて力尽き倒れた。人肉の焼けるような異臭がこちらにまで漂う。
ふと奥の方に、燃え続ける家に飛び込むモララーの姿が見えた。
ああ………オレンジの光に顔を照らされながら思う。俺が生まれる以前からやり直す事ができれば、どんなに嬉しい事だろうと。やり直せないのならいっそ自分以外の全てを焼き尽くし、環境からやり直す事ができれば、と。
―燃やせ燃やせ燃やせ!!世界を包み燃やせ!!
―!?お前、やめろ!!
気が付くとジョルジュが窓の直ぐ傍にまで来ていた。何本もの松明を握り締め、俺の家に火をつけんと!
思わず窓から飛び出したその時だった。ぐわり、ジョルジュがぶん殴られでもしたかのように不自然によろめき、次の瞬間には何事もなかったかのように走り去って行ってしまった。
突然の事に対処が出来ず、降り出した痛い程の大雨に打たれながら呆然と立ち尽くす。一体何が起こったと言うのだろう………ジョルジュが落として行った火の消えた松明を眺め、膝をついてしゃがむ。
―これでおれも死ねる!!幸せ!!幸せぇ!!
モララーの叫び声が村中に木霊した。
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