ぽーん、とピアノを鳴らしてみた。発せられたその音は、しばし反響しつつ遠ざかり…やがて消えた。先程から何度か、繰り返し音を鳴らしている。目的はない、つけるとすれば何となく。
少女……時雨は切なげな表情で椅子に背をあずけた。ぶらぶらと足をばたつかせてため息をつく。
「情けないなぁ。私ってば」
少し、今日の授業で失敗してしまった。ただそれだけなのに後から悔しさというか、情けなさがこみ上げてくる。ただ単に、実習で音を一度外した程度だ。しかし時雨はその時、完璧を求めていただけに後悔は大きい。
これをあの人に話したらなんて言うだろうか。この程度でぐじぐじ言ってる自分に呆れるのだろうか。
「練習、しよう」
やっと心に決めて、鍵盤に指を乗せる。数少ない自慢であるピアノ。時雨は無心で指を走らせた。自分の曲くらい完璧に弾けなければ。パートナーに多大な迷惑がかかってしまう。
こんなんじゃ、ななやんやともちーに追いつけない。一十木にも、なっちゃんにも………マサにも。
(また間違えた)
弾きなおすたびに焦りを覚える。自分の指が思うようにうごいてくれなくて、唇をかみしめた。その焦りが失敗の原因だというのに、見ているところが遠すぎて、そのことに時雨は気がつかない。
がんっ、と鍵盤を叩きつけた。
嫌な不協和音が耳に響く。
「っはぁ、はぁ、はぁ…………も、やだ……こんな自分」
両手で自分を抱きしめると目をつむった。たった一度の失敗でここまで卑屈になることなんてない。なのに何故か今日は。
(みんながいて、あの人を評価するために集まって。そんな時に私はミスして。あの人の親だって顔を出していたはずなのに。完璧でありたかったのに)
自分のせいで両親に失望されたとあれば、向ける顔がない。今更何をどうしたって無駄だが、とにかくピアノを弾いていなければいけないような気がした。
赤い夕日が当たる。教室を閉めなければと頭では理解していたが、時雨は動かなかった。
どれくらいそうしていただろう。ふ、と頬にあたっていた光が消えた。もう日が沈んだのか。時雨が顔を上げようと身体を動かしたその瞬間。
ふわり。
肩に何かがかけられ、その後強く抱きしめられた。
「時雨…」
「…、聖川っ!?」
聞きなれたその声に時雨は目を見開く。今、一番会ってはいけない人に会ってしまった、と慌てて離れようと身をよじるが、それを許さないというようにさらに強く抱きすくめられる。強く抱かれているはずなのに不思議と痛くない。
椅子の背もたれごと時雨を腕にとらえながら、真斗は時雨の名を吐息混じりに呼んだ。
「無理はしてくれるな。こんな時間まで教室にいると、身体が冷えてしまう」
「……。いいんだ、私なんて。聖川もいいんだよ?私のことなんて心配してくれなくったって。それにしても、今日はごめんね。音、外しちゃって」
「そんなことを気にしていたのか。大丈夫と言っただろう。お前が気に病むことはない」
「でも、外しちゃったとき、君も少し音がぶれたよね。結果として、完璧ではないものを聞かせてしまった。聞けば今日、親来てたんだよね」
前に回された腕にそっと触れ、強く握る。痛かったらごめん、と心の中で呟いた。
「でも、もう大丈夫だよ。こんだけ練習したし、もう失敗なんてしない。ああでも、そんなの今更って言うんだよね。発表は終わったのに」
ひと呼吸置いてから、話を続ける。
「パートナー、解消しよっか?たしか、丁度クラスの子一人空いてるはずだよ。相手方が退学になったらしくて」
「……」
「よく考えれば、締切寸前で曲仕上げるし、音楽以外、成績は悪いしピアノと作曲意外にとりえないし。でもここに来ると中学では褒められてたセンスすら霞んでいくし。私がわかんなくなるよ」
ははっ、と笑って後ろの真斗の頭を撫でる。
「ごめんね」
「…言いたいことは、それだけか?」
今まで黙っていた真斗が、腕を解いて時雨の横に立つと鍵盤をなぞった。ドの音を押す。
ぽーん、とちょうどよい低さの音が響いた。そのまま片手で曲を弾き始める。
「……!それ、」
「お前の曲だ。たしか、昨日嬉しそうに持ってきたやつだったな。本を読んでいたらフレーズが浮かんできた、とか言っていた」
「うん」
「…いい曲だ」
ふっと目を細めて真斗は言うと、指を離す。最後の音が数秒伸びて溶けた。
「一度の失敗くらいで気に病むな。そうされるとその…俺が困る」
「……っ、こま、る?私また、聖川に迷惑かけてたの?」
袖を引っ張ると瞳に涙を溜めながら叫んだ。
「ごめんなさい!謝るからっ、もう迷惑なんてかけないから!許して………。嫌いに、っ、ならないで…」
切羽詰ったような時雨に、真斗が少し戸惑う。壊れ物を扱うような優しい手つきで頬に触れ、それから優しく頭を撫でた。
「俺がお前を嫌いになるわけがないだろう。ほら、泣くな…………いや、泣きたいなら泣くがいい。さ、来い」
「ひじり、かわ………っ、ぁああ!っえ、ぐ」
真斗にすがりつくと、こらえていた涙を流した。みっともない、と心のどこかで思いながら、それでも優しさを無下にできなくて。包み込んでくれる優しさのせいで……
(安心する………心地良い)
「よし、よし。涙を出しきってしまえ。そしてその後は、俺に微笑んでくれよ」
「あり、がと…」
涙を袖で拭うとにへらっと笑った。それを見た真斗は安心したように息をつく。
「お前には笑顔が一番似合う。そうやって笑っていろ」
「わかった。少なくとも君の隣では笑顔を心がけよう」
「…すべての表情を見たいと思うのは、俺のわがままだろうか」
「え?何か言いましたか?」
「なんでもない。さぁ帰ろう。いつまでもここにいると風邪をひいてしまう。寮までおくりとどけよう」
さぁ、と手を引く真斗に頷くと、ピアノを閉めて歩きだした。ごめんね、という呟きには何も言わず、ただつないだ手に少し力が込められた。
(ありがと。大好きだよ)
――――――――――――
……よくわかんないですうふふ。なにしてんだろ自分、みたいなそんな気持ち。うーん、とにかく主ちゃんが卑屈なのは趣味ということで一つ。
マサの優しさを書きたかっただけ。
12.03.30
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