真夜中のシンドローム 栄光なんてもんは持つもんじゃない。そんなもんがあるから、縛られて苦しくなる。 神崎翔馬。大々的に見出しが付けられたスポーツ新聞。 活躍の二文字が躍っていた頃の自分を思い出し、翔馬は苦々しく首を振る。 この厄介な亡霊にとりつかれ、もう何年経つのだろう。 歩くたび膝がうずく。 あの日、確実に栄光は目の前にあった。 滑り出しは上々。技の切れもいい。空が近い。いつもよりのっている自分が怖いくらいだった。風の感触が心地よい。この技を決めれば、割れんばかりの歓声が翔馬を包むはずだった……。 悲劇なんてもんは、こういう時に起こるもの。 翔馬はベッドの上で、つくづく己の運のなさを呪った。 その日以来、翔馬は世間を嫌い、メディアと無縁な生活をするようになって行った。 ここはいい。 行き交う車や通行人を誘導しながら、翔馬はふと思う。 コンビニ弁当を缶ビールで流し込み、寝る。 休みの日は、何もせず、ゴロゴロと寝て過ごす。 淡々とした日々。 希望も目標もない、時間に飼い成された家畜のように生きていく。 自分にはそれしか残っていない、とその瞬間まで翔馬は思っていたのだが……。 水道管工事。 深夜、通りを女が血相を掻いて走って来るのが見え、翔馬は眉根を寄せる。 「おまわりさん助けて」 え? なんとなく想像はつく。 夫の暴力とか、ストーカーからとか、そういった類のものから逃げてきた的なことであろう。 面倒はごめんだった。 「オレ、おまわりじゃ」 有無なしで、手を引っ張られ、翔馬は暗がりの壁際へ追いやられたかと思うきや、形勢逆転させられ、女がいきなりキスをしてきた。 どうしてこんな事態に……。 いきなりキスをされた翔馬は、瞬きをするのも忘れてしまっていた。 熱烈なキスに、次第に翔馬は迷いながらも女の腰へ手を回す。 車が一台通り過ぎ、数名のスーツ姿の男が通り過ぎて行く。 「ちょっと、いつまで引っ付いてんのよ」 衝動的に女を抱きしめてしまっていた翔馬は、言われて、ハッとして飛び退く。 「何とかまけたかしら?」 手を翳し、男たちが去っていた方を眺めながら言う女に、ムッとした声で翔馬が話し掛ける。 「あの」 翔馬が声を掛けたのは、あくまで社交辞令的なもんだった。 「おまわりさん、一回くらいキスしたからって、公務執行妨害とか言わないでよ」 いけしゃあしゃあと言ってくる女を許しがたい目で、翔馬は見る。 「いったいどういうつもりなんだ」 「どういうつもりもないわ。危機だったのよ。文句ある? 一般市民を守るのが、あなた方、おまわりさんの役目でしょ」 女は首を伸ばし、男たちが去って行った方をしきりに気にしながら、言い返す。 「だからオレはおまわりじゃ」 「おーい」 その段で、同僚がトイレから戻ってきて、気を逸らされてしまう。 返事を返し、翔馬が振り返った時には、既に女の姿はなくなっていた。 「どうした?」 「いや、酔っ払いに絡まれちゃって」 「またか。あいつら、いい身分だよな。こちとら、まじめに働いているっつうのによ、立っているだけでムカつくとか言ってきやがる」 曖昧な笑みを浮かべるだけで留めた翔馬は、もう一度、さっきの場所を見やる。 最低な出来事には、違いなかった。 5時に仕事を終わらせた翔馬はいつも通り、コンビニへ寄り買い物を済ませ帰宅する。 軽くシャワーを浴び、買ってきた弁当を食べようとしたその時だった。 チャイムが鳴らされ、翔馬は時計を見る。 7時を少し回ったところだった。 何かの間違いか、いたずらだろう。まともな用件ではないのは確かである。 無視を決め込んで、弁当に手を伸ばし掛けた翔馬だったが、眉根を寄せる。 連打で鳴らされるチャイム。 否応なしに立ち上がった翔馬は、のぞき窓から外の様子を窺う。 そこには女が一人、立っていた。 「さっきはごめん。謝る。だからここ、開けて」 何を思ったのか、女が大声を張り上げだしたのには、翔馬は面を食らってしまう。 「お願いよ。許して、ここ開けてよ」 芝居がかったもの言いに、翔馬は顔を顰める。 これでは隣近所に丸聞こえである。 焦ってドアを開けた瞬間、女に抱き付かれ、翔馬は二、三歩後ろへよろめいてしまう。 「おい」 その女に見覚えがあった。 「早く閉めて」 緊迫した声で言われ、翔馬は慌てて鍵を閉める。 「ありがとうおまわりさん」 「だからオレは」 翔馬から引き離された女性は気負うことなく、当たり前のように部屋へあがりこむ。 「おい」 「わぁおいしそう」 そう言った瞬間、缶ビールが開けられ、ガブガブと喉を鳴らし飲み始める。 「プハっ。くう、空きっ腹に利く」 「あのなぁ」 「おとといからなんも食べていなかったんだよね。いっただきます」 嬉しそうに食べ始める女性に、翔馬は為す術もなくその場に立ち尽くしてしまっていた。 いったいこれは何なんだ? 理解不能な状況である。 「おまわりさんも早く食べなよ」 にっこり微笑まれ、翔馬は一瞬、かわいいと思ってしまう自分が情けなかった。 「お前、なんでここが? まさかつけて来たのか」 「嫌だな人聞きが悪い。あとをつけて来たんじゃないのついてきただけ。それにお前じゃなくって、私にはちゃんと有村雫って名前があるんですからね」 「そんなことどうでも良い。それ、食べ終わったらさっさと出て行けよ」 それを言い捨てるのが精いっぱいだった翔馬は、寝室の襖を勢いよく閉める。 何ていう日だ。 翔馬は、耳をそば立てながら、天井を見詰めているのも束の間、すぐに瞼が重くなり、そのまま寝入ってしまっていた。 どのくらい寝てしまっていたのだろう。 ハッとし、翔馬は目を覚ます。 悪い夢を見た。 そう思った瞬間、翔馬は異変に気が付く。 「ウワっ」 驚いて翔馬がベッドから落ちた音で、女が大きく伸びをしてみせる。 「おお前」 「おはよ、う〜ん良く寝た」 「何をしてんだよ」 「何って、寝てたでしょフツウに」 「だからそうじゃなくって、出て行けって」 「もう朝っぱらから煩いな」 面倒くさそうに、ベッドからはい出た女を見て、翔馬はまたもや目をひん剥く。 「それ、オレのシャツ」 「うん、借りた。見て見て、ぶかぶか」 余っている袖を揺らし、女が嬉しそうに笑う。 まずい。翔馬はその仕草が眩しく見えて仕方がない。つい顔が緩みそうになる。 「勝手に何してだよ。脱げ、そして即行ここから出て行け」 きつい言い方をされ、女はしょげながら上目使いで聞いてくる。 「ここに居ちゃダメ?」 「ダメに決まっているだろ」 「少しくらい」 「ダメ、出て行ってくれ」 しばしの沈黙の末、女が溜息を吐く、 「やっぱ無理か」 そう呟いた女がするっとシャツを脱ぐ。 またもや翔太は目をひん剥かせる。 「お前、早く服を着ろ」 「もう何なのよさっきから、脱げって言ってみたり、着ろって言ってみたり」 「いいから」 目の宛所が分からない翔馬は、後ろ向きになる。 「ね、女の裸、見るの初めて」 「んなわけないだろ」 「そんなこと言っちゃって、本当は嘘なんでしょうおまわりさん」 首に手を回され、翔馬は見る見る赤くなる。 「おまわりさん、かわいい」 「煩い」 「ねね。私って、結構いいプロポーションしていると思わない? 今日は出血大サービス。見放題にしてあ、げ、る」 「ふざけんな。いい加減にしないと警察に通報するぞ」 「もう堅物なんだから。ま、それがおまわりさんの職務なんだろうけどさ」 「だから、オレはおまわりなんかじゃねぇ。オレはただの警備員」 「フーン、そうなんだ」 気のない返事を返しながら女は冷蔵庫をあさり始める。 「おい、何をしている? 服着たのかよ」 「うん。何だか喉が乾いちゃって」 「いいか振り向くぞ。着たな着たな?」 「お! アイス発見」 振り返った翔馬は思わず大声を張り上げてしまっていた。 「何でまた俺のシャツ着てんだよ?」 「え?」 アイスを手にした女が嬉しそうに振り返る。 「わわわわ。前を閉めろ」 「もうガタガタ煩いな。これ貰っちゃうからね」 「良いから、胸しまえ」 「大丈夫よ。私見られても平気だから。それに一応パンツは穿いているし」 「そういうことじゃなくって」 「だって無理だよ。今手が塞がっているもん」 「アイスを置きなさい。アイスを」 「嫌だ。無理。そこまで言うなら着させてよ」 女は胸を翔馬へ突き出してきた。 この非常事態にやけ気味になった翔馬が、見ないように、ボタンを掛けて行く。 「ね、テレビ見たいんだけど、どうしてないの? 着せてくれたお礼。はいあーん」 屈託のない笑顔に、翔馬はやられそうになりながら、自分を奮い立たせる。 「その服はやるから、さっさとこの部屋から出て行ってくれ」 懇願する翔馬を見て、女はにっこりとする。 「かわいい。もう仕方がない。その可愛さに免じて、わたしを、あ、げ、る」 「ふざけんな。今すぐ出て行け」 真っ赤になって怒った翔馬は、女の服を押し付け、部屋から無理矢理追い出す。 「ごめんなさい。お願い、もうちゃんとするからここを開けて」 止めてくれ。 翔馬は耳を塞ぐ。 やっと静かになり、翔馬は覗き窓へ目を押し当てる。 どうやらいなくなったようだった。 そっとドアを開け、確認しようとした瞬間、女に中へ飛び込まれてしまう。 「へへへん。どんなもんだい」 胸を張って言う女を見て、翔馬は全身から力が抜け落ちる。 「お前、本気で警察へ突き出されたいのか?」 「お前お前って失礼ね。私には有村雫ってちゃんとした名前があるんですからね。神崎翔馬さん」 「お前、どうしてオレの名前を」 「はい、郵便。ちゃんと見なくっちゃ駄目じゃない。こんなに溜まっていたわよ」 翔馬の完敗である。 どういうわけか、この日以来、有村雫と名乗る女は、翔馬の部屋へ住み着いている。 積極的に、ボディタッチをさせ、その気になるとはぐらかされる日々が、癖になりかけだしていた。 仕事に張り合いが出てくる。 帰りが待ち遠しく、翔馬はまっすぐ家へ帰る。 嬉しそうに飛びつきキスをしてくる雫を、翔馬はいつしか愛し始めていた。 そんなある日、雫が目を丸くして翔馬に尋ねる。 「どうしてこの部屋って、何もないの?」 がらんとした部屋を見回しながら聞かれ、翔馬は返答に困った。 首を傾げられ、翔馬は目をゆっくり逸らす。 「ああ誤魔化そうとしているでしょ?」 こういう時は、キスに限る。 口を塞がれてもなお、雫は質問を繰り返した。 「ね、どうして? 翔馬、趣味とか特技とかないの?」 痛くその言葉が胸に刺さった翔馬は、雫を押し除ける。 「ね、ねえってば」 後ろから抱き付かれ、翔馬の中で何かが弾け飛ぶ。 強引に服を脱がせ、無我夢中で雫の躰をむさぼる。 「翔馬翔馬」 遠くで呼ばれているようだった。 尽きた翔馬は、心が軽くなったような気がした。 「ね、誤魔化さないで教えてよ。翔馬って昔、何かしていたんじゃない。私ずっと思っていたんだ。絶対運動神経、良いもん」 何を根拠に言っているのか分からないが、翔馬は自分の腕の中で聞いてくる雫の髪を撫でる。 「まぁな。ちょっとだけ、スノーボードをな」 「スノーボードって、凄いじゃない」 その言葉がくすぐったくって、翔馬は目じりを下げる。 「じゃあじゃあ、今度一緒に行かない?」 「どこへ?」 「カナダ」 「はい?」 「でさでさ、私に教えてよ」 無邪気に言う雫に、翔馬は笑ってしまう。 「バーカ。んなのは無理」 「ええどうして? 翔馬のけちん坊」 「ケチとかじゃなくって、無理なもんは無理」 「嫌だ。絶対翔馬に教えてもらうんだ」 「あのなぁ、オレ、昔事故ちゃって、右足、ダメにしちゃったんだわ」 「だから?」 キョトンとした顔で訊き返してくる雫に、翔馬は苦笑する。 きっと少し前の自分なら、こんな会話、成立することが出来なかっただろう。 翔馬は愛おしそうに雫を見詰めキスをする。 「ずるい。また誤魔化そうとしているでしょ」 翔馬は声を立てて笑う。 しずくが馬乗りになって、質問を繰り返した。 「ね、教えてくれるよね」 「だから、無理って言ったでしょ」 翔馬が雫を抱き寄せる。 「何で? 教えるのに、ケガ、関係ないじゃない。見ててくれさえすればいいんだから」 「そう言ったって」 「ね、ね、良いでしょ?」 翔馬は、雫にかなわなくなっていた。 「しょうがねぇな」 「やったー」 その日、嬉しそうに喜ぶ雫を、翔馬は思いぞんぶん愛した。 そして、長い長いトンネルを抜けたような、すがすがしい気分で翔馬は朝を迎えていた。 隣の部屋から、雫の鼻歌が聞こえてくる。 時折混じるまな板の音が心地よい。 「朝ですよ」 翔馬のシャツを羽織った雫が起こしに来る。 「キャっ」 寝たふりをした翔馬に手を引っ張られ、雫はそのままバランスを崩して胸へ飛び込んで行く。 「もう」 念願かなって、結ばれたのだ。 「良いから早く起きて、ご飯、冷めちゃう」 「俺は雫を食べたい」 「ダメだってば、早く支度しないと飛行機に間に合わなくなっちゃうでしょ」 「飛行機って?」 「もう忘れちゃったの?」 「あれって、先の話じゃなかったの?」 「ね、私、魔法が使えるようになったんだ」 「こら。話を逸らすな」 「本当だって、信じてくれないの?」 「んなの、信じるわけないだろ」 「じゃあじゃあ試してみようよ」 「良いよ。受けて立ってやろう」 「じゃあこの指をまっすぐ見て」 大真面目な顔をして、人差し指を立てる仕草がかわいらしくて、翔馬は顔を綻ばせる。 「あなたはだんだん瞼が重くて重くて仕方がなくなります」 「それじゃ、催眠術だ」 立てた指を口に押し当てられ、翔馬は黙る。 「私が三つ数えると、あなたは眠りの世界へ放り込まれます」 そして、見事に深い眠りに就いた翔馬を、雫は愛おしそうに何度も頭を撫でる。 「この深い森を抜け出したあなたは、ここで起きたことをすべて忘れ、新しい一歩を踏み出します。もう迷いはありません。あなたが待つのは希望だけです。目覚ましが鳴った時、新しいあなたがすっきりとした気分で目覚めます。失敗を恐れず、あなたは強い精神力の持ち主です」 部屋が静かにノックされ、男が深々と頭を下げる。 「教授、お時間です」 「分かりました」 雫は身なりを整え、表へと出て行く。 「教授、彼は?」 振り返り微笑む。 「成功です。これで立ち直ることが出来るでしょう」 「ありがとうございます」 男の目には光るものがあった。 「あなたも、これで自由になれますね」 男はしばらく、顔を上げることが出来ずにいた。 彼の運転する車が、高く積み上げられた雪壁にぶつかり大破。 同乗していたのが、翔馬だった。 あの日以来、翔馬の記憶には彼は存在していない。 足のケガは転倒によるものだと思い込んでいた。 いろいろな治療を受けるように勧めたが、翔馬は一切の言葉を受け付けなかった。 朝の光に、雫は眩しそうに目を細める。 「このシャツ、貰って行くわね翔馬」 がたいがよい男が、一礼をして車のドアを開く。 「お嬢様、おかえりなさいませ」 「葛城、ただいま」 車へ乗り込んだ雫は、そっと窓に目をやる。 目を覚ました翔馬が、友人に手伝ってもらいながら荷物を運び出して行く姿がそこにはあった。 「葛城、出して」 「かしこ参りました」 うまくいく当てなどなかった。 翔馬の事故を知り、雫なりに必死で考え、心療内科医を偽り、彼へ近づいたのだ。 流れて行く景色をぼんやり眺めている雫に、葛城が話し掛ける。 「お嬢様、旦那様が急遽、今日帰国されます」 「分かっているわ。もう覚悟はできていてよ」 「左様でございますか」 「ね、葛城」 「何でございましょうお嬢様」 「人の運命なんてわからないものね」 しずくは幼いころ、雪山で遭難しかけたことがあった。 助けてくれたのが、翔馬だった。 翔馬の記憶に残っていない、小さな小さな出来事である。 その日以来、雫の中で温められてきたものがあった。 結婚の日取りが決まり、雫は心の整理をしたいと、葛城に無理を言って芝居を打ったのだ。 空港ロビー。 翔馬は何か忘れ物をしてきたような気がして、仕方なかった。 出国の手続きを済まし、一人の男性とすれ違う。 なぜか、翔馬はその男性から目が離せずにいた。 「お父様」 手を振る女性を見て、一瞬、何かが閃きかけたが、見送りに来ていた友人に声を掛けられ、気が反られてしまう。 小さくなっていく翔馬に、そっと唇を動かす雫だった。 2018/04/29 (23:47) [back] ×
|