21
「ごめんなさい」
水が氷に纏わり付き、そのままひとつ、堕ちていく。
いくつもいくつも生み出して。堕ちて、堕ちて、融けていく。
「ごめんなさい」
譫言だった。
熱に浮かされたように続く言葉は、涙と共に落ちていく。たった一人の片割れが、燈矢だけにはと最後の最期まで隠し通したかっただろうその本音。
他でもない燈矢自身がその悲痛な言葉を聞き出してからもうずっと、眼前の少女はただただこの調子で謝り続ける有様だった。
哀しいほどに美しい氷華を散らす瞳は怯えるように閉ざされて、縁取る睫毛が揺れ動く。「ごめんなさい」万感に溢れる声は壊れてしまったレコードのようで。「ごめんなさい」こうして燈矢が支えていなければ、すぐにでも溶けて消えてしまいそうで、
「しなせて、くだ、さ、……っ」
───そうして煙る睫毛に隠された蒼が限界まで開かれていく様を、気付けばこの世で一番近くで見詰めていた。
濃くなる蒼の瞳孔とかち合ってしまったけれど、それでもあんまりにも酷い言葉を吐かれるより、こうして自身に食まれているそれの方が、よっぽどよっぽど理想的と。燈矢は信じて疑わない。ぐっと、一層押し付ける。馬鹿みたいに凝視し合いながら数年越しの感覚を味わっていれば、燈矢の手から逃げるよう、その身を後ろへ身動ぐから。
支える手を解放して、そのまま好きにさせてやる。
「っふ、…ぁ、」
「っ、と」
畳に沈む直前に片手を後頭部へ差し込んで。軽い身体を受け止めて、そっと半身を横たえた。
……ひっでぇ味。
混乱に狼狽え定まらない焦点を眺めながら、燈矢はそんなことを思う。これはもっと甘くて、もっと素敵なものだったのに。もう戻れない過去を想い、ぐい、と伝う水を乱雑に拭う。滴り落ちて溜まった水が、あの素敵な味を変えてしまったのかもしれなかった。
擦った腕をどければ、丁度震えるそこが小さく開いては閉じてを繰り返しているのが目に入り。
そこからなにかの意味が零れてしまう前に、明快に、先手を打つ。
「すき」
「、………、き、……っ…………?」
───すきだった。
吐き出す音に呼応して、ひゅっと息が詰まる音ひとつ。少年のものではない。大きく拡がっていく瞳孔を持つ、お揃いの瞳の女の子。父親と自身と、三人だけが持っていた、お揃いの蒼い瞳の女の子。「俺……ほんとうに、…だいすき、だったんだよ……っ」たった三文字の意味を理解して絶望してしまう、壊れてしまった、女の子。
その涙が好きだった。
残酷な言葉にぽろぽろ氷涙を零して悲痛に歪むその真横に、燈矢はそっと両手を置く。誰に拭われることなくただただ降り続けるその宝石には、きっと人を可笑しくさせてしまう物質があるに違いなかった。
憐憫一つも誘えない果実を直視しないよう注意して、燈矢は精一杯の心を込めて、絞るような声を出す。
「ごめん、俺だって冷奈の、こと……っ嫌いになんて、なりたく、ない……っ、なりたくッ!、……ないん…だよ……っ」
そうすれば燈矢の身体に隠された子は大袈裟に身体を震わせた。ガクガクと絶望と恐怖に震える姿のなんと可愛そうなことだろう。
ああ可愛そうになあ。可愛そうに。
───おまえはほんとうに、可愛そうだよ。
「ねえ冷奈ッ、冷奈はさ、俺のこと…きら、い……な、の……?ぜんぶ、冷奈のせいで、俺、失敗作になっちゃったから……、っそんなことされるくらい俺、おまえに……嫌われてたの、かな……っ、」
そう吐き捨てて、吐き捨てて。「ッ、!?」絶句する瞳から逃れるよう細い首筋へと縋りつく。発作でびくつく細い喉は、自然、走る引き攣りを燈矢だけにと魅せつけて。奪われる視界に碌な抵抗一つせず、ツ、と繰り返し愛撫する。
残るかな。
…残れば、いいんだ。
止血と火傷のふざけた取引。夜目にも眩い白い肌にはその真新しい痕がよく映えた。
息を、整える。寒さと涙に熱を奪われ続けたその身体は酷く非道く冷えていて、だけれど確かに響く音と脈に、燈矢は心から、ホッとした。
「そ、んなこと…っ…!わ、わたし、ッひ…っく、!、ごめ…なさ…ッ、、で、もッ!!と…っやくんのこと、っひ、…っきっ……ッきら、いなんか、お、おもった、こ…とッ!!わ、たしッ、わたしッ!!ずっ、と、!……っふ、…ぅ、ッずっ、と、!、と…ぅ、やくんの、ことッ───!!」
───続く濡れた健気な言葉!
「せかいでいちばんだいすき」、なんて。しゃくりと共に響くそれに、心臓は盛大に歓喜の音を立てた。
ああ、良かった、正解だ! 間違えたらどうしてやろうかと思ったけれど、それはどうやら燈矢の杞憂のようだった。首筋から顔を離す。堰を切ったように涙する瞳と目が合って、もう、良いかと思った。ずっと拭われもしなかった可愛そうな氷涙を拭ってやろうと、その目尻にゆうくり近付いて……、
少し考え、揺れ動く瞳の方へと、自身の舌を差し込んだ。
「っ、……」
反射で閉じてしまう、その前に。柔い粘膜同士を触れ合わせ、蒼をひと時舐めてやる。
極上の飴玉もかくやの美味に、燈矢は息を吐き出した。
「れな……」
飴、そう、──飴。
ご褒美の飴が必要だった。
たった今目の前の人間に眼球を舐められたというのに、抗議も抵抗もしないで怖々燈矢を見上げるだけのイイ子なお人形には、甘くて素敵な飴が必要だ。
本気で死ぬなんて馬鹿な行動に至った頭の弱い間抜けには、麻薬をたっぷり含んだ甘い甘い飴をこの小さな口いっぱいにしゃぶらせるのが、きっと良い。
離れないよう、薬に漬けて、夢を魅せて、依存させて。
……そうしたらもう、燈矢から、逃げない。
逃げるなんてさせない。
逃げようとも、思わせない。
ずっとずぅっと、燈矢と一緒だ。
「なあ冷奈」
「っ、な」
「俺ね、冷奈に酷いことたくさん……たくさんされたけど、…でも本当は冷奈のこと、嫌いになんて、なりたくないんだ」
「…、!」
「また冷奈を、すきになりたい」
「………、…、ぁ…っ…、」
空虚を宿す絶望が、ほんの少しの燈を灯す。
仄暗く光る、明媚な夜明け。自身だけを映す、一対の。
見開くそれに覚えたのは、紛うことなき充足だった。
「……だから、さ…これから、役に立ってよ」
「…、や……く……、?」
そう。"
理由"だ、と。ゆうくりゆうくり繰り返す。
「これから先、俺のためだけに生きて、俺の言うことだけをしっかり聞いて、俺のことだけを見て、俺のことだけをずっと愛してくれるなら……冷奈が俺にしたこと、ぜんぶ許してあげるよ。勿論嫌いになんて、絶対ならない。ずっとずぅっと、冷奈のこと、愛してあげる」
冷奈さえ愛してくれるなら、燈矢だって冷奈を愛してあげる。
馬鹿にでも分かる簡単なこと。こんな簡単なことで、燈矢は罪人を許して"あげる"。なんて嬉しいことだろう! アイの情を声に溶かして、甘く優しく震わせた。
───怖かったね。俺に責められて。
───恐かったね。俺に痛いことされて。
「ほ…ん、…と……?」
───こわいよね。俺に、嫌われるのは。
「本当だよ」
「や…くっ、!、やくに、やくに、たった、ら…っ!!」
「嫌わない。冷奈のこと、ずっと愛するって、約束する」
───おまえさえ、俺を愛してくれるなら。俺はおまえに約束するよ。
何度も、何度も。
重ねて燈矢が囁けば、目の前の蒼は分かりやすいほど揺れ動き、とろりとろりと溶けていく。
相も変わらず分かりやすい。気取られぬよう悟られぬよう、頬の内側を強く噛む。
そうでもしなければ、気を抜けばすぐにでも嗤ってしまいそうだった。
「、わ、たし…っやくに、……ったて、っる、か…な……っ」
そんな様子を露とも知らず、下へ下へと視線を落として堕ちる声は、疾うに自信という自信を失くしている。
震え、怯え、涙を零し。しかしそれでも微かに希望を宿し始めたそれ。たっぷりのアイを手のひらに込める。慣れた手つきで柔い髪を梳いてやれば、うっとり瞳を細めるから。
「……立てるよ。冷奈はさ、俺がさっき言ったことを、ぜんぶ守ってくれるだけで良いんだから」
よくできましたと頭を撫で、大丈夫だよと優しく繰る。
生きる意味も、縋る先も、逃げ道だって。全て自分が用意する。用意してあげるから。
だから───、
「……これで死にたいって気持ち、少しは無くなった?」
「、…」
───だからその最悪の逃げ道だけは、今ここで潰しておこうな?
「───冷奈ちゃん」
「、ぁ」
呼ぶ名のその意味を、その温度を。片割れが───冷奈が分からないわけがなかった。
気まずげに逸らされた瞳が、ふらふらと燈矢へ戻ってくる。甘い飴に吸い寄せられるその姿は、正に抵抗できずに糸にかかった憐れな憐れな被食の者で、
───だったらこの巣に羽根はいらない。
もう二度とどこにも行かないように、その柔らかな羽根はもぎ取ろう。冷奈の世界には燈矢だけ。それでいい。やっぱりそれが正しかったのだ。懇願の声に毒を垂らし、美しい羽根に手をかけた。
頬に、水が落ちる。
「おねがい。勝手に死なないでよ。俺に償いたいんならさ、生きて役に立って償って。勝手に死んで、勝手に一人で満足するのだけはやめて。冷奈ちゃんは俺の一部なんだよね?……だったら冷奈ちゃんが死ぬ時は俺が決める」
「───ッ」
「俺の役に立って立って立ち続けて、そのあとまだ冷奈ちゃんが死にたいって思うンなら───その時は俺がころしてあげる」
「、!」
燃やしてやるさ、こんな身体。
髪を撫ぜ、額を擦り、蒼と蒼とを絡め合わせる。
曖昧な霧の甘言は、それでも冷奈には充分だった。息を飲み、言われた言葉をなんとか咀嚼する冷奈が、考えて考えて考えて考えて気が狂ってしまった果ての最悪。
ただただ燈矢に嫌われたくなくて自身の生すら捧げようとしたアイは、だからと言って本当に死のうとしたことだけはどう考えても間違っていた。
はじまりの時、燈矢が冷奈に息を与えてやったように。
燈矢ももう、冷奈が居なかったら息することすらできないのに。
「…………ゃ………く……、」
「…ん?」
「やく、に……たてたら、」
───×して、くれる?
暗闇の中、薄ら寒い希望に溢れた声と瞳は、それでも燈矢だけに向けられたものだった。
水が、落ちる。
擦り合わせた額をそのままに、今度は快温の熱だけをその冷えた身体に与えてやる。熱が氷を犯していき、強ばりはゆるりゆるり解れていく。無防備に、不用心に。
燈矢の腕の中のこと。
「……うん。俺が冷奈ちゃんのこと×してあげる。だからもう、俺の許可なく勝手に死のうとしちゃ、ダメだよ。……いいね?」
───やくそくだよ。れなちゃん。