09

《───早く、》


声がする。

もうずっと。知ってしまった、あの時から。


「ッわかるはずないだろ───ッ!」


血を吐くような声だった。

思いの丈全てを出し尽くさんばかりのそれが、正しく彼の本心だった。

そんな声を聞いて、尚。
握られた手首がマグマのように熱を持って、尚。
床板に突き刺さったままの視線を、上げることができなかった。

だって、そんなの───どの面晒せば良いって言うの……?

肺が張り付いたようだった。なんとか取り込んだか細い空気が留まる間もなく逃げていく。上手く、吸えない。上手く、吐けない。

もう、隣を、歩けない。


「俺を見ろよッエンデヴァーッ」


強く恐ろしい咆哮に、強く強く視界を闇に塗り潰す。目蓋の裏には、お母さんの腕に抱かれて眠るたったの数分しか見ることが適わなかった生き物の、悲惨な末路。
闇の中、チラチラと白く爆ぜる光がなんなのか、

それが何をしてしまうかなんて、そんなのその火を見るより、明らかで。


「俺を見ろよッ!!」


離れていく。
離れていく。
優しくてあったかい、彼の手が、離れていく。

きっとまた、火傷する。へっちゃらだよ! なんて強がって、隠して、無理をして。


───その手をただ、冷やしたかった、だけだったんだ。


《───早く、》


ピクリとも動かない目蓋と腕とは正反対に、両足だけは自由だった。
ひとつ、ふたつ、従順に。
火傷を作る手を取る事もせず、一歩、二歩と踵を擦る。

床を蹴る、音がして。幼い悲鳴が耳を劈き、焦げた異臭をぶちまけた。

向かった先は酷い地獄。見なくても分かるその世界は、わたしが破壊し尽くしたものだった。

めちゃくちゃの、ぐちゃぐちゃに。破壊し尽くした、ものだった。


そんな世界から目を逸らし、擦る足をそのままに背を向けたわたしは───


───たったひとり、逃げ出した。


.
.
.


《───早く、》


この世界に生を受けたと気付いてからの少し。
おまえは本当に生きていたのかと聞かれたら、生きてはいなかったと首を振る。

息はしていた。ご飯も食べていた。でもヒトとして生きていなかった。

意識の大半を意図的に夢の中へ溺死させていたから。

生まれ変わったと気付いた時、最初は確かに嬉しかった。
結局あのまま死んでしまってたことや、どうしてだかまたパパとママの子供にも、お兄ちゃんの妹にもなれなかったことには落ち込んだけど、それでも。
わたしが願った通り、わたしはまた人間として産まれたから。

嬉しかった。まだ歩くこともできなかったけど、早く家族に会いたかった。

たとえ血は繋がっていなくても。
髪の色が違っても。
苗字も名前も違っても。

きっと三人なら、家族なら、分かってくれる筈。わたしはそう信じて疑わなかった。
家族との再会が、心から待ち遠しかった。


───間違いに気付いたのは、すぐのこと。


微睡みの中、母を自称する女性がテレビに映った顔の燃えている男を指差し「お父さんよ」と告げた時。
纏う炎や繰り出される必殺技、そうして対敵するドロドロとしたスライムのようななにかが、ドラマの撮影でもCGでもないことを真面目なニュース番組が示した時。

漸く、わたしは産まれる世界を間違えたことを理解した。

瞬間、絶望。
きっと幼子が晒して良い顔ではなかったんだろう。女性は驚いた表情でわたしの額に手を当てて、さっきまで興奮気味にジタバタしていた隣の男の子にすら「だいじょうぶ?」と掌をぎゅっと握られた。

それがなんだか酷く───怖くて。
知らない赤の他人に大切ななにかが侵されるような気さえして。

ぐらぐら揺れる視界に素直に目を瞑ってそのまま暗転、ブラックアウト。暫く意識を遮断した。


だって、あんまりじゃないか。


折角また人間に生まれたのに。両親にも、会いたいとそう望んでくれた人とすら、わたしはもう二度と会えなくなってしまったんだ。
会いたかったから願ったのに、その三人に会えないなんて。……そんなのなんの意味もありはしない。
だったらこんな記憶いらなかった。


悲しくて。辛くて。すごくすごく、寂しくて。


身体はどこも痛くなかったけど、頭痛と眠気は酷かった。
ねむくてねむくて仕方なくて、起きていても知らない人達が家族ごっこを強要してくるからと、降る気味の悪い睡魔にも抗うことなく夢に逃げた。

……もう夢の中でしか、本当の家族に逢えなかった。


そんな生きてる振りだけをしていた夢見心地の世界の果て。
どうしようもないポンコツが辛うじて死ななかったのは、いつも隣に居た男の子のお陰だった。

男の子はこんな寝こけてるだけのダメ人間にもいつだって優しかった。
しかたないなぁ、なんて言いながら、それでも決して見捨てられるなんてことはなかった。

どうして彼はあんなにもわたしに優しくしてくれたんだろう。今でも不思議で、でもあの時は正直どうでもよくて。
髪を撫ぜてくる手が哀しくなって、わたしはいつも目を閉じた。

彼がわたしの『とくべつ』で『うんめい』だと勘違い・・・するまでの、話のこと。


《───早く、》


異性一卵性双生児。

今でも夢に見る、大好きなママとの大切な思い出。
ママが教えてくれた、すてきなすてきな双子のお話。
それがわたしと男の子だと、小さなお喋りは、そう言って。


しゃぼんがぱちんと、弾けて消えた。


この世界に来てから最もクリアな視界と思考。息をのみ、恐る恐ると隣の熱を振り仰げば、やっぱりそこには赤い髪の男の子が居てくれて……。

───そこにママは勿論いない。

だけどママとの繋がりのようなものを感じて……そうしてひとりぼっちじゃなかったことを、わたしは一人噛み締めた。

ひとりぼっちの寂しい世界が、たちまち色付き、たちまち踊り、たちまち笑顔を取り戻す。

ずっと、もうずっと。たまごの時から隣にいてくれたんだと理解して。
心にぽっかり空いた穴が鮮やかな紅に染まっていき。嬉しくなって、知ってほしくて、片割れにもと囁いた。

大切な秘密を打ち明けるよう密やかに、囁けば。知らなかっただろう片割れの彼は、大きく大きく瞳を見開き。そうして、その髪色とお揃いに頬を染め、うっとりうっとり微笑んだ。

もう……寂しくなかった。

大好きな三人には会えないけど、それでもいつだって傍には彼が居てくれた。
優しい声で名前を呼んで、あったかい腕で抱きしめてくれる。
わたしがしくしく目を塞いでいただけで、よく見渡せば、彼も、お父さんもお母さんもふゆちゃんだって。わたしの周りには最初からみんな居てくれたんだ。

そうしてわたしは漸く、この世界の新しい家族を受け入れることができて。
この世界の新しい家族を受け入れることができて。
受け入れることができて、
受け入れる、ことが


《───早く、》


───なにを思い上がっていたんだろう。


上から目線も良いところ。
ただの異物の虚言妄言戯話。
分不相応に求め過ぎた己の罪の成れの果て。


『ひとつのたまご』『一卵性』『うんめい』『元々一人』『残酷』『必要のない冷奈』『地獄』『理想個体』


ぐるりぐるりと駆け回る。

全て統合し考えさえすれば馬鹿で愚かな単細胞にでも分かる至極簡単なことだった。

随分前に「エンデヴァーのせいだ」なんて全てをお父さんに押し付けたアレは、恐ろしく短絡的な冤罪だった。

元々、最初から、前世から。わたしのたった一つのあの傲慢な願いが全ての元凶であることを、産まれた理想が証明した。


───【轟燈矢】という人間は、本当の本当は一人で生まれてくる筈だったんだ。


父の炎、母の氷、二つの『個性』とその耐性。

全てを持って産まれる筈で、それが【彼】の幸せに繋がる筈だった。


その全て、奪ったのは───わたしだ。


氷も耐性も幸せも。
【轟燈矢】が持つべき全てを、奪い掠め取り強奪した。
厚顔無恥に擦り寄って、見当違いな言葉を吐いた。


なにが運命。なにが特別。愚かで手酷い、裏切り者め───!


きっと、きっと。わたしが願いさえしなければ、彼は全てを持って生まれていた。人間なんて願わなければ、きっとわたしは【轟燈矢】の『半冷』かつ『炎熱耐性』の細胞として【彼】を支えていく筈だったんだ。

なのにわたしは願ってしまった。
望んでしまった。
無様にヒトとしての生に執着してしまった。

そのせいで完成されていた筈の【轟燈矢】から、よりにもよってな齟齬のある奪い方で個性と耐性を奪い分裂し、【轟冷奈】という『人間』を誕生させてしまった。
彼の人生をめちゃくちゃにして───!


《───早く、》


───ああ、つまり……何が言いたかったんだっけ。

……そう、つまりはもう……意味なんてないってこと。

本当は最初から、なぁんにもなかったって、話。


わたしはもう知っていた。お父さんの言葉が真実だということを。
わたしという細胞さえ分裂しなければ、【彼】は幸せになれたということを。

だけど、彼はそれを受け入れなかった。何度謝っても聴かなかった。
抱き締めて、髪を撫ぜ、甘く優しく囁いた。


氷が溶けてしまわないように、だから二人で産まれたんだと。
冷奈ちゃんが溶けなくて、本当に本当によかったと。


繰り返し、繰り返し。
何度も、何度も。
過ぎる優しさが毒になることを、わたしは身をもって理解した。

そうして、怖くなった。
この優しさが途絶えた時、彼は、わたしを───、


《───早く、》


悔恨と恐怖と毒に塗れる日々を過ごす中、母の腹がまた膨らみ始めた。
『次』がまた、産まれてしまう。
なっちゃんの時は大丈夫だった。なっちゃんは『次』になれなかった。

だけど…………今度こそ『次』が産まれたら?

毎夜月を描くその存在に、追い詰められる気分だった。
今はまだ、彼は否定してくれている。
誤認のままに、わたしの存在を許してくれる。
儚い希望に寄り縋って冷熱を分かち合ってくれる。

だけど、だけど今度こそ『本物』が目の前で産まれたらと思うと……、もう、駄目だった。


《───早く、》


ほとんど何も喉を通らず、無理に食べては吐き戻し。腹のソレが産まれる前に早くはやくと『個性』を強め、酷い痛みと寒さに肉体は馬鹿正直に不如帰ほととぎすの赫。だけど、それだけ。それでも駄目ならと規定外の薬を飲み干して……、上手く行かずに、オーバードーズでやっぱり嘔吐。学校も暫く、行っていない。

何一つ上手くいかなかった。
奪った物とその遠因だけじゃ声の通りに至れなかった。
わたしはなにをしてもダメダメで、

そうして───間に合わなかった。


今日、この日、最早呪いのその前夜。
お母さんが退院した。数日前に出産した、あの生き物を抱いて。

その姿を一目見た瞬間、縋り続けたか細く儚い希望がバラバラに砕ける音を聞いた。


かつての彼と、今の彼。


その二色を、産まれた瞬間から、いっそゾッとするほど均等に持って産まれた、生き物。

誰だって一目で分かった。

アレは全てを持って産まれた仔。


アレが、アレこそが…………わたしが分不相応に望まなかった世界の、【轟燈矢】その人だった。


『何故分からない……ッ!冷奈ッおまえもだッ!ここまでの火傷を負う燈矢を何故止めない!?何故助長する!?燈矢が心配だと思えないのかッ!?』


───その後のことは、よく覚えていない。

お父さんが彼とわたしに何かを言っていたような気はする。
その言葉に彼が激昂して、炎を纏って、あの生き物に襲いかかって。……わたしはそんな彼とは逆の方向に走り、走り。脱兎のごとく、逃げ出した。

気付けば部屋の中、押し入れの中、まだ敷いていない二組の布団の間に隠れるようにして膝を抱え、息を殺し、両の耳を必死に必死に塞いでいた。


《───早く、》
「、っく、……ぅ、あ……」


───声が、止まないんだ。もうずっと。ずぅっと。


心配だった。わたしだって心配していた。痛々しく変色する肌を、誰が笑って見ていられるものか。

だけどそれは彼には要らないもので、だからせめて隣で冷やそうと、そっとその手を取ったんだ。

わたしが頑張ればまた二人が仲直りできるかもしれないって、わたしなりに精一杯努力した。

───それがとんだマッチポンプだったなんて、本当の、本当に……知らなかった……ッ!


《───早く、》


もう、だめだった。

わたしが願った結果、『ここ』に会いたい家族は居なかった。
わたしが願った結果、大好きになれた人の人生をめちゃくちゃにした。


───意味なんて、ない。


震える手を塞ぐ耳から離してやれば、声は一層よく透る。

意味なんて、なかった。
家族に会えなかったその時から。あの三人に会いたかったから、わたしは次も人間にって願ったんだ。

でも会えなかった。産まれた意味なんて、わたしには最初から無かったんだ。
それどころか、彼が得られた筈のたくさんのものを、わたしは悉く全てを奪い尽くしたんだ。


───限界、だった。


《───早く、》
「……、ぅん……っ、」


ジクジクと痛む心臓に身を縮め、両手にそっと力を込めた。奪った『個性』は従順に、パキリパキリと冷えた空気を荒く鋭く象って。

手のひらに落ちたたった一つの氷柱こそ、遅過ぎた覚悟そのものだった。


「……っふ、……ぅ……」


創った覚悟に力を込め、薄い皮膚へと突き立てる。『まえ』とは真逆のその想いに、深く大きく深呼吸。

大丈夫。
大丈夫。

ツ、と一筋の垂れる赫は涙と違って生暖かく。酷く荒く創った氷は、きっと一思いでは至れない。


《───早く、》
「……ん、……はや、く…………、」


それでいい。それでよかった。
せめて、せめて。苦しまなければいけないことくらいは、わたしにだって分かること。

押して引いてを繰り返して。
深く深く突き刺して。
たくさんたくさん赫を出して。


そうしてわたしがぐちゃぐちゃにした世界のように、この首筋もぐちゃぐちゃにすれば良い。



《───早く、死ね》



死んでしまえばいい。



『燈矢が心配だと思えないのかッ!?』



轟冷奈なんて、死んでしまえばいいんだ。



『───ね、冷奈ちゃんなら……分かってくれるよね?』



「、ごめん、なさ…、っ、!!」



───心配よりも、仲直りよりも、本当は、本当、は…………、


全て剥ぎ取り突き詰めてしまえば結局、───それが答えだった。






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