04

うっ、と。

酸っぱいものが喉をかけて上ってくるのを、必死に必死に飲み込んだ。
もうすっかり慣れ親しんだものだけど、それでも、どうしても。気持ち悪さだけは飲み込めなくて、口と鼻に手を当てて、そのまま眉を顰めてしまう。

目の前には『ここ』で初めて食べられるようになった、好きな食べ物の筈のそれ。
だけど、今のわたしにはその匂いすら吐き気しか感じられないもので、それがなんだか信じられなかった。

あれ。わたし、こんなのが好きなんだっけ。
こんなの、食べれたんだっけ。

「冷奈姉?どうしたの、食べないの?」

お箸も持てないでいると、ふゆちゃんが心配そうに覗き込んできた。手を下ろして、なんとか大丈夫って伝えるために曖昧に笑う。

ふゆちゃん。優しい妹。わたし、一応お姉ちゃんなのに、いつも心配させちゃう。だめだな、わたし。お皿を少し遠ざけた。

「…冬美ちゃん食べたかったら食べていいよ。いらないんなら、俺食べるし」
「え、でも……ね、冷奈姉。今日の和風だから、さっぱりして美味しいよ。ハンバーグ、一番好きだよね……?だからお母さん、」
「最近食欲無いんだ。だよね、冷奈ちゃん」

でも他は食べなよ、って。

ずいっと差し出されたお椀とお皿に、ぎくしゃく頷く。そのままジッと視線が突き刺さったままだから、震えないように注意して、お箸を掴んだ。……食べなきゃ。「……いただきます」…………きもちわるい。

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結局、食べれたのは、味噌汁とサラダをほんの少しだけ。お米は食べられなくて、手も付けずに炊飯器に戻した。最近、こんなのばっかりだ。

ぱちんと手を合わせて、ごちそうさまをして。待っててくれたとうやくんに片手を引かれて、とぼとぼ廊下を歩く途中。「ほんとはもっと食べなきゃ駄目なんだからね」なんて。ツンツン怒る後ろ姿をこっそりそっと盗み見る。

───もう、ほとんど。白くなってしまった、髪。紅を見つけることが難しくなってしまった、髪。

逃げ出したくなる気持ちをなんとか抑えて、白い髪から目を逸らした。「……ごめんなさい」謝るのを、忘れずに。

「……、とうやくん、こっちじゃない、よ……?」

なんにも考えないで、視線も床と仲良くしていたから、気付くのが遅れた。
おうちは広い。ちょっとした、迷路みたい。でもこの廊下は、道場に行ける道じゃなかった。とうやくん、間違えちゃったのかな。珍しい。
でも、早く、行かなきゃ。

早く訓練しないといけないから。
もっと、もっと……個性、使わないと、いけないから。

そしたら、今日こそ。今日こそ───、

「……冷奈ちゃんは次の病院の日まで、個性使うのお休みね」
「、え……?」
「当たり前だよ。昨日冷奈ちゃん、……血…吐いちゃったんだからさ」

───そんなことで?

勝手に動いていた足が両方とも止まった。繋いだ手の先のとうやくんも、一歩進んで立ち止まる。
とうやくんがゆっくり、わたしの方に振り返る。うるうるの大きな瞳。心配に揺れる、綺麗な蒼。

……でも、言ってることはめちゃくちゃだ。なけなしの勇気を振り絞って、小さな声で反論する。
血を吐くなんてそんな、そんなの、

『まえ』からずっと、そんなのだ。

「、とうやくんだって、やけど、してる……!」
「……冷奈ちゃん、これはそういう話とは違うんだよ」
「違くないよっ!おかしいよ、なんで急に、そんなこと…っ!お、お父さんと同じこと言うの、よくないよっ!」

よくない。これはすごくよくないことだ。

だって、だって、薬はもう、取り上げられている。とうやくんにぜんぶ取り上げられた。
わたしにできることなんて、あとはもう、個性をたくさんたくさん使うだけしかできないのに。光る銀も、高い所も、ダメだから、わたしにはもう、これしかないのに。

なのにとうやくんはダメって言う。お父さんと同じようなことを言ってまで、ダメって。そんな、そんなのよくない。

よくないよ、そんなの……!

「、おな、じ……?、っ全然違うよッ!だって、だって今の冷奈ちゃんッ───!」

「れなねぇ!とーやにぃ!」

なにか言いかけていたとうやくんが、少し近くの幼い声にハッとして。わたしも揃って口を閉ざした。

元来た廊下を振り返ったら、ほんの少し紅が混じった、白くて小さな男の子がとてとてこっちに走ってくる。その後ろをゆったり歩いてるのは白い、髪の…………、見たくなくて、そっと視線を下に落とす。

ぽすん。お腹に軽い衝撃。

ほんの少しよろめいちゃって、でも後ろにいたとうやくんが支えてくれた。
ありがとうって、ギクシャク瞳も見ないで声をかけて。抱きついてきた男の子の頬に、そっと掴まれてない手の甲を当てた。「つめたーい!」何も知らずにふわふわ笑う弟に、吊られて少し笑ってしまう。

なっちゃん。かわいい、わたしの、弟。

「…なに、夏くん。なんか用?」
「!とーやにぃ!おふろ!なつくんと入ろ!」
「……、夏くんと?」
「、おふ、ろ?」

キラキラ。わたしととうやくんを見上げてくるなっちゃんは、とってもかわいい、けど。
だけど予想してなかった言葉に少し、困惑。さっきのことも一旦忘れて、思わず二人で顔を合わせた。


お風呂。
なっちゃんが、
俺たちと?
うん……。
……なんで?
わかんない……。


なっちゃんに聞かれないように、視線だけで簡単に話してもやっぱりよく分からなかった。
いつの間にかなっちゃんにスリスリ頬擦りされていた手は、とうやくんに回収されていて。

きょとんとするなっちゃんと、首を傾げるとうやくんに、両手を掴まれたままの、わたし。

はてなばっかりの空気にどうしようって。どう答えたら良いんだろうって。二人で少し困っていると、追い付いた静かな声にそっと名前を呼ばれた。

「───冷奈、燈矢」

どこか気遣わしげな響きに、身体は正直に揺れる。「おかーさんっ」緩い方の拘束がパッと無くなって、なっちゃんが……お母さんへ駆け寄った。
きゅっと、掴まれたままの両手に一度だけ力が篭もって。片手だけ離れて、とうやくんが、わたしの身体を後ろに隠す。

少しだけ視界に入り込んだ丸いお腹に、目を瞑って俯いた。

「……なに」
「燈矢。お母さんね、冷奈とお話ししなきゃいけないことがあるの。悪いのだけど、その間に夏くんとお風呂に入っててくれないかな」
「、俺が?…その話、俺も聞くよ。お風呂、冷奈ちゃんも一緒に入んなきゃだめだし」
「……貴方達、もう学校でもお姉さんとお兄さんでしょ?そろそろお風呂は、別々に入らないとね」

だから今日は冷奈はお母さんと一緒に入ろうね、なんて。……困ったような声に、隠れるように身を縮ませて、ぎゅっと、とうやくんの服の後ろを摘んだ。

……絶対、いや。「…冷奈ちゃんは嫌だってさ」
今、お母さんは見たくない。「俺とじゃないと、嫌だって」
二人きりなんて……冗談じゃない。「……それで?話ってなに?」

「……燈矢……、」

優しいとうやくんが、わたしの思ってることぜんぶ分かってくれて、そうして代わりにやんわり包んで話してくれる。お母さんは困り果てているけれど、それでもぜんぶ、わたしの思ってることに寄り添ってくれた。

……ほんとはこういうのも、よくないこと。とうやくんに迷惑ばっかりかけてる自分が、すごくすごく、嫌になる。

…………嫌に、なる。「……冷奈、」聞こえる名前に、耳を塞ぎたくなった。

丸いお腹で大変そうに少し屈んで、お母さんがわたしを覗き込む。でも見たくない。見たくないの。くしゃっと服を掴む手を強めて、あったかい背中に、情けない顔を埋めた。

「最近、元気ないね。ご飯もよく残しちゃう」
「……」
「学校も、お休みが多くなってきて……病院の先生は季節の変わり目だからって言ってたけど…お母さん、おまえのことが心配なの」
「……、」
「……、ね、冷奈。なにかあったなら、お母さんに教えてほしいの。学校のことでも……その…………、他の、ことでも。冷奈が困ってることがあるならお母さんに、」

「困ってることがあるならお母さんに言うよ。話、それだけ?じゃあ俺たち、部屋戻るからさ」

行こ、冷奈ちゃん。

お母さんを遮って、とうやくんは無理矢理話を終わらせてくれた。「えーっ!?とーやにぃ、なつくんとおふろはーっ!?」「また今度ねー!」手を引かれて、少し大股で部屋までの道を辿っていく。「、燈矢…!」窘めるような声には、無視をして。

歩く。歩く。必死に、歩く。空いた片手で口を塞いで。

気持ち悪かった。
…………きもちわるかった。


「……『お母さんに教えてほしい』、ね。……どの口が言ってんだよ。……言えるわけないじゃん。冷奈ちゃんが辛いの、お母さんのせいってのもあるのに」

後ろを振り向いても、お母さんもなっちゃんも見えなくなってから漸く、少しだけ歩幅が緩んだ。詰めた息を吐き出す。お母さんのせい。───お母さんの、せい?

違う、お母さんは悪くない。なにも悪くないよ、とうやくん。

込み上げる吐き気をなんとか抑えて、違うって、そう声を出そうとして、


「───大丈夫だよ、冷奈ちゃん」


そうして紡ごうとした言葉は、だけど先に口を開いたとうやくんによって、手の中に篭って消えてしまう。

もうずっと、聞き親しんでしまった、耳障りの良いその、毒ノ葉で。

「……大丈夫。そんな都合良く、産まれるわけ、ないからね」

繋いだ手を、細い指で撫でられて。何を言えば良いか分からないわたしは、ぐちゃぐちゃの思考できゅっと口を結ぶことしかできなかった。

とうやくんは振り返らなかった。
とうやくんが本当はどんな顔をしてるのか、わたしには分からなかった。


まだ、アレが産まれてしまう前の、話のこと。






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