開花前夜
お隣から、美味しいご飯が出来ていく匂いがする。
バルコニーに出た瞬間、鼻先を掠る空気に食欲を刺激された。
今日のご飯はなんだろう、と考えるだけでワクワクするけど、今はなんだか、顔をあわせるのを躊躇ってしまう。
隣人兼恋人の啓恵さんからは、今日も夕ご飯に誘われた。
最近実家から送られてきた野菜も使おうと張り切っていた彼のご飯はいつも美味しい。
誘いがかかるのも出来上がり直前に呼ばれるのも嬉しいのだけど、今日はいつもよりも緊張してしまってお誘いへの返事も事務的なものになってしまった。
それだけのことで他人を嫌うほど啓恵さんの心は狭くない。
「でもちょっと、愛想なかったなぁ……」
だって仕方ない。緊張してそれどころじゃないんだから。
今、あの顔で笑いかけられた瞬間真っ赤になる自信がある。
明日の合格発表次第では、もっと顔を会わせづらくなる状況になるのだ。
告白したときに「キス以上のことは進路が決まってから」と確かに自分で言った。
その宣言を守ってか、あれから一か月と少し。啓恵さんはキス以上のことをしない。
時々えっちな雰囲気になってもきっちり、守ってくれていた。
興味、じゃないけど。今後のためにもと男同士でのセックスの仕方も調べたけど、動画を見る勇気はなく、文字だけの知識しかない。
正直、他人と深いかかわりを避けてきた恋愛初心者には未知の世界過ぎて、想像も出来なかった。
「でも、痛いのはなぁ」
なんか怖いとも思うのだ。
そもそも啓恵さんがどっちなのかもわからない。
歴代彼氏がどんな人なのか、あまり興味はない。でも、ちょっと負けたくないなって思うのも確かだ。
それ以前に、志望校に落ちていたらどうしようとか、そういった不安もある。
無駄に考えすぎて疲れた。冷静になるために、少し寒くても外に出たのに美味しそうな匂いを嗅いだら連想ゲームの如く啓恵さんに行きつく。
むしろ最近は何をしても啓恵さんの顔が浮かぶ。重症だ。
「啓恵中毒だ……」
思わず紡いだ言葉は、本当に微かなものだった。
にもかかわらず、それに呼応する音がした。「ふふ、」と。噛み殺すような笑い声。
「え?」
「こんなとこで寒くない?」
薄暗くて良く見えない。仕切りによって物理的にも遮られているけど。
その声は間違えようがない。
今、一番会いたいようで会いたくない人。
俺の大好きな人。
「啓恵さん……?」
「うん?」
柵から身を乗り出す彼は、春の夕暮れに紛れながら近くに寄れと手招く。
断りたくてもその吸引力にはあらがえず。薄い仕切り一枚隔てて並ぶ。
「いつからここに?」
「マヤ君がここに来る前かな」
「ご飯作ってたんじゃ……」
「今はオーブン待ち」
明確なことはなにも言っていない。けれど、要所で漏れた自分の発言。独り言なんてまぎれもない本音で、それを聞かれてしまった恥ずかしさに穴があったら入りたい。
仕切りがあって良かった。薄暗くて良かった。
顔に熱が集まっているのが分かる。きっと傍目にも赤いのなんてばれてる。
隣に立つその人にかっこ悪いところを見られたくない。
ささやかな抵抗で柵に掛けた腕の中に顔を突っ込むけど、余計に笑われるだけだった。
隣から伸びてきた手が、登頂の旋毛を弄って遊ぶ。くすぐったいからやめてほしい。
「初めてまともに話したのもここだったな」
「……顔色、良くなりました?」
「まぁ、そこそこだな。元々色白だからなんとも」
仕切り越しに並んで会話するのもあの時以来。
今でも続いている一緒に晩御飯を食べる習慣は、半年前の偶然の産物。
切欠は俺の顔色の悪さ。
啓恵さんに与えられる飯と、心配させないために食べるようになった結果、そこそこの健康と体重を維持しているつもりだ。
半年かけて肉体改造させられた気分なのに。啓恵さんとしてはまだまだらしい。手厳しい。
「それより、何してたんだ?」
「黄昏てました」
「まぁ、時間帯的にもそうだろうけど。なにか悩み事?」
「……その、明日、合格発表なんで。落ちてたらどうしようかなって」
「あー、そうだな、受験生のメンタルが繊細になる時期だな。受かってようが落ちてようがすることは一つだけど」
「なんですか」
「担任と親に報告、連絡、相談」
ごもっともな意見だが、ちょっと他人事っぽくも聞こえる。
捉えようによっては啓恵さんだって当事者なのに。
「その通りですけど……」
根拠のない「大丈夫」も嬉しくないが、ひどく全うすぎる答えに不満が滲んだ声が漏れた。
発言して、ちょっとムッとしている自分に気付く。
子どもっぽい態度に自分でもびっくりする。違う、そうじゃない。
顔を上げて、どうにか弁解したかったけどどうも言葉が出てこない。
金魚みたいにパクパクと口を開閉するのに精一杯だった。
「あー、ごめん。ちょっと意地悪した」
「え、ちが、そうじゃなくって」
「俺とのこと、だろ?」
「え、……うん」
もうだめだ。なにがなんだか、自分でも分からない。
けれど、啓恵さんに俺の思考はすべてお見通しなことは察した。
隠したところで、上手くごまかせるはずもない。
素直に頷く俺に、頭に置かれていた手がわしわしと撫で離れていった。
離れていく心地よさに顔を上げると、柔らかい光を浴びた啓恵さんと目が合った。
緩く笑う彼はちょっと申し訳なさそうに、少しうれしそうに笑う。
「俺だってまぁ、早々に合格してもらって日がな一日いちゃつくとかしたいけど。こんな風にだらだら話す現状も悪くないよ? マヤ君のキスも可愛いし」
「……ばかにしてません?」
「そんなことないけど」
ふふ、と軽やかに笑う。
四つの差はどうしたって埋まらない。大人っていうにはまだまだだと思うのに。
大人の余裕を見せつけられてる気分で、なんだか悔しい。
「あ、そうだ。俺、臨時だけど仕事決まった」
「ホントですか?」
「ホント。と、いっても役場の臨時で半年更新の枠だからな」
「それでも仕事にはかわりないじゃないですか」
おめでとうと伝えると「マヤ君のおかげ」となんとも謙虚な姿勢。
「努力したのはヒロエさんですよ」
「いやいや、本命は別だし。とりあえず今後も君に美味い飯を食わせたい一心ですよ」
「……サエ君は?」
「あいつのことはどうでもいいよ。それに、口説いてる時に他の男の名前を出すのは野暮じゃないか」
「身内じゃないですか……。でも、今はちょっと啓恵さんにあやかりたいかも」
「おぉ、存分にあやかりな」
一歩先に進んでしまったその人に追い付きたい。羨む気持ちは顔に出ていたのか、自分より一回りした手に指先を握られた。
お互い、夜風に当たったせいか冷たい。俺の方が若干あったかい程度。
たぶん啓恵さんは、俺が志望校に合格しようがしまいが待っていてくれるのだと思う。
俺の覚悟が決まるのを。
人と付き合うのはどういうことかっていうのを、ちゃんとじっくりと教えてくれる人の気がする。
まだ恋人というくくりになって日は浅い。
それでも十分に甘やかされている自覚はある。
これまでにも与えて貰っている自覚だってあるから。
だからこそ、俺も応えたい。
勢いで決めた約束だけど、啓恵さんに我慢を強いてる状況が落ち着かない。
かと言っていきなりセックスしたいって言うのも怖い。
だから、明日の結果をきっかけにしたい。
受かっていてほしい。大学にも行きたい。
この人の隣にいたいし、先にも進みたい。
震えそうになる声を、どうにか振り絞る。
努めて、平静を保って。冷静に。落ち着いて。
「……啓恵さん、」
「ん?」
呼び掛けると覗き込んでくる顔は今日もきれい。その形の良い唇に自分のものを押し付けたのはほんの一瞬。
拙い、キスとも呼べるかどうかも怪しいものだけれど。俺が今できる精一杯。
唇を離す時に控えめに音を立てるのは、啓恵さんのやり方。
「マヤ君、大胆……」
「そうですか?」
それだって、啓恵さんの真似だ。なんてたって。俺のファーストキスは、他でもないこの人に自宅前で奪われているのだから。
「嫌でした?」
「……今すぐ抱き締めたいくらい堪らなく嬉しい。なぁ、この仕切りって緊急時には蹴破って良いんだよね?」
「それはさすがに大家にばれます」
不意打ちを仕掛けると取り乱してその後この上なく嬉しそうにする。「いちゃいちゃしたい」というだけあって、そういった一面は、かわいいとすら思う。
だから、その先が気になって仕方ない。
それ以上のことをしたら、この人は、俺はどうなってしまうのか。
気がかりなのはキスひとつで煩くなる心臓がどれだけ持つのだろう。
「俺が、そっちに行きますから」
ひどく甘い声が漏れて、自分でも驚いた。
顔を合わせる前より、緊張はしてる。
さっきよりも心臓はやかましく音を立てているけれど。
耳障りの良い声で「待ってる」なんて言われたら。
動き出さずにはいられない。
約束の日まで、あと一日。
明日はどんな気持ちでこの人に報告するのだろう。
それを考えるのは少し怖いけど。
啓恵さんに背中を押してもらえたら、何にでもなれる気がした。
晩御飯よりも少し早めに訪れたお隣。
真っ直ぐバルコニーに向かうと、顔を真っ赤にした人を見つけた。