短編 | ナノ


「カワイイ子はスキですか?」


 昔から可愛いものがすきだった。
 でも女の子って、大多数がそういう生き物でしょ? ぬいぐるみに、ワンピース。ワンちゃんねこちゃんショートケーキ。世界は可愛いで溢れてる!

「わぁ。赤ちゃんかわいいね!」
「ありがとう。仲良くしてくれたら、おばさん嬉しいな」

 だからお隣さんに産まれた小さな赤ちゃんも、すぐに私の可愛いの一つになった。ふくふくおててに、ムチムチの足。ぴょんぴょん跳ねた真っ赤な髪と、くるんと長いふわふわの睫毛。その下にはピカピカ青空の大きな瞳が、不思議そうにパチンパチンって瞬いている。
 可愛い! お隣さんの赤ちゃんはとってもとっても可愛くて、私は「バタバタしない!」ってお母さんに叱られちゃうくらい、赤ちゃんの周りをぐるぐるぐるぐる回ってはしゃいだ。

「お名前なんて言うの?」
「燈矢よ」
「『とうや』? なんだか男の子みたいな名前だねー」
「ふふ。燈矢は男の子よ?」
「えっ、そーなの?」

 その一言にほんの少しだけ熱が下がった。こんなに可愛いから、てっきり女の子かと思ったけど、ふーん、そっか。きみ、男の子かぁ。足がぴたりと静止した。
 男の子って乱暴だ。まったくなにひとつ、可愛くない。同じクラスのケンくんには泥団子を投げられたし、幼稚園で仲良しだったユウくんにもこの前ドンッて押されて転ばされた。男の子って最低だ。
 今はこんなに可愛いきみも、そんな野蛮な男の子になるのかなぁ。
 なんだか悲しくなって、そのまんまるなほっぺたにちょんと人差し指を押し込んだ。

「……でもとうやくん、可愛いね」

 私の指と顔をウロウロした燈矢くんは、なんにも分かってなさそうな顔でくふくふ笑った。
 それがびっくりするほど可愛くて、私は考えることをやめた。

*

 玄関にランドセルを放り投げて、お隣さんのチャイムを鳴らす。そうすれば門扉からぴょこんと小さな赤い頭が飛び出るから、もうその時点で可愛い。
 ワクワクを隠しきれない燈矢くんが、私のことをきょろきょろ探して、そうしてその青空の瞳とバチリと合う。小さなお顔が花火みたいに、パッと明るく華やぐのを確認して、私は大きく手を振った。

「ななこおねぇちゃんおかえり!」
「ただいま燈矢くん!」

 パタパタ走ってくる燈矢くんに両手を広げて、飛び込んできた小さな身体をぎゅっとぎゅっと抱き締める。可愛い可愛い私の為だけの"お帰りなさい"。なんて可愛い子なんだろう。今日も私の心臓はキュンキュンだ!

「今日も燈矢くんは可愛いですね〜」

 ───この可愛いには有効期限が付いている。

 そう分かってはいても、やっぱり燈矢くんはとってもとっても可愛くて、私はすっかりこの小さな幼馴染にメロメロになっていた。
 だって、可愛いのだ。もう何をするにしても可愛い。転んじゃった時に「ぜんぜんへいきっ!」ってえぐえぐ泣きながら強がっちゃうのは可愛いし、燈矢くんの一つ下の妹ちゃんに構っていた時、「おねぇちゃん。おれは?」ってちょんと小さく唇を尖らせて「……おれもう、冬美ちゃんよりかわいくない?」なぁんて袖をくんっと引かれた時はもう心臓がどうにかなってしまうかと思った。
 今だって私の薄っぺらい胸におでこをぐりぐりして、満足したらふにゃんとした笑顔で上目遣い。可愛い。最早完成されたこの可愛さ。

「俺、かわいい?」

 かわいい〜!

「うんっ! 燈矢くんは世界で一番可愛いよっ!」

 たとえ燈矢くんが将来どうなろうとも、今この瞬間は、私にはそれが真実なのだ!

「えへへっ。そっかー!」

 かわいい〜!!

「燈矢くんは今日はなにして遊んでたのかな?」
「遊んでないよ! お父さんにね、個性の"とっくん"つけてもらってンだっ!」

 燈矢くんは「えっへん!」と精一杯小さな胸を張った。わぁ可愛い。可愛いけど、こんなに小さくて可愛い燈矢くんに個性の特訓って何事。

「俺の炎、すっごくすっごくつよいんだよ! お父さんにもオールマイトにも負けないんだから!」
「へぇそうなんだぁ! じゃあ燈矢くんは将来ヒーローになるのかな?」
「あったりまえじゃん!」

 そっかぁ。じゃあこの歳から特訓するのも、当たり前なのかぁ。
 ちょっと疑問には思ったけど、「燈矢くんすごいねぇ」と私は燈矢くんの頭をよしよしした。
 燈矢くんのお父さんはあのNo.2ヒーローのエンデヴァーだ。つまりエンデヴァーも所謂お隣さんと言う括りに入るのだけど、ヒーローと私たち一家とのご近所付き合いは薄い。そもそも挨拶だってまともにしたことないくらい。まぁヒーロー活動で忙しいんだろうなぁ。
 でも、お父さんが大好きな燈矢くんには申し訳ないけど、正直なところエンデヴァーは私にはあまり興味のないヒーローだった。
 理由?
 おじさん、暑苦しい、厳つい、可愛くない。
 以上。

「おねぇちゃんは?」
「? なぁに?」
「将来。ななこおねぇちゃんは何になるの?」
「将来? そうだなぁ……」

 気持ち良さそうに蕩けた青空にそう聞かれて、私は少し考える。
 将来の夢。友だちはそれこそみんなヒーローになりたいって言ってるけど、私の個性はお世辞にもヒーロー向きのものじゃなかったし、ヒーローになりたいとも思わない。変に筋肉付いたら嫌だし。
 かと言って、特別なにかに成りたいというものも、無い。夢は曖昧で漠然だ。

「取り敢えず……将来は可愛いものに囲まれて暮らしたいかなぁ」

 うんと悩んで、考えて。その割に口から飛び出たのは、将来と言うにはあまりに稚拙なものだった。
 でも、これが今の私の本音。たくさんの可愛いものに囲まれて暮らすなんて、それってすっごく素敵なこと。私の為だけの幸せな世界に、思わずにひひって笑ってしまった。

「ふぅん」

 楽しい将来に耽る私を現実に引き戻したのは、すぐ近くの小さな相槌だった。いけない、いけない。今の顔、可愛い燈矢くんにはとても見せられるものじゃない。
 気の緩みに大きく首を振る私を、燈矢くんはジッと見上げていた。そうして、なにか思いついたのか。ハッとした様子で青いおめめをぴっかり光らせた燈矢くんは「じゃ、じゃあさ!」と興奮気味にぐんと大きく背伸びした。

「俺とおねぇちゃんっ、将来一緒に暮らせるね!」
「へ?」

 将来? 一緒? 燈矢くんと? なんで?

 たっぷりの自信を含んだ言葉に首を傾げる。将来は可愛いものに囲まれて暮らしたいって言ってるのに、なんで私と燈矢くんが一緒に暮らす話になってるんだろう。
 私にはさっぱり分からなかったけど、「だって」と燈矢くんが続けるので、どうやら答えは教えてくれるらしい。
 私はうん、と頷いて燈矢くんにその先を促した。そうしたら燈矢くんは丸いほっぺをポッと染めて、照れくさそうにこう言った。

「だって、俺、かわいいもん」

 腕の中の燈矢くんが、えへへと小さくはにかむ。自分で言ったのに、照れくさそうに、恥ずかしそうなその顔は、段々と彼の真っ赤な髪と同じ色に染まっていって……。

「か」
「か?」
「かーわーいーいー!!」
「わぁっ」

 心臓にピシャンと雷が落ちる衝撃に、私はがばっと小さな燈矢くんに抱き着いた。
 大きくなったら絶対こんなこと言ってくれないだろうし、そもそもきみは覚えてもいないんだろうけど。でもでも私だけはこの記憶、絶対の絶対に忘れないからね!

*

 私が上京すると知って、一番反対してくれたのがお隣さんの燈矢くんだった。大粒の涙を惜しげもなくはらはら零して「ななこちゃん行かないで」なんて、今生の別れみたいにさめざめ泣きつかれてしまっては、もうどうしたらいいか分からなかった。
 流石に血の繋がりの無い年上の女を「お姉ちゃん」と呼ぶのは恥ずかしくなったのか、もう「ななこお姉ちゃん」とは呼んでくれなくなったけど。それでも嬉しいことに、難しいお年頃と言われる年齢に差し掛かっても、燈矢くんはまだ私に懐いてくれていた。

「ただいま燈矢くん!」
「お帰りななこちゃん!」

 大学に入学してから、約四ヶ月振りの帰省。地元に帰った私がまず最初にしたことが、持ってたキャリーバッグを実家の玄関に放り投げて、お隣さんのチャイムを鳴らすことなんだから、やることも考えてることも結局小学生の頃から変わっていない。
 それでもチャイムを鳴らした後、燈矢くんが私の為にすぐに外に出てきて、そうして「お帰り」って言って抱き着いてくれるのは、いつだって私の胸をきゅんきゅんさせてくれる。もう習慣の一つみたいなもの!

「はぁぁ燈矢くんに会えなくて、お姉さんすっごく寂しかったよ……」

 腕の中のふわふわの髪に指を通して、四ヶ月振りの燈矢くん補給。
 夕焼けみたいな真っ赤な髪は、いつの頃からか、雪雲の輝きを放っていた。「俺も寂しかった」変声期前の男の子の声が胸の中をくぐもって、きゅうっと心臓が切なくなる。

「……本当に寂しかった」
「燈矢くん……?」

 腰に回った手が一度だけぎゅっと締まる。
 ちょっと、苦しい。不思議に思って燈矢くんの顔を覗こうとすれば、その前にふんわり笑った燈矢くんが顔を上げて、力が緩む。
 そっか。燈矢くん、男の子だもんね。力強くなったなぁ。

「ななこちゃんの家、上がっても良い?」
「勿論! あ、でもその前にお土産渡したいんだけど、今燈矢くんママはお家に……」
「いいよ、そんなの。あとで俺が渡しとく」
「え。と、燈矢くんっ」

 流れるような動作で手を繋がれて、私は燈矢くんに自分の自宅まで案内された。折角だから久し振りに燈矢くんママや冬美ちゃんにも会っておきたかったんだけど、それはまた別の機会の方が良さそうだ。
 玄関で「お邪魔します」と「……いらっしゃい? ただいま?」を済ませた後は、キッチンに寄り道をして、一緒に居間まで手を引かれる。
 本当は先に行ってて良いよって燈矢くんに言ったんだけど、「……ななこちゃんと少しでも一緒に居たいンだ」なんて天使本人に上目遣いでお願いされて、断れる猛者など居るのだろうか。少なくとも私はそんな猛者じゃなかった。最近の中学生、恐ろしい。

「電話じゃ一週間しかこっちに戻ってこれないって言ってたけど、大学生の夏休みってそんなに短いの?」
「うーん。休み自体は結構あるんだけど、あっちでやってるバイトが休めないからね。長い帰省は難しいんだぁ」
「……そっか」

 そう頷き、隣に座るターコイズブルーの硝子細工は物悲しげに微笑んだ。透き通る白雪の髪と肌と相俟って、その様子はあまりに、儚げで。
 まるで溶けて消えてしまいそうな淡雪の少年に、私は慌てて「で、でも!」と噛み噛みに言い募る。

「でもこの一週間は私、こっちに居るからさ! 燈矢くんの空いてる時間に遊んでくれると、お姉さん嬉しいな!」
「……本当?」
「うんっ、本当!」
「やった! じゃあ一週間、毎日俺と一緒に居てね!」
「ま、毎日? えっと、う、うん。分かった」

 え、一週間ずっと? とは思ったけど、しょんぼりした様子から一転、歳相応にパァッと輝きを取り戻した燈矢くんの笑顔の前じゃ、全ての優先順位がひっくり返る。ごめんよ友よ。明日の予定リスケで。調整は冬休み辺りでお願いします。
 にこにこ笑顔になった燈矢くんが、漸くお客様用のお茶菓子に手を伸ばす。すぐ下で上機嫌に揺れるくるりと回った旋毛に思わず手を伸ばしかけて、いやいや、だめだめ、と私はなんとか自分の気持ちを自制した。

「───そういえばさっき歩いてた時思ったんだけど。燈矢くん、この前より少し背が伸びたんじゃない?」
「! わ、分かる? うんっ、この前よりちょっとだけ伸びたんだ!」

 嬉しそうに甘味を頬張る燈矢くんは、早生まれということもあって同年代では小柄な方だ。なんなら同じ家で暮らす冬美ちゃんや上の弟くんよりもその背は小さいから、本人もちょっとだけ気にしている様子。
 でも久し振りに会った燈矢くんは、贔屓目無しに本当に少しだけ大きくなっていた。こういうのはずっと傍に居たら気付かない変化だ。ちゃんと成長期来てるよ、燈矢くん。

「分かるよ! だって燈矢くんすっごくか、ッ」
「……か?」

 ───しまった。

 すんでのところで自分で自分の口を塞ぐ。燈矢くんのキラキラ笑顔に夢中になっていた私は、ほぼ何も考えずに脳死で声を出していた。
 でもいけない。これはいけないことなんだ。不自然に一時停止した私を前に、燈矢くんは大きな瞳をぱちくりさせた。
 ええい、ままよ。よく冷えた緑茶をぐいと流し込んで乾いた口を潤す。そうして用意していた言葉を武器に、私は燈矢くんに向き直った。

「か、かっこいい! 燈矢くんすっごくかっこよくなったから、私すぐに分かっちゃったよ!」

 笑顔、不自然になってないかな。無理に上げた口角がぴくぴく緊張しているような気がしてならないけど。いやいや、大丈夫。今こそバイトで培った営業スマイルの見せどころだ。
 ───燈矢くん、『かっこいい』って言ったら、喜んでくれるかな?

「───え?」

 そう思っての言葉だったのに、燈矢くんの反応は私が思っていたのとまるで違った。
 大きな瞳は裂けてしまいそうなくらい目を見張り、戦慄くそこから「は、……」と続く。さっきまでの溌溂とした笑顔はすっかり消え失せて、その顔色は徐々に血の気が引いていって……。
 祈るような気持ちの数秒後、燈矢くんの唇から零れた音はとてもとても小さかった。

「と、燈矢くん?」「ななこちゃん、」

 心配と焦りが同時にぶつかり、フォークがカツンと畳を滑る。急なことに狼狽えた私を一歩置いた燈矢くんが、すぐそばの私の腕を鷲掴んだ。

「ななこちゃん、俺、かわいくない?」
「え、なに、痛っ」
「背が伸びた俺はもうかわいくないの? すきじゃなくなった? もう、きらい?」

 ───答えて。

 ギリギリと痛いくらいの力が片腕を襲う。それが泣いちゃいそうなくらい、痛くて。
 だけどそれよりなにより、沢山の絶望を経験したような、大切な幼馴染が私の目の前で苦しんでいる。漏れそうな悲鳴を噛み殺し、「と、うやくん、」と私は彼を呼んだ。

「ね、燈矢くん、聞いて……?」
「っ、」

 私、間違えたのかも。
 いっぱいの涙を湛える蒼天に胸がじくじくと痛んだ。

「ごめんね私、間違っちゃった。燈矢くんは凄く凄く、可愛いよ」
「っじゃあなんでさっき!」
「その……燈矢くんくらいの年頃の男の子って、『可愛い』って言われるの、嫌がるかなって……思って……」

 ───燈矢くんと離れて四ヶ月。初めて距離を置いた私の頭を過ったのは、「いつまでも男の子に『可愛い』は良くないんじゃないかな」ってことだった。
 燈矢くんは可愛い。これはもう揺るぎない事実だ。だけど、燈矢くん本人は『可愛い』って言われても、嬉しくないんじゃないかなって。
 だって燈矢くんは男の子だもん。それも枕詞に『お年頃』が付く男の子。そういう男の子は特に『可愛い』って言葉は褒め言葉とは反対に聞こえてしまうらしい。実際中学の頃、クラスメイトの男の子に「可愛い」って言ったら、真っ赤な顔で怒られた。時と場合によっては、人は可愛いものを素直に可愛いと愛でてはいけないのだ。
 人の嫌がることをするのはダメだし、それが燈矢くんなら尚の事。男の子には『かっこいい』。燈矢くんにも『かっこいい』。たとえ本心じゃなくっても、きっとこれが正解だって、
 そう、思ったんだけど……。

「そ、それだけ……? 俺のことかわいく思えなくなったとか、そんなんじゃない……?」
「嘘じゃないよ! 私今日燈矢くんのこと可愛いって、百回以上は思っちゃったもん!」
「そっ……か」

 はぁぁぁ。長い、溜め息。
 脱力した燈矢くんが私の身体に撓垂れる。俯いたその瞳が安心しきったように閉じられて、その姿は私が如何に浅慮な言葉を吐いたのかを、酷く後悔させるものだった。

「……俺、ななこちゃんにかわいいって言ってもらうの、全然嫌じゃないよ」
「ごめ、ごめんね燈矢くん、燈矢くんは世界一可愛いから安心して!」

 そりゃ赤ちゃんの頃からずっと可愛い可愛いって言ってきた人間から、急に可愛いって言われなくなるなんて、燈矢くん不安になっちゃうよね。
 なんとか燈矢くんを安心させるように、ぎゅっと小さな身体を抱きしめる。ハグには幸せ効果が認められてるもんね!

「……ね。あの話、まだ将来設計に入ってるよね?」
「あの話?」
「かわいいものに囲まれて暮らす夢」

 唐突に飛んだ話に少し躊躇するけれど、すぐに「ああ、あれか」って私は頷いた。燈矢くん、あんな昔の話、よく覚えていたね。

「それさ、俺も入れてほしいな」
「燈矢くん、も?」
「うん」

 ───ななこちゃんとずっと一緒に暮らしたい。

 続く言葉に心臓がドキリとした。昔は───燈矢くんが小さかった頃は───きっと意味も分からないで言っていただろう言葉。だからこそ可愛いと思って抱き着いたりしたけれど……でも今は昔とは違う。
 燈矢くんはしっかり成長していて、そんな子が真剣な瞳で私に「一緒に暮らしたい」と言う。
 その意味が分からないほど、私は子供じゃなかった。

「燈矢くん、それって……」
「ちゃんとしたプロポーズはヒーローになってからするよ。でも、条件には合ってるから大丈夫でしょ?」

 ───だって俺、ななこちゃんの世界で一番、かわいいもんね。

 いつの間にか捕まえられた掌が燈矢くんの頬に添えられた。次いで小首をゆっくり傾げて、うるうるの瞳と蕩けるような笑顔でそんなことを言われるものだから。
 最上級のドキドキを見ない振りして、私はなんとか大人のプライドを掻き集めて、「とと燈矢くんが大きくなってもそう言ってくれるなら」と、情けない震え声を零すしかできなかった。

*

 まさかの恋心泥棒をしていたことに気付いた私と燈矢くんとの一週間は、あっという間に過ぎ去った。
 小さな弟のようだった存在は、あの日を境に一週間中ずっといじらしいアピールを私に続けてくれた。
 私はと言うと、そんな燈矢くんを目一杯可愛がりつつも、このドキドキが燈矢くんが可愛いという意味のドキドキなのか、それとも別のドキドキなのか、分からないまま一週間が経ってしまっていた。

「あのさ、もし俺が……────っても……」
「え?」
「……やっぱりなんでもない。行ってらっしゃい。気を付けてね」

 帰ってきた時とは全く違う「行ってらっしゃい」と「行ってきます」を繰り返し、私は地元を後にした。


 そうして次に燈矢くんと再会した時。燈矢くんは初めて会った時よりも、ずっとずっと小さくなっていた。


 モノクロの幕に包まれた寒々しい空間で、この薄汚れた悍ましく小さなものを、皆が燈矢くんだと呼称する。
 何をおかしなことを言っているんだろう。
 確かに燈矢くんの髪はゆっくり彼のお母さん譲りの色に変わっていったけど、でもそれはこんな煤に塗れたものじゃない。あの子のそれはもっと可愛くて素敵な、冬に降る雪花のような色だった。
 だからこれは、これは燈矢くんじゃない。燈矢くんなんかじゃ、ないんだ。
 だって、燈矢くん、成長期だったもん。小さくなる筈がない。それに、あんなに可愛い顔で、プロポーズはヒーローになってからなんて、そんな、そんなマセた、約束───!

「お姉さん」
「ふゆみ、ちゃん」

 瞳を真っ赤に染めた女の子が、引き寄せられるよう私の元に辿り着く。
 冬美ちゃん。もう随分会っていなかったけど、元気だった? 見ない間に大きくなってて、お姉さんびっくりしちゃったよ。今日は冬美ちゃんママは見かけないけど、どうしたの? 燈矢くんは、
 燈矢、くんは……、

「お姉さん。燈矢兄、死んじゃった」
「ぁ……っ」

 泣き崩れる冬美ちゃんを抱き留めて、私は漸くその黒縁の額に入った写真と瞳を合わせた。

 ───燈矢くん。全然可愛くないよ。

 一部しか見つからなかった小さな骨も。もう二度とにこりともしない詰襟の遺影も。

 全然、可愛くないよ。

*

 瞬き一つしない蒼い天使に鈴を鳴らして手を合わせる。白檀の香りに包まれた少年は、永遠の若さを手に入れる代わりに、額縁の中で虚空を見詰めることしかできなくなってしまった。二度と絡み合わない視線から目を逸らして、私は仏間を後にする。

「すまない。緑茶で良かっただろうか」
「ああいえ、お構いなく」

 大きな身体を丸めてお茶を用意するNo.1ヒーローに、一方的に気まずくなってしまう。
 エンデヴァー、基、燈矢くんパパと私がまともに話すのは今日が初めてだから、なんだか気分が落ち着かない。長い間お隣さんだったっていうのに、随分おかしな話だ。

「今日はお忙しい中すみません。どうしても仕事の都合で、冬美ちゃんと予定が合わなくて……」
「いや。……娘から聞いている。毎年この時期、燈矢に手を合わせに来てくれると」

 燈矢くんパパはまるで眩しいものでも見るかのように私を見詰めた。
 だけど、実際のところはそんなに良い話じゃない。正しい事実は、一年に一回だけしかこの地に戻る勇気がないと言うこと。
 あれからもう何年も経っているのに、実家も、轟家も。燈矢くんの残り香を感じては辛くなる。私にとって、故郷はそんな場所だった。

「燈矢のことを忘れないでくれて、ありがとう」

 燈矢くんと同じ色の瞳を緩めたエンデヴァーに、私は「……いいえ」と小さく返すしかできなかった。

 ……ねぇ燈矢くん。かっこいいね。
 きみの大好きなお父さん、今はNo.1ヒーローになって皆を守っているんだよ。
 エンデヴァー、とってもとってもかっこいいね。

.
.
.

 ……言えなかったな。
 駅まで送ろうという赤髪のヒーローの申し出を断って、一人住宅街をのんびり歩く。吐息は白く染め上がり、冬の大三角に溶け消えた。

 私、あなたの息子さんに恋していたんです。
 五つも離れた年下、しかも中学生相手ですよ?
 ほぼ告白してくれたようなものだったのに、亡くなった後に自覚したんですから、世話ないですよね。
 それをこの歳になってもまだ引きずっていたんです、私。
 笑えないですよね。あはは。

「───でも、もういいよね」

 もう良い年齢だ。煤に塗れたこの恋心はいい加減失恋に昇華しないと、私も燈矢くんも救われない。

「私ね、燈矢くん」

 いつか夢見た未来予想図は、たった一つを除いて完成した。
 私の、私による、私の為だけの。そんな可愛いを詰め込んだ素敵で幸せな私の城。
 きみとそこで暮らせたらって、どれだけ想像しただろう。きみの将来の姿を、どれだけ夢想しただろう。あり得もしない幾度の妄想を、どれだけ脳裏に描いただろう。
 ───そんな妄想を止めてくれた人が居るんです。一緒に暮らそうと言ってくれた人ができたんです、と。かつてのきみと同じ色を持つあの人に、どうしてそんなことが言えるだろうか。


「きみのこと、大好きだったよ」


 ───蛍火みたいな恋だった。

 ずっと消えずにいてくれた小さくて可愛い炎に息を吹き込み、私はその恋を昇華した。










「"だった"じゃ、困るンだよなァ」

 ───……え?

 私の独り言に反応しただろう声に振り返る。
 いや、振り返ろうとしたんだ。だけどその隙も無く、背後の気配がいきなり動いて、私の身体を拘束した。

「な、にっ!?」

 うそ、どうしよう。変質者?
 背後から抱きすくめられる感覚は、明らかに男の体格だった。パニックに陥った私が必死に暴れてもその大きな身体はビクともしないで、次いで視界が男の手で遮られる。両の目玉の上に陣取る骨張った手は異様な熱を持っていて……。
 一瞬だけ目に入った男の腕に色々な思考が入り乱れる。それでも早く声を出さなきゃと、私は大きく息を吸い込んだ。焦げた匂いが肺に張り付いて、どうしようもなく気持ち悪い。

「たッ───!!」
「おーっと」
「んぐッ!?」

 焦げ臭い匂いが強まって、うっと吐き気を催す。「静かに、な?」Shhhhと耳元で鳴る息の音と何かの詰め物で犯される自身の口内。視界は相変わらず男に支配されていて、この異常事態に馬鹿になった心臓が緊急信号が送るけれど、私にできることなんて男の手の中で恐怖の涙を流し続けることしかできなかった。
 あの紫色めいた、人とは思えない腕を、知っている。継いで接いだような境目を持つ男を、私は連日のニュースで知っていた。
 な、に、一体何が起こっているの───!?

「───なァななこチャン」
「っ!?」

 ど、うして……どうして指名手配されているヴィランが、荼毘が私の名前を知っているの……?
 悍ましい恐怖が全身を駆け巡った。それは私の身体を無遠慮に撫でまわす左手だったのか、それともすぐにでも発火しそうなほどの熱を蓄える熱い右手だったのか。酸素の薄い頭ではもう分からないことだった。

「っはは。やっぱりカワイイなァななこチャン」

 くつくつと荼毘ヴィランが喉奥を震わせる。私の反応が面白いと言わんばかりに笑って嗤って嘲笑って───、

「ななこチャン」

 そうしてヴィランは唄うように、私の耳元へ囁いた。


「カワイイ子はスキですか?」


 ───カワイクなくなった子はもう、キライですか。


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