04
大きな蒼に、水の膜が張る。
普段はぽやんと微睡みの中にいるその顔は、今では悲痛に歪み、見る者にこんな苦行は無いと訴えかけた。
そんな冷奈に精一杯の力で、それでも燈矢にしてみればあまりにか細く、そうして柔く。自身の片手を握られる。「がんばれ、」出来うる限りの心配を込め、無駄な声援を耳元にひとつ。
たっぷりと涙を含んだ蒼と絡み。
落ちる、と思った端から水は張力に耐え切れず。
ころん、ころん。透明な雫は『個性』により氷となって頬を滑る。
───その宝石の誕生のような落涙の、なんと美しいことか。
渇く喉に燈矢は無理くり唾液を押しやった。
痛みに耐えかね流しているのだというのに、涙を拭ってやることもせず。燈矢は空いているもう片方の手で口元を覆い、そっと視線を地へ伏せる。
褒められた趣味でないことは自覚していたが、それでも背筋をかけ上るナニカとアレが欲しいと鳴く欲望は、止めることができなかった。
燈矢はこの瞬間が、一等一等、好きだったので。
「はい冷奈ちゃん、注射終わったよぉ。今日も頑張ったね!」
「いたぃ」
うぇぇ、とにこやかな看護師の拘束から脱出し、冷奈が燈矢の胸元に飛び込んだ。
可哀想に。
可愛そうに。
…………かわいい。
一目散に自身に抱き着き、そうして泣きじゃくる冷奈に必然目尻が緩む。
柔い髪を気遣うよう梳いてやり「よく頑張ったね」と囁きひとつ。「……ちゅうしゃ、もうしたくないよ」くぐもる涙声の訴えには曖昧に頷き、他方内心ではまぁ無理だろうな、と燈矢は無慈悲にバッサリそう思った。
【異性一卵性双生児】
燈矢と、取り分け冷奈が、定期的に病院に行かなければいけない理由はそれにあった。
双子、というのは同性の一卵性双生児か二卵性双生児が一般的で、燈矢も詳しくは理解出来ていないが、要するに一卵性双生児なら同性が一般的なのに、燈矢が男で冷奈が女だから、それが酷く珍しいという話のようだ。
聞く話によると元々は燈矢も冷奈も共に男の一卵性双生児として産まれる筈だったが、冷奈のなんとかという遺伝子だったか何だったかが欠落したが為に、結果的に冷奈だけが女の子として産まれたらしい。
こんなにかわいい冷奈が、本当は男として産まれる筈だった……なぁんて。
燈矢にしてみればイマイチ上手く想像出来なかったが、担当医の雑談によると同性の一卵性双生児は、まるでコピーのように、その容姿は似ていると言う。
即ち、冷奈の容姿は、まるで鏡像のように、自身と瓜二つになる筈だったということだ。
燈矢は想像する。冷奈にしてやることと同じことを、自分と全く同じ容姿の男にすることを。
燈矢はすぐに後悔する。おぇぇ。軽率に想像するものではなかった。
しかし、まぁ。
燈矢からすれば己の精神と三半規管にクリティカルにヒットするだけの話なのだが。ただこの異性一卵性双生児というのは歴史を遡っても、片手で数えられるかどうかというレベルらしく、更に『個性』発現以降で絞れば、記録上では燈矢と冷奈、この一組が初の出生となった。
それを知った時の衝撃を、燈矢は今でも覚えている。
正しく、冷奈の言葉通り、自分たちは『とくべつ』で『うんめい』だったのだ、と。
「先生、冷奈は……」
そうして。『とくべつ』で『うんめい』な燈矢たちは、遺伝子だの個性だのを研究をしている者からしても特別で、良い研究対象になるそうだ。
実際、いくつかの研究機関が燈矢たち双子へ研究協力を願いでているし、なんなら過去の冷奈誘拐未遂事件もこれに起因した。
尤も、燈矢への個性特訓の時間確保や、そもそもよく知らない研究機関への協力などNo.2ヒーローが許すはずもなく。尽く権力を持って跳ね除け、唯一冷奈の治療のついでという形で研究協力の許可を出したのがここセントラル病院であった。
「うんうん、そうですね……」
───そう。冷奈の、治療。
冷奈の場合、遺伝子の設計の段階でそのなんとかという遺伝子が欠落していた為に、こうして定期的な検診と治療を余儀なくされている。
なんとかという遺伝子は成長という意味で割と重要なものだったようで、このまま何も手を施さないままだと、冷奈は他人よりずっと小さな身長のままなのだそうだ。
今でさえ一つ下の妹である冬美より小さな冷奈。
多種多様な『個性』社会であるとは言え、それでも平均から並外れた身長というのは、時にハンディとなってマイノリティを襲ってくる。
周囲の大人は純粋に心配し、或いはそれをだしに。冷奈へ治療だの研究だのをしようとする。
しかし当の冷奈本人は異常に病院、医者、看護師、取り分け注射を嫌っているため、病院に行くくらいなら小さくても良い!と徹底抗戦のスタンスを取り続けていた。
しかし哀しいかな。小さいが故に本人にとって必死に行われている抵抗も、いっそ哀れなほど虚しく。毎度あっさり連行されてはぴぃぴぃ病院で泣きに泣かされ、これまた毎度付き添っている燈矢に慰められながら「もうぜったいいかない!」とぷんぷん怒って家路に着く。
「(良いと思うんだけどなぁ。ちいさいままのれなちゃん)」
ぺしょぺしょ、自身に泣きつく冷奈の髪を梳き、燈矢はぼんやりそう思う。
幼く、小さく。自分では何も出来ずに燈矢に頼るしかない冷奈というのはとても、とても。かわいいと思うので、燈矢も内心この治療自体には反対している。
……だというのに。冷奈の肩を持ち完全に庇いたてたり、治療の反対をするまではせずに。冷奈の代弁だけに留めているのは、偏に、偏に。燈矢の悪癖故であった。
病院に来れば採血や接種をする為、嫌でも注射が待ち構えている。
冷奈は注射が一等嫌いで、その時間になると、いつだってコツン、コツン、と勿体ないほどの量の氷の粒が床に散りばめられるまで泣いてしまう。
───燈矢は、冷奈の涙が、好きだ。
こぼれそうなほど大きな瞳がうるうると揺れ動く泣き顔が好きだし、
『個性』に耐えきれず氷となって零れてしまう、他人とは違う一等美しい涙が好きだし、
そうして落ちてしまう氷を掬い、柔い涙をパキン、と奥歯で噛み砕くのが、何より何より、好きだった。
三つ目は鬱陶しい周囲の目が多くて難しいにしても、それでもココに来れば合法的に、誰に咎められることなく、片割れの泣き顔とその涙が見れた。
だから燈矢は大っぴらに冷奈への治療を反対できない。
しかし塩梅を間違え、治療を勧めれば、冷奈から懐疑の目を向けられる。築いてきた絶対の信頼を、こんなところで傷を付ける訳にはいかなかった。
優しく片割れを慰める燈矢の姿は、傍目から見れば、冷奈本人には勿論のこと、大人からも冷奈のご機嫌取りとして、大変頼りになる存在だ。
しかし実際は己の欲と打算を秤にかけ。
目先の欲に寄りつつも、冷奈の唯一の味方で理解者という立場を手離すリスクまでは犯さず。
決定打に欠けるままに、ゆらりゆらりと行動しているだけであった。
実際は、そんなものである。
「───うん、そうですね!この症例の子は合併症が見受けられる事もあるんですがね、採血の結果次第ではあるんですがね、他の所見を見るに冷奈ちゃんは今のところ問題なさそうですね!」
くるり。
母に先生、と呼ばれた男が椅子ごとこちらに振り向き、燈矢もチラ、とその様子を見遣る。
男、というか、白衣を着た二足歩行の、熊だ。
個性、熊。
リアリティのない平和な絵面とくりくりとした大きな瞳が子供たちに大人気なチャームポイントですね、とは本人談だが、そのどこを見ているか分からないご自慢の大きな瞳には一切光が入っていないわ、なんなら瞳の下には常時隈が居座っているわで、滲み出る不気味オーラにより燈矢たち双子からの反応は微妙だ。
これで遺伝子、『個性』分野ではそれなりの権威のある研究者であり、医者であり、冷奈の主治医でもある。
「この調子なら次の段階に行っても問題ないですね」
「せんせー、次って?」
「うんうん。燈矢くん。良い質問ですね」
目の前では、がくんがくん、と丸っこい頭部を激しくヘッドバンキングする熊。黒い瞳はずっと開けっ放しである。
こわい。燈矢は冷奈を抱き締める力をほんの少し強めた。何故母は平気なのだろうか。普通にこわい。
「冷奈ちゃんの身体にですね、成長ホルモンというですね、これから身長を伸ばすのにとーっても必要なものをですね、投与する段階に来たということなのですね」
「以前仰っていたものですね……。あの、先生、見ての通り冷奈はその、注射が苦手で、やはり飲み薬などは無いのでしょうか……?」
「……注射?」
また注射増えんのか。可愛そうになぁ。
ふぅん、と増える涙の機会への悦びを、これっぽっちも思っていない哀れみへ上書きし、片割れへと伝えてやる。
うつらうつらと船を漕いでいた冷奈にも不穏な言葉は聞こえていたのか、頭上にクエスチョンマークを飛ばしながらきょろきょろし始める。
かわいい。緩む口角。
───そうして、突如投下される、爆弾。
「お母さん、成長ホルモンは内服では意味がないのです!しっかり毎日お家で忘れずお注射することが大事なんですね!」
『しっかり毎日お家で忘れずお注射することが大事なんですね!』
『しっかり毎日お家で忘れずお注射することが大事なんですね!』
『毎日、家で、注射、』
ぐるり。
喋る熊の言葉が脳内を巡り、ゆっくりと咀嚼される。
熊は言った。
次の段階に行っても問題ないと。
次の段階というのは、冷奈の身長を伸ばすためのものだと。
即ち。毎日、家で、注射を、しろと。
───一拍後。
理解してしまったあまりの事態に、燈矢は酷く動揺した。
「家で!?」
「まいにち!?」
揃いのタイミングで聞こえた悲痛な叫びに、燈矢はハッと慌てて零れる本音を手で覆い、堪えるようになんとかして感情全てを飲み込んだ。
家で、これを。家で、見れるのか、これを。毎日、家で。
腕の中の片割れは世紀の反抗を見せているが、他方、思ってもみなかった出来事に軽くパニックを起こしかけている燈矢はもうそれどころではない。
毎日注射をするということは、毎日冷奈が泣いてくれるということである。
しかも『世界』にはそれは仕方ないこととして処理される。
それは、それは……上手く、動けば。
あの一等格別な燈矢だけの氷菓子を『毎日』楽しめるということに、他ならない。
「、とーやくん、」
縋り付くような声で片割れに名を呼ばれ、燈矢はゆうくり瞳を開く。
腕の中には泣きそうな瞳で、もう燈矢しかいないのだと言わんばかりに助けを求める、冷奈の姿。
脳裏に過ぎるは毎日自身に泣き縋る、確約された冷奈の姿。
カツン、どこかで音がする。
当然に、欲と打算の天秤は均衡を崩すほかなかった。
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ぽろり、ぽろり。ころり、ころり。
嘘と、本音と、思ってもいないこととを、混ぜ込み丸め込み囁けば、涙を流して冷奈は漸く頷いた。
指先に触れた宝石は、ゆらぎ、とけて、そうして涙。
少しの熱にも弱い成れの果てに、燈矢はそっと舌を這わせる。
今は滴となったそれも、暫くすれば氷菓のままに楽しめる。
二人きりの空間でなら、流れる氷にそっと唇を寄せたとしても、誰にも何も咎められないのだから。
良い子、良い子。進む大人の会話に最低限の意識を向け、優しく頭をかき撫ぜる。
良い子、良い子。『良い子』で、居てね。
そしたら燈矢は至福を得られる。
ゆるり、片割れには見せられないような笑みを浮かべ。
来たる幸を噛み締めた。